国人一揆とは何か|国人の意味と土一揆・一向一揆とのちがい ─ 肥後から奥州まで、秀吉の時代に起きた国人一揆を一覧で解説

山あいの小さな山城に国人と百姓が集まり、迫る大軍をにらむイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 国人とは、鎌倉・室町時代から一つの土地に根を張ってきた地元の武士のことです。国衆とも呼ばれます
  • 国人一揆とは、もともとは国人どうしが結束して約束を交わすことでした。のちに、外から来た権力に国人たちが力を合わせて抵抗することを指すようになります
  • 秀吉の天下統一のころ、九州や奥州で国人一揆が相次ぎました。新しい領主の入国、検地、刀狩りなど、土地のしくみを上から変えることへの反発が原因でした
  • 肥後国人一揆をはじめ、天草・豊前・紀伊北山・葛西大崎・和賀稗貫・出羽・九戸と、豊臣政権期の一揆を一覧でまとめます

『豊臣兄弟!』第42回の予告では、佐々成政が治める肥後で「大規模な一揆」が起きることが告げられました。肥後国人一揆です。では、そもそも「国人一揆」とは何なのでしょうか。百姓の一揆や一向一揆とは何がちがうのか。そして、秀吉の時代にはどこでどんな国人一揆が起きていたのか。この記事では、国人一揆の意味から、豊臣政権のころに全国で起きた国人一揆までを、一つずつたどっていきます。

山あいの城に地元の武士と百姓が集まるイメージ(イラスト)
山あいの城に地元の武士と百姓が集まるイメージ(イラスト)
目次

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国人とは ─ 土地に根を張った武士

国人とは、その国(地方)に古くから住みつき、土地を治めてきた武士のことです。鎌倉幕府の地頭の子孫や、地元の有力者が武士となった家が多く、「国衆」とも呼ばれます。

国人は、大名ほど大きな力は持っていませんが、自分の土地と村、家臣を何代にもわたって治めてきました。戦国大名は、こうした国人たちを家臣として従えることで、大きな領国をつくっていきました。逆にいえば、国人たちが従わなければ、大名は国を治められなかったのです。

一揆とは ─ もとは「心をひとつにすること」

「一揆」という言葉は、いまでは「反乱」や「暴動」の意味で使われることが多いですが、もとは「心をひとつにすること」「同じ目的のために結束すること」を意味していました。

室町時代には、国人たちが一揆契状という約束の文書を交わして結束し、互いの争いをおさめたり、守護などの大きな権力に対抗したりしました。これが本来の国人一揆です。やがて戦国時代から豊臣政権のころになると、外から来た新しい支配者に国人たちが力を合わせて立ち向かうことを、国人一揆と呼ぶようになりました。

種類 中心となった人びと 主な目的 例
国人一揆 地元の武士(国人) 土地と支配の権利を守る 肥後国人一揆、葛西大崎一揆
土一揆 百姓・村の人びと 借金の帳消し、年貢の引き下げ 正長の土一揆
一向一揆 浄土真宗(一向宗)の門徒 信仰と寺の自立を守る 加賀一向一揆、長島一向一揆
国一揆 国人と村の人びと 国を自分たちで治める 山城国一揆

表のとおり、国人一揆の中心は「地元の武士」でした。百姓たちも加わることは多いのですが、目的は土地を治める権利を守ることにありました(惣村とは、長島城)。

豊臣政権のころの国人一揆 ─ 一覧

秀吉の天下統一が進むと、全国で国人一揆が相次ぎました。とくに多かったのは、秀吉に新しく従えられた九州と奥州です。

一揆 時期 場所 原因 くわしい記事
北山一揆 天正14年(1586) 紀伊・北山(三重県・奈良県) 秀長による検地と熊野の支配 北山一揆とは
肥後国人一揆 天正15年(1587) 肥後(熊本県) 佐々成政の検地と強引な支配 肥後国人一揆とは
豊前国人一揆 天正15年(1587) 豊前(福岡県東部・大分県北部) 黒田官兵衛の入国と城井氏の移封 豊前国人一揆とは
天草国人一揆 天正17年(1589) 肥後・天草(熊本県) 小西行長の宇土城普請 天草国人一揆とは
葛西大崎一揆 天正18年(1590) 陸奥(宮城県北部・岩手県南部) 奥州仕置と木村吉清の支配 葛西大崎一揆とは
和賀・稗貫一揆 天正18年(1590) 陸奥(岩手県花巻市など) 奥州仕置での和賀氏・稗貫氏の取りつぶし 和賀・稗貫一揆とは
仙北一揆・藤島一揆 天正18年(1590) 出羽(秋田県・山形県) 上杉景勝・大谷吉継による検地 仙北一揆と藤島一揆とは
九戸政実の乱 天正19年(1591) 陸奥(岩手県二戸市) 南部家の家督争い 九戸政実の乱とは
梅北一揆 文禄元年(1592) 肥後・佐敷(熊本県芦北町) 朝鮮出兵への不満。島津家臣の反乱 梅北一揆とは

