石川清兵衛とは:『豊臣兄弟!』で伊藤健太郎が演じる大和郡山の庄屋は実在? 村はなぜ寺に年貢を納めたのか

年貢の俵を運ぶ大和の村人と、遠くに見える興福寺の五重塔(イメージ)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」のキーパーソンとして、石川清兵衛(いしかわ・せいべえ)が登場します。演じるのは伊藤健太郎さん。公式の紹介では、大和郡山の興福寺領にある村の庄屋で、「仏罰を恐れ、田の広さに見合わない額の年貢を興福寺に納めてきた」人物とされています。

ここで素朴な疑問が浮かびます。年貢はふつう領主に納めるもの。それなのに、なぜ村は寺に年貢を納めていたのでしょうか。そして、なぜ「多すぎる」額を払い続けたのか。この記事では、清兵衛の立場を手がかりに、戦国時代の大和の村と寺の関係を解説します。

この記事のポイント
  • 石川清兵衛のモデルとなる実在の人物は確認できない。ドラマ独自の人物とみられる
  • 大和には鎌倉時代以来、武家の守護が置かれず、最大の荘園領主である興福寺が実質的に国を治めていた。寺に年貢を納めることは、領主に納めることだった
  • 寺社に納める年貢は、神仏への供え物に近いものと考えられていた。納めないことは「罰が当たる」行いに見えた
  • 秀長は天正十三年(1585)、大和に入るとすぐ寺社に指出(さしだし)を命じ、興福寺の所領を大きく削った
目次

ドラマの石川清兵衛:興福寺領の村の庄屋

第37回では、四国攻めの恩賞として大和を与えられた秀長が、大和郡山城に入ります。そこで秀長が知るのが、領民が寺社に高い年貢を納めて苦しんでいるという現実です。秀長は検地をして年貢を適正に改めようとしますが、僧たちだけでなく、仏罰を恐れる領民までがそれに反対します。清兵衛は、その「反対する領民」の側に立つ村の代表として描かれるようです。

第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。

石川清兵衛は実在の人物か

今のところ、石川清兵衛という名の、大和の村の代表が史料に残っていることは確認できません。興福寺領の村の庄屋という立場を通して、当時の村人の考え方を描くために置かれた、ドラマ独自の人物とみられます。

ちなみに「庄屋」という呼び名は、村の代表を指す言葉として江戸時代に広く定着したものです(西日本では庄屋、東日本では名主と呼ぶことが多い)。戦国時代の畿内の村では、村の運営は「乙名(おとな)」や「年寄」と呼ばれる有力な百姓たちが担い、荘園の現地で年貢の取りまとめにあたる役目の者もいました。清兵衛は、そうした村のまとめ役にあたる人物と考えるとわかりやすいでしょう。庄屋・名主・肝煎の違いや、庄屋の仕事と身分については庄屋とはでくわしく解説しています。

なぜ村は寺に年貢を納めていたのか

答えは簡単で、大和では寺が領主だったからです。

鎌倉時代以降、ほかの国には幕府が武家の守護を置きましたが、大和には置かれませんでした。代わりに、大和最大の荘園領主である興福寺が、実質的に守護の役目を果たしていたのです。興福寺は春日社と一体となって国内に多くの荘園を持ち、その荘園の年貢を収入としていました。

荘園では、年貢はその土地の持ち主である荘園領主に納めるのが決まりです。大和の田の多くは興福寺や春日社の荘園でしたから、村人にとって寺に年貢を納めることは、そのまま「領主に納める」ことでした。清兵衛の村が興福寺に年貢を納めていたのは、特別なことではなかったのです。

現地で荘園の管理を任されたのは、興福寺に従う大和の武士たちでした。彼らはやがて「衆徒(しゅと)」「国民(こくみん)」と呼ばれる勢力に育ち、戦国時代には筒井氏のように、寺の力を背景に大和の覇権を争う者も現れます。

