- 天正十三年(1585)の紀州征伐で、秀吉は紀伊太田城を水攻めにした
- 現地の案内板によれば、籠城したのは約五千人。秀吉軍が築いた堤は総延長五〜六キロ
- 攻防は一ヶ月。城主らの命と引き換えに、他の者は助命されたと伝わる
- 水攻めは強さの誇示ではない。兵を損なわず、しかも見せつけるための「土木の戦」だった
秀吉は生涯に三度、水攻めを行ったとされる。備中高松、紀伊太田、そして忍城。その二番目が、天正十三年(1585)の太田城である。なぜ、わざわざ水なのか。力攻めではいけなかったのか。その答えは、相手が誰だったかを見るとわかる。

太田城跡の案内板。籠城人数も堤の規模も、ここに記されている
紀州征伐—相手は「武士ではない敵」だった
天正十三年三月、秀吉は十万の軍を紀伊へ向けた。小牧・長久手で家康と対峙した翌年、関白になる数か月前のことである。敵は大名ではない。根来衆と雑賀衆—寺院を拠点とする僧兵集団と、鉄砲で武装した地侍の連合体である。雑賀城を拠点とする雑賀衆は、かつて信長を苦しめたことでも知られる。
ここが厄介だった。大名が相手なら、当主を降せば家臣団ごと屈服する。だが彼らには「降す相手」がいない。地縁と信仰で結びついた集団で、しかも鉄砲を持っている。力攻めをすれば、こちらの損害が大きくなる。
根来寺は焼かれ、雑賀衆の拠点も次々に落ちた。最後まで残ったのが、太田城だった。
案内板が伝える太田城
現在、太田城の本丸跡とされる場所には来迎寺が建っている。境内の案内板には、こう記されている。
天正十三(一五八五)年、豊臣秀吉の紀州攻めの……約五千人が太田城に立てこもり、秀吉軍は城を取り囲む総延長五〜六(キロメートル)……水攻めをおこなった。攻防一ケ月、ついに……を条件に他の者が助命されたとされる。
城域は来迎寺・玄通寺を中心に東西約二百五十メートル、東に大門を構えていたという。決して大城郭ではない。そこに五千人が籠もり、十万の軍がそれを囲んだ。

来迎寺に立つ「太田城址碑」。ここが本丸跡と伝えられる
なぜ「水攻め」だったのか
ここが本題である。理由は三つあると思う。一、兵を損なわないため。鉄砲を持つ集団が籠もる城に突撃すれば、寄せ手も相応に死ぬ。水攻めは、こちらが刀を抜かずに相手を追い込める。
二、時間を金で買えるため。秀吉には十万の人手と、それを養う財力があった。堤を築くのは戦闘ではなく土木工事である。兵ではなく人夫を動かせばいい。これは持っている側にしかできない。
三、そして何より、見せるため。紀伊にはまだ屈していない村や寺が残っていた。城の周囲に川の水が満ちていく光景は、「この相手に抵抗しても無駄だ」という宣伝として、これ以上ないほど雄弁だった。
つまり水攻めとは、強さの証明ではなく、動員力の誇示である。秀吉が本当に見せつけたのは、武ではなく人と金を集める力だった。この見方をすると、大坂城の築城で全国から石と材木を集めた話も、弟の秀長が大和郡山で民家一軒ずつから石を供出させた話も、同じ一本の線でつながる。豊臣の戦は、しばしば土木だった。
総延長五〜六キロの堤

水攻めのイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図で、当時の絵図ではありません。堤の上を兵が行き来し、城は水に浮かぶ島になっている—記録が伝えるのは、こういう風景です。
数字を並べると、この工事の異様さがわかる。城の東西はおよそ二百五十メートル。その城を囲む堤が五〜六キロ。城の何倍もの長さの土手を、紀ノ川の水を引き込むために築いたことになる。そして攻防は一ヶ月に及んだ。水に囲まれた城内では、食糧が尽き、衛生も悪化していく。援軍が来る当てもない。
最後は、城主らが命を差し出すことと引き換えに、他の籠城者の助命が認められたと伝わる。五千人のうち、多くが生きて城を出たことになる。