九州の国人一揆 ─ 肥後から天草へ

九州攻めのあと、最初に大きな一揆が起きたのが肥後でした。新しく入った佐々成政が検地を急いだことに国人たちが反発し、一揆は肥後全体に広がります。秀吉は九州と四国の大名を動員してこれを鎮め、成政に切腹を命じました(肥後国人一揆とは)。

同じ年、豊前でも黒田官兵衛の入国に反発した城井鎮房らが立ち上がり、さらに天正17年には、肥後の南を治めた小西行長に天草の国人たちが背きました。九州では、新しい領主が入るたびに、国人たちとの衝突が起きていたのです(豊前国人一揆とは、天草国人一揆とは)。

天草の丘の城を海から来た大軍が囲むイメージ(イラスト)
天草の丘の城を海から来た大軍が囲むイメージ(イラスト)
肥後と天草の一揆の鎮圧にあたった加藤清正の熊本城
肥後と天草の一揆の鎮圧にあたった加藤清正の熊本城

紀伊の北山一揆 ─ 秀長の領国で

一揆は、秀長の領国でも起きていました。天正14年(1586)、紀伊の熊野の山奥、北山の地侍たちが、秀長の支配に反発して立ち上がったのです。秀長はみずから出陣し、藤堂高虎らとともに鎮めにあたり、高虎は赤木城を築いてこの地を押さえました(北山一揆とは、赤木城)。

北山一揆の鎮圧のため藤堂高虎が築いた赤木城の跡
北山一揆の鎮圧のため藤堂高虎が築いた赤木城の跡

奥州の国人一揆 ─ 奥州仕置のあとで

天正18年(1590)、小田原攻めのあと秀吉は奥州仕置を行い、多くの国人を取りつぶしました。ところが秀吉の軍が引き上げると、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、出羽の仙北一揆・藤島一揆と、東北の各地で一揆が噴き出します。翌年には南部家の九戸政実も兵を挙げ、秀吉は再仕置の大軍を送ってようやく東北を静めました(奥州仕置とは)。

葛西大崎一揆のあと伊達政宗が本拠とした岩出山城の跡
葛西大崎一揆のあと伊達政宗が本拠とした岩出山城の跡
和賀・稗貫一揆の舞台となった花巻城の跡
和賀・稗貫一揆の舞台となった花巻城の跡
九戸政実の乱で豊臣の大軍に囲まれた九戸城の跡
九戸政実の乱で豊臣の大軍に囲まれた九戸城の跡

豊臣政権期の国人一揆に共通すること

こうして並べてみると、豊臣政権のころの国人一揆には、いくつかの共通点が見えてきます。

一つめは、きっかけが「新しい領主の入国」と「検地」だったことです。何代もその土地を治めてきた国人にとって、外から来た領主が田畑を測りなおし、年貢を決めなおすことは、自分たちの存在そのものを否定されるようなものでした。

二つめは、秀吉がどの一揆にも大軍で臨み、徹底的に鎮めたことです。そして一揆のあとには、刀狩令を出して百姓から武器を取り上げ、国人と百姓が結びついて立ち上がる力をそいでいきました(刀狩令とは)。

▽ よく語られる話
国人一揆は、地方の武士たちが時代の流れに逆らって起こした、無謀な反乱だった。
▼ 史実ではこうです
国人たちから見れば、一揆は先祖から受け継いだ土地と、そこに暮らす人びとを守るための戦いでした。豊臣政権の検地や刀狩りは、日本の社会を大きく変える改革でしたが、その変化は国人一揆という大きな痛みをともなっていたのです。
✎ 筆者の考え
国人一揆を一覧にしてみて、筆者はあらためて、秀吉の天下統一が「戦に勝てば終わり」ではなかったことに気づかされました。大名を従えたあとに、その下にいる無数の国人たちを、検地と刀狩りで一人ひとり押さえていく。天下統一の本当の苦労は、むしろそこにあったのかもしれません。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)の予告では、佐々成政が治める肥後で大規模な一揆が起きることが告げられました。肥後国人一揆は、この記事で紹介した豊臣政権期の国人一揆の、いわば始まりとなったできごとです。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 国人とは何ですか?
A. 古くからその土地に根を張って治めてきた地元の武士のことで、国衆とも呼ばれます。

Q. 国人一揆と土一揆のちがいは?
A. 国人一揆の中心は地元の武士、土一揆の中心は百姓や村の人びとでした。

Q. 豊臣政権のころの国人一揆はどこで起きましたか?
A. 肥後・豊前・天草・紀伊北山・葛西大崎・和賀稗貫・出羽・九戸などで起きました。

Q. 国人一揆の原因は何ですか?
A. 新しい領主の入国や検地など、土地の支配のしくみを外から変えることへの反発でした。

まとめ

国人とは、土地に根を張ってきた地元の武士であり、国人一揆とは、その国人たちが力を合わせて外からの支配に抵抗することです。秀吉の天下統一のころ、肥後国人一揆をはじめ、九州や奥州で国人一揆が相次ぎました。新しい領主と検地への反発から起きた一揆を、秀吉は大軍で鎮め、刀狩りで押さえていきます。国人一揆は、天下統一の裏側にあったもうひとつの歴史なのです。

参考:池享『戦国大名と一揆』吉川弘文館/藤木久志『刀狩り』岩波新書/小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館

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