▶ あわせて読みたい

大和の戦国時代とは:守護のいない国に、木沢長政・松永久秀・原田直政・筒井順慶が入れ替わり、秀長の国になるまで
守護のいない国・大和で、誰が力を握ってきたのかをたどっています。

年貢か、奉納か:寺に納めるものの重さ

年貢は本来、土地にかかる税です。一方、奉納は神仏への供え物で、両者は別のものです。ところが大和では、領主が寺であったために、この二つの境目があいまいになりやすい事情がありました。

中世には、一度神仏に寄せられた土地やその実りは「仏物(ぶつもつ)」「神物(しんもつ)」であり、人が取り戻してはならない、という考え方がありました。寺社領の年貢は、単なる税ではなく、神仏への供え物に近いものとして受け止められていたのです。

そうなると、年貢を減らしたり納めなかったりすることは、神仏のものを奪う行いに見えます。「仏罰が当たる」という恐れは、こうした考え方から生まれていました。清兵衛の村が多すぎる年貢を払い続けたのも、損得より「罰が怖い」という気持ちが先に立っていたからでしょう。

なぜ「田の広さに見合わない」額になったのか

荘園の年貢は、昔につくられた台帳にもとづいて決められていました。田を実際に測り直すことはほとんどなく、台帳の数字がそのまま受け継がれていきます。長い年月のうちに、実際の田の広さや取れ高と、納める額とのあいだにずれが生まれるのは自然なことでした。

しかも興福寺には、その数字を押し通すだけの力がありました。興福寺は、朝廷や幕府に要求を通すため、春日社の神木を奉じて京都へ押しかける「強訴(ごうそ)」を何度も行った寺です。神仏の威光を背にした寺に、村が異を唱えるのは簡単なことではありませんでした。

秀長の指出で、何が変わったのか

秀長は、大和に入るとすぐにこの仕組みに手をつけました。天正十三年(1585)九月、秀長は寺社に指出(さしだし)を命じます。指出とは、持っている土地と取れ高を、領主に書き出して差し出させることです。寺は一日がかりで書き出す騒ぎになったと記録されています。

同じ月のうちに、興福寺からは一万石の所領が取り上げられました。翌年には、前年の申告と数字が合わないとしてさらに所領が削られ、最終的に興福寺の領地は、秀長が入る前の五分の一ほどにまで減ったとされます。のちの文禄四年(1595)の検地では、春日社と興福寺をあわせた知行は二万一千石あまりと定められました。

村から見れば、これは年貢の納め先と額が、寺の台帳ではなく、武家の領主が測った数字で決まるようになることを意味します。重すぎる年貢から解放される一方で、何百年も続いた寺との関係が断ち切られることでもありました。ドラマで領民までが検地に反対するのは、「罰が当たる」という恐れに加えて、慣れ親しんだ秩序が崩れることへの不安があったからだと考えられます。

▶ あわせて読みたい

秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか:興福寺の寺領を五分の一に
武器の取り上げ、指出と検地、城下町づくりまで、秀長の大和統治をまとめています。

まとめ

石川清兵衛は、史料で確認できる人物ではありません。けれども、彼が背負っている事情は史実そのものです。大和では興福寺が領主であり、村は寺に年貢を納めていました。その年貢は神仏への供え物に近いものと考えられ、納める額が田の広さに見合わなくても、罰を恐れて払い続けるしかありませんでした。

秀長の指出と検地は、その関係を武家の物差しで測り直すものでした。清兵衛のような村のまとめ役が、秀長の改革をどう受け止め、どう変わっていくのか。第37回は、「寺の国」が「武家の国」へ変わる入り口を、村の側から描く回になりそうです。

大和の寺に仕えた武士たちについては衆徒とは何者かで、当時の興福寺の様子を伝える記録については多聞院日記とはで書いています。同じ第37回で初登場する秀長の娘については末(すえ)のモデルは誰?で解説しています。

▶ 秀長の大和ゆかりの地をめぐる
大阪発
大和郡山の歴史旅モデルコース
豊臣秀長の郡山城・春岳院・大納言塚と大河ドラマ館(車日帰り)
  • URLをコピーしました!
目次