豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実|聚楽第の完成、バテレン追放令、肥後国人一揆、1日で終わった大茶会

建設中の聚楽第を見上げる秀吉の後ろ姿のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送の予定です。九州攻めを終えて京に戻った秀吉が、完成した聚楽第と北野大茶湯で天下に力を見せつける回になりそうです
  • 史実の天正15年(1587)は、5月に島津が降伏し、6月に博多でバテレン追放令、7月に肥後で国人一揆、9月に聚楽第の完成、10月1日に北野大茶湯と、出来事が続いた年でした
  • 北野大茶湯は身分を問わずだれでも参加できた大茶会でしたが、10日間の予定が1日で打ち切られています
  • 肥後の一揆の責任を問われた佐々成政は、翌年閏5月に切腹しました。華やかな茶会の裏で、九州の支配はまだ固まっていなかったのです

『豊臣兄弟!』第42回のサブタイトルは「北野大茶湯(きたののおおちゃのゆ)」です。九州攻めを終えた天正15年(1587)、秀吉は京に戻り、新しい政庁・聚楽第を完成させ、北野天満宮で大茶会を開きました。この記事では、第42回の舞台になる半年間に実際に何が起きたのかを、四本の補助線でたどります。前回の第41回については第41回「家康の野望」あらすじ予想と史実をどうぞ。

▷ 放送前の見どころ(予想)
伝えられているあらすじでは、物語は天正15年9月、聚楽第の完成から始まります。秀次(山田涼介)が完成を祝う大茶会を提案し、秀長(仲野太賀)は「まだ早い」といさめるものの、秀吉(池松壮亮)の勢いは止められません。当日は千利休(吉岡秀隆)のわびた茶室に人が集まり、利休が秀長に意味深な言葉をかける場面もあるようです。また、秀吉がキリシタン大名の高山右近(市川知宏)に、領地か信仰かを選ばせる場面も描かれそうです。放送後にこの枠を更新します。
金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室(イメージイラスト)
北野大茶湯で拝殿の中央に置かれた黄金の茶室のイメージ(イメージイラスト)
目次

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この回の舞台で実際に起きたこと

第42回の舞台となる天正15年の後半は、九州平定の仕上げと、京での新しい政治の始まりが重なった時期です。おもな出来事を表にまとめます(史実ではこの後どうなる?第38回以降の年表)。

時期 できごと
天正15年5月 島津義久が降伏し、九州攻めが終わる
6月7日 秀吉が筑前の筥崎に入り、九州の国分けを行う
6月19日 バテレン追放令。高山右近が信仰を選んで領地を失う
7月 肥後で国人一揆が起こる
7月28日 京・奈良・堺に北野大茶湯の高札を立てる
9月 聚楽第が完成し、秀吉が移る
10月1日 北野大茶湯。10日間の予定を1日で打ち切る
12月 肥後国人一揆がほぼ鎮まる
天正16年閏5月14日 佐々成政が摂津尼崎で切腹

補助線①:九州攻めはどう終わったのか

天正15年、秀吉と秀長は二手に分かれて九州へ攻めこみ、秀長は日向の根白坂で島津軍を破りました。5月に島津義久が降伏すると、秀吉は筥崎で九州の国分けを行い、島津には薩摩・大隅などを残しました。詳しくは九州攻めはどう終わったのかと根白坂の戦いで秀長は何をしたのかで紹介しています。

補助線②:バテレン追放令と高山右近

九州から戻る途中の6月19日、秀吉は筥崎で宣教師の国外退去を命じるバテレン追放令を出しました。このときキリシタン大名の高山右近は、信仰を捨てるか領地を捨てるかを迫られ、信仰を選んで大名の地位を失います。右近は利休の高弟の一人でもありました(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか、利休七哲とは)。

補助線③:北野大茶湯はなぜ1日で終わったのか

10月1日の北野大茶湯では、秀吉と千利休・津田宗及・今井宗久の四人が茶頭となり、身分を問わず集まった人びとに茶をふるまいました。高札は「茶がなければ麦こがしでもよい」とまで呼びかけています。ところが10日間の予定は初日だけで打ち切られました。理由は諸説あり、はっきりしません(北野大茶湯とは、天下三宗匠とは、北野大茶湯に庶民はどう参加したのか)。

▽ よく語られる話
北野大茶湯は、肥後で一揆が起きたという知らせが届いたため、急に中止された。
▼ 史実ではこうです
一揆の知らせが原因という説はよく知られていますが、一揆は7月にはすでに始まっていて、10月1日になって初めて知らせが届いたとは考えにくいという見方もあります。秀吉が満足した、疲れた、人が思ったほど集まらなかったなど、ほかにもいくつかの説があります。

補助線④:肥後国人一揆と佐々成政

九州の国分けで肥後一国を与えられた佐々成政は、領内の支配を急いで検地を進め、これに反発した国人たちが7月に一揆を起こしました。成政だけでは抑えきれず、秀吉は周りの大名を動かして鎮圧します。成政は一揆を招いた責任を問われ、翌年閏5月に切腹しました(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。そのあと肥後は、北を加藤清正、南を小西行長が治めることになります。

次回以降に効いてくること

第43回「殿下の刀狩り」(11月8日放送予定)では、肥後の一揆を受けて、秀吉が天正16年7月に出した刀狩令が描かれそうです。同じ年の4月には後陽成天皇を聚楽第に迎える行幸があり、8月には北条氏政の弟・氏規が上洛します。北野大茶湯で絶頂を迎えた秀吉の政権が、どう天下の仕組みを固めていくのかが次の焦点です(太閤検地と刀狩とは)。

賤ヶ岳から5年後、七本槍がどこまで出世していたのかは、天正16年、七本槍はどこまで出世していたのかで一覧にしています。

よくある疑問

Q. 第42回はいつ放送ですか?
A. 11月1日(日)の予定です。

Q. 北野大茶湯はいつ開かれましたか?
A. 天正15年(1587)10月1日です。

Q. 聚楽第はいつ完成しましたか?
A. 天正15年9月に完成し、秀吉が大坂から移りました。

Q. 佐々成政はいつ切腹したのですか?
A. 天正16年(1588)閏5月14日、摂津尼崎の法園寺で切腹しました。

まとめ

第42回「北野大茶湯」の舞台となる天正15年後半は、九州平定、バテレン追放令、聚楽第の完成、北野大茶湯と、秀吉の天下が形になっていく半年でした。しかしその裏では肥後で一揆が起き、佐々成政はその責任を負って命を落とします。だれでも参加できた大茶会が1日で終わったことは、絶頂にある政権のはなやかさと、まだ固まりきらない危うさの両方を映しているのかもしれません。

参考:「北野大茶湯之記」/『兼見卿記』/『多聞院日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会

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