太田城の本丸跡とされる来迎寺。いまは静かな市街の寺である
水攻めの全容 ── 一ヶ月の攻防を時系列で
ここからは、太田城の水攻めがどのように進んだのかを、順を追って見ていきます。天正13年(1585)3月21日、秀吉は大坂を出て和泉に入り、根来衆・雑賀衆の拠点だった千石堀城などの城を次々に攻め落としました。23日には根来寺が炎に包まれ、紀伊の抵抗勢力は総崩れになっていきます。そうしたなかで最後まで抵抗を続けたのが、太田左近(宗正)らが籠もる太田城でした。
3月24日ごろ、秀吉は太田城を囲みました。はじめは力で攻めようとしましたが、城方の鉄砲に阻まれて少なからぬ損害を出したと伝わります。鉄砲の扱いに長けた雑賀の人びとを相手に、無理な力攻めは得策ではありません。そこで秀吉が選んだのが、三年前の備中高松城と同じ水攻めでした。

秀吉方は、城から少し離れた周りをぐるりと囲むように堤を築き、紀ノ川の水を引き込みました。堤の総延長は五〜六キロとも七キロ余りともいわれ、高さはおよそ五メートルあったと伝わります。この大工事を、わずか数日から一週間ほどで仕上げたとされ、多くの人が昼夜を問わず土を運んだのでしょう。折からの雨で水かさが増すと、太田城の周りは一面の水に変わりました。
水に囲まれた城に対して、秀吉方は舟を出して攻め寄せたとも伝わります。小西行長らが舟を率いたという話があり、城は水の上からも圧迫されることになりました。一方で、増水した水の勢いで堤の一部が切れ、攻め手の陣に水が流れ込んで被害が出た、という話も残っています。この決壊が宇喜多勢の持ち場だったとする説もありますが、細部は後世の記録に拠るものです。水攻めは、攻める側にとっても思いどおりにならない、危うさを抱えた戦法だったといえます。

