- 天正15年(1587)6月、九州国分けで肥後一国を与えられた佐々成政は、領国の支配を急ぎ、検地を進めました
- 7月、これに反発した隈部親永が挙兵すると、肥後の国人たちが次々に加わり、3万5000人ともいわれる大一揆になりました。成政だけでは抑えきれず、秀吉は九州・四国の大名を動員して鎮圧します
- 翌天正16年閏5月14日、成政は一揆を招いた責任を問われ、摂津尼崎の法園寺で切腹しました。家康や前田利家が助命を願ったとも伝わります
- 肥後は北半国が加藤清正、南半国が小西行長に与えられました。一揆に加わった国人52人のうち48人が戦死または処刑されたとされます
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、検地への反発から起きた一揆と、その責任を問われる佐々成政の姿が描かれると伝えられています。成政は、かつて真冬の北アルプスを越えて家康のもとへ向かった、あの「さらさら越え」の武将です(佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのか)。この記事では、肥後国人一揆の始まりから鎮圧、そして成政の切腹までを紹介します。

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佐々成政の肥後入り
佐々成政は、越中を治めていた織田家の重臣でした。小牧・長久手の戦いでは家康方につきましたが、天正13年(1585)に秀吉に攻められて降伏し、越中の大半を取り上げられます(富山城)。それでも秀吉は成政を許し、九州攻めのあと、肥後一国という大きな領地を与えました。
肥後には、それまで島津に従っていた国人と呼ばれる在地の武士が数多くいました。秀吉は国人52人の所領を安堵したうえで、成政の家臣団に組み入れます。成政は、こうした独立心の強い国人たちを、短い期間でまとめなければなりませんでした。
一揆はなぜ起きたのか
成政は、肥後の支配を急ぎ、領地の広さや収穫を調べる検地を進めたとされます。検地は、国人たちが自分で治めてきた土地に、新しい領主の力が入りこむことを意味しました。これに反発したのが、肥後北部の隈部親永です。
3万5000の大一揆へ
天正15年7月、隈部親永・親泰の父子は検地を拒んで挙兵しました。成政は7000の兵で隈部の隈府城を攻め落としますが、親永は城村城に逃れて抵抗を続けます。そのあいだに、甲斐親英らほかの国人たちも次々に立ちあがり、一揆勢は3万5000余りにふくれあがって、成政の本拠・隈本城を囲みました。
成政は多くの家臣を失い、秀吉に援軍を求めます。9月には、援軍の鍋島直茂や安国寺恵瓊の輸送隊が南関で待ち伏せにあって敗れました。一方、立花宗茂は南関を突破して隈本城への補給に成功し、のちに「西国無双」とたたえられる活躍を見せます(柳川城)。
秀吉の大動員と鎮圧
事態を重く見た秀吉は、九州と四国の大名たちに出兵を命じました。総大将は小早川秀包です。豊臣方は一揆勢の城を一つずつ攻め落とし、12月26日、隈部親永の立てこもる城村城が落ちて、一揆は鎮圧されました。
一揆に加わった国人たちへの処分はきびしいものでした。52人のうち48人が戦死または処刑されたとされます。隈部一族の12人は、柳川城に送られ、立花家の家臣12人と一対一で戦わされて、全員が討たれたと伝わります。

佐々成政の切腹
天正16年(1588)2月、成政は一揆を招いたことを詫びるため大坂へ向かいましたが、秀吉は会おうとせず、成政を摂津の尼崎に留めおきました。そして閏5月14日、成政は尼崎の法園寺で切腹を命じられます。53歳前後だったとされます(尼崎城跡)。
『豊臣兄弟!』のあらすじでは、家康や前田利家が成政の助命を願う書状を、秀長が秀吉に見せる場面があると伝えられています。かつて秀吉に敵対し、許され、大国を与えられた成政は、最後は一揆の責任を一身に負わされる形で世を去りました。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 天正13年8月 | 秀吉に攻められて降伏。越中の大半を失う |
| 天正15年6月 | 九州国分けで肥後一国を与えられる |
| 天正15年7月 | 隈部親永が挙兵し、肥後国人一揆が始まる |
| 天正15年12月26日 | 城村城が落ち、一揆が鎮圧される |
| 天正16年2月 | 成政が詫びのため大坂へ。尼崎に留めおかれる |
| 天正16年閏5月14日 | 尼崎の法園寺で切腹 |
| 天正16年 | 肥後北半国は加藤清正、南半国は小西行長に |
一揆のあとの肥後 ─ 加藤清正と小西行長
成政のあと、肥後は二つに分けられました。北半国は加藤清正、南半国(球磨郡をのぞく)は小西行長に与えられます。清正はのちに熊本城を築き、行長は宇土城を本拠としました(宇土城跡)。秀吉が子飼いの武将を肥後に置いたのは、国人の力が強い肥後を、今度こそ確実に治めるためでした(加藤清正とは)。

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よくある質問
Q. 肥後国人一揆とは何ですか?
A. 天正15年(1587)7月、肥後を与えられた佐々成政の支配に反発して、隈部親永ら肥後の国人たちが起こした大規模な一揆です。12月に鎮圧されました。
Q. 佐々成政はなぜ切腹させられたのですか?
A. 肥後国人一揆を招いた責任を問われたためです。天正16年閏5月14日、摂津尼崎の法園寺で切腹しました。
Q. 肥後国人一揆はどうやって鎮圧されたのですか?
A. 秀吉が九州・四国の大名を動員し、小早川秀包を総大将として一揆勢の城を攻め落としました。12月26日に城村城が落ちて鎮圧されました。
Q. 一揆のあと肥後はだれのものになりましたか?
A. 北半国は加藤清正、南半国(球磨郡をのぞく)は小西行長に与えられました。
まとめ
九州国分けで肥後一国を得た佐々成政は、支配を急いだことで国人たちの大一揆を招きました。秀吉は大名たちを動員して一揆を鎮圧し、成政は翌年、尼崎で切腹を命じられます。肥後は加藤清正と小西行長に分けられ、秀吉の子飼いの武将が九州の中心に置かれることになりました。北野大茶湯がたった1日で終わった理由として、この一揆の知らせを挙げる説もあります。
参考:『九州御動座記』/『甫庵太閤記』/『小早川家文書』
