九戸政実の乱とは|秀吉の天下統一の最後の戦い ─ 南部家の内紛、豊臣の大軍、九戸城の開城

九戸城:南部宗家南部信直の一族九戸政実の乱で有名な 九戸城
この記事のポイント
  • 九戸政実の乱は、天正19年(1591)、陸奥の南部家の一族・九戸政実が、当主の南部信直に背いて起こした戦いです
  • もとは南部家の中の争いでしたが、信直が秀吉に助けを求めたことで、豊臣政権の大軍が奥州に送りこまれました
  • 蒲生氏郷・浅野長吉・井伊直政・堀尾吉晴らの大軍に九戸城を囲まれ、政実は降伏して処刑されます。城にいた者たちも、多くが討たれたと伝わります
  • 九戸政実の乱は、秀吉の天下統一の最後の戦いともいわれます。北条を滅ぼしてから1年あまり、天下はまだ完全には静まっていなかったのです

「秀吉の天下統一は、いつ完成したのか」。そう問われたら、多くの人は天正18年(1590)の小田原攻めと答えるでしょう。けれど、その翌年、本州の北の端で、豊臣の大軍が一つの城を囲んでいました。九戸城。城主は九戸政実。この戦いが終わって、ようやく秀吉の天下統一は仕上がったともいわれます。この記事では、九戸城の写真とともに、南部家の内紛から天下の大軍が動くまでをたどります(奥州仕置とは)。

九戸政実が籠もった九戸城の跡(九戸城)
九戸政実が籠もった九戸城の跡(九戸城)
目次

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南部家のふたりの実力者

南部家は、陸奥の北部を治める大きな一族でした。一門の家がそれぞれ城を持ち、宗家を支えていましたが、その力関係はつねに揺れていました。天正10年(1582)、宗家の跡継ぎをめぐって争いが起き、一門の石川家から入った南部信直が当主となります。

これに強く反発したのが、一門の有力者・九戸政実でした。政実は武勇で知られ、一門の中でも宗家に並ぶほどの力を持っていました。信直を当主と認めず、両者の対立は年を追うごとに深まっていきます。

信直は秀吉を頼った

天正18年(1590)、小田原攻めに参陣した南部信直は、秀吉から南部家の当主として認められ、領地を安堵されました。政実から見れば、信直は秀吉という天下人の力を借りて、自分を押さえこもうとしたことになります。

天正19年(1591)3月、政実はついに兵を挙げました。同じころ、奥州では葛西大崎一揆や和賀・稗貫一揆が続いており、信直は自分の力だけでは政実を抑えきれませんでした。信直は秀吉に助けを求めます(葛西大崎一揆とは)。

九戸城跡の堀と土塁
九戸城跡の堀と土塁

豊臣の大軍、奥州へ

秀吉は、甥の秀次を総大将とする「再仕置」の軍を奥州へ送りました。九戸城に向かったのは、蒲生氏郷、浅野長吉、井伊直政、堀尾吉晴らの大軍で、その数は数万ともいわれます。わずか五千ほどとされる九戸勢に対して、天下の軍勢が向けられたのです(蒲生氏郷とは)。

時期 できごと
天正10年(1582) 南部家の家督争い。南部信直が当主となる
天正18年(1590) 信直、小田原に参陣し、秀吉に当主と認められる
天正19年(1591)3月 九戸政実が挙兵する
天正19年6月 秀吉、秀次を総大将とする再仕置の軍を奥州へ送る
天正19年9月 九戸城が包囲される。政実は降伏し、処刑される
天正19年以降 九戸城は南部信直の居城(福岡城)となり、のちに盛岡へ移る

開城と、城の中の人びと

天正19年9月、九戸城は豊臣の大軍に囲まれました。政実の兵はよく戦いましたが、圧倒的な数の差はどうにもなりません。寄せ手は、降伏すれば城の者の命は助けると申し入れたといわれ、政実は頭を丸めて城を出ました。

しかし、政実は捕らえられて処刑され、城に残った者たちも多くが討たれたと伝わります。近年の発掘調査では、九戸城の跡から、刀で傷つけられた人骨が見つかっています。

▽ よく語られる話
九戸政実は秀吉に逆らった反逆者で、無謀な戦いを挑んだ。
▼ 史実ではこうです
政実が戦ったのは、もともとは南部家の当主・信直でした。南部家の内紛に、信直の求めで豊臣政権が入ってきたため、結果として秀吉の大軍と戦うことになったのです。政実の目から見れば、自分は一門の筋目を通しただけだったのかもしれません。
九戸城跡(岩手県二戸市)
九戸城跡(岩手県二戸市)

九戸城のその後

戦いのあと、九戸城は蒲生氏郷らの手で改修され、南部信直に与えられました。信直はここを福岡城と名を改めて居城とし、のちに本拠を盛岡へ移します。盛岡藩の歴史は、九戸政実の乱のあとに始まったのです。

同じ天正19年、豊臣政権は奥州の一揆を次々と鎮め、天下統一の仕上げを終えました。そしてこの年の正月、天下統一を見届けられなかった秀長は、すでにこの世を去っていました(天正十八年に何が起きたのか)。

✎ 筆者の考え
九戸政実の乱を「天下統一の最後の戦い」と呼ぶとき、そこには豊臣の大軍の強さだけでなく、地方の武士たちの意地も見えてきます。中央が決めた新しい秩序に、最後まで「否」と言った一人の武将。その姿は、国人一揆を起こした九州や奥州の武士たちと、どこか重なって見えます。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』の最終回(第47回、12月6日放送予定)は、小田原攻めから秀長の最期までが描かれるようです。九戸政実の乱は秀長の死のあとの戦いのため、ドラマには登場しないかもしれません。それでも、天下統一の本当の締めくくりとして知っておきたいできごとです。

よくある質問

Q. 九戸政実の乱はいつ起きましたか?
A. 天正19年(1591)3月に挙兵し、9月に九戸城が落ちました。

Q. 九戸政実はなぜ戦ったのですか?
A. 南部家の当主・南部信直を認めず、対立していたためです。

Q. だれが九戸城を攻めましたか?
A. 秀次を総大将とする再仕置の軍で、蒲生氏郷・浅野長吉・井伊直政・堀尾吉晴らが九戸城を囲みました。

Q. 九戸城はその後どうなりましたか?
A. 南部信直の居城(福岡城)となり、のちに南部家は盛岡へ本拠を移しました。

まとめ

九戸政実の乱は、南部家の内紛から始まり、豊臣政権の大軍が奥州の北の果てまで送られた戦いでした。政実は九戸城に籠もって戦いましたが降伏し、処刑されます。小田原攻めの翌年、この戦いでようやく秀吉の天下統一は仕上がったともいわれます。

参考:小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館/二戸市「九戸城跡」案内・発掘調査報告

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