水に囲まれて一ヶ月近くがたつと、城内では食料が乏しくなり、援軍の望みもありませんでした。4月22日、太田左近ら城の主だった者たちが自害し、それと引き換えにほかの籠城者は助命されて、城は開かれました。自害した者は五十人余りと伝わります。このとき秀吉は、城を出る人びとに武器を差し出させ、農具を持って村へ帰るよう命じたとされ、これをのちの刀狩りにつながる動きと見る研究者もいます。
| 天正13年(1585)3月21日 | 秀吉が大坂を出陣。和泉の千石堀城などを攻め落とす |
| 3月23日 | 根来寺が炎上する |
| 3月24日ごろ | 太田城を囲む。力攻めは鉄砲に阻まれる |
| 3月下旬〜4月上旬 | 城の周りに堤を築き、紀ノ川の水を引き込む |
| 4月 | 舟による攻撃。堤の一部が切れて攻め手に被害が出たとも伝わる |
| 4月22日 | 太田左近らが自害し開城。籠城者の多くは助命される |
| その後 | 紀伊は秀長の領国となり、和歌山城が築かれる |
いまも和歌山市の出水(でみず)には、このときの堤の一部とされる「出水堤跡」が残っています。基底部の幅が三十メートル余り、高さ五メートルほどの土の高まりで、四百年以上前の大工事の名残をいまに伝えています。
日本三大水攻め
太田城は、備中高松城・忍城と並んで日本三大水攻めに数えられる。案内板の冒頭も、この二つの城の名から始まっている。
- 備中高松城(天正十年)… 本能寺の変の報が届いた、あの城。秀吉自身の水攻め
- 紀伊太田城(天正十三年)… 本記事。紀州征伐の最終局面
- 忍城(天正十八年)… 小田原征伐に伴い石田三成が試み、落とせなかった城
三つのうち二つは成功し、一つは失敗した。水攻めは万能の必勝法ではなく、地形と水源に恵まれたときだけ成立する、条件つきの戦法だった。
なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか:十二日で築いた堤と、発掘でわかった本当の大きさ
一度目の水攻めです。堤の大きさは、発掘調査で『太閤記』の記述とずれていることがわかっています。
信長にできなかったことを、秀吉はどうやったのか
紀伊は、織田信長が最後まで完全には抑えられなかった土地である。石山合戦では雑賀衆が本願寺方につき、鉄砲で織田軍を苦しめた。信長は雑賀を攻めて一応の降伏を得たものの、根を絶つには至っていない。
秀吉のやり方は違った。根来寺を焼き、拠点を潰し、最後に残った太田城を水で囲んで一ヶ月待った。そして城主層の切腹と引き換えに、残りを助命した。
ここが要点だと思う。皆殺しにはしていない。紀伊は寺社と地侍の国で、住民ごと敵に回せば統治が成り立たない。だから「指導層だけを処断し、その他は生かす」という形をとった。恐怖と赦しを同時に見せている。
この一年後、紀伊は弟の秀長に与えられ、やがて四国平定の後方拠点として機能していく。潰すためではなく、使うために攻めた戦いだった。
大河ドラマで描かれない話
太田城の建物は残っていない。だが案内板によれば、市内・橋向丁の大立寺の山門は、太田城の大門を移したものと言われている。水に沈められ、開城し、城としては消えた。それでも門だけが寺の入口として街に残り、いまも人が毎日くぐっている。
今日の記事で扱った建物のなかで、当時の姿を伝えているのは、実はこの門だけかもしれない。
よくある質問
Q. 太田城はどこにありますか?
A. 和歌山市太田、JR和歌山駅の近くです。本丸跡と伝わる来迎寺に石碑と案内板があります。※茨城県の太田城(舞鶴城)は同名の別の城です。
Q. 水攻めで籠城者は全滅したのですか?
A. いいえ。案内板は「他の者が助命されたとされる」と記しています。指導層が責任を負う形で決着しました。
Q. 紀州征伐に豊臣秀長は関わっていますか?
A. 従軍しています。そしてこの戦いの結果得られた紀伊・和泉の約六十四万石が秀長に与えられ、のちの百万石につながりました。
ゆかりの地をめぐる
- 太田城〈紀州〉(和歌山県和歌山市)… この記事の舞台。現地の写真と案内はこちら
- 雑賀城(和歌山県和歌山市)… 鈴木孫一ら雑賀衆の拠点
- 和歌山城(和歌山県和歌山市)… 紀州平定後、秀吉が弟に築かせた新たな拠点
- 備中高松城(岡山県岡山市)… 一度目の水攻め。本能寺の報が届いた城
- 忍城(埼玉県行田市)… 三度目の水攻め。落ちなかった城
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 紀伊を含む百万石を得た秀長の居城
イラストで見る武将・姫たち
この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。
- 石田三成 … 豊臣五奉行の一人。高い実務・行政能力で秀吉を支え、関ヶ原の戦いでは豊臣家への忠義を貫いて
- 織田信長 … 天下布武を掲げ安土桃山時代の扉を開いた稀代の天才戦国大名
- 豊臣秀吉 … 尾張の農民から天下人へ上り詰めた「太閤」
- 豊臣秀長 … 兄・秀吉を支え天下を陰で動かした「補佐役」の名将
紀州攻めのあと、秀長が紀伊のどこに誰を置いて国を治めたのかは秀長は紀伊をどう治めたのかで紹介しています。
太田城の前に、秀吉は兵糧攻めで二つの城を落としています。三木合戦 完全ガイド(付城で一年十か月囲んだ戦い)と、鳥取城の渇え殺し 完全ガイド(三か月余りで決着した戦い)もあわせてどうぞ。
まとめ
太田城の水攻めは、派手な合戦ではない。誰も名乗りを上げず、一騎打ちもなく、ただ水位が上がっていくだけの一ヶ月である。だからこそ、この戦いは秀吉という人をよく表している。刀の強さで勝つのではなく、人と金と土を動かして、相手が抵抗をあきらめるまで待つ。五〜六キロの堤は、その思想がそのまま土になったものだった。
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和歌山城 ─ 豊臣秀長が築いた城と、三つの時代が層になった石垣
秀長が自ら城地を選び、縄張りを引いた城。紀伊を治め、海の向こうへ出るための足場でした。
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大河ドラマの各回の解説は 『豊臣兄弟!』特集 にまとめています。
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日帰り:北関東の戦国史を動かした巨頭たち(車・日帰り)
