方広寺の大仏とは:秀吉の京の大仏と、「国家安康」の鐘が招いた大坂の陣

造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

方広寺の大仏(京の大仏)は、豊臣秀吉が京都の東山に造らせた、高さ約十九メートルの巨大な大仏です。奈良の大仏をしのぐ大きさを目指し、刀狩で集めた刀を釘にするという名目まで掲げて造られましたが、完成の翌年に地震で壊れてしまいます。息子の秀頼が建て直した大仏殿のために鋳造された鐘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれ、これが徳川家康の怒りを買って大坂の陣の引き金になりました。秀吉が始めた大仏は、豊臣家の終わりを呼びこむ舞台にもなったのです。

この記事のポイント
  • 秀吉の大仏は高さ約十九メートルの木造。大仏殿は南北約八十八メートルの巨大な建物だった
  • 刀狩令は「没収した刀は大仏の釘やかすがいに使う」と説明した
  • 完成の翌年、慶長伏見地震で大仏は壊れ、秀吉は大仏をあきらめた
  • 秀頼が再建した大仏殿の鐘の銘文「国家安康」が、大坂の陣のきっかけになった
目次

方広寺の大仏とは|秀吉が造った京の大仏

秀吉が大仏の造営を思い立ったのは、天下統一が見えてきた天正十年代の半ばでした。奈良の東大寺の大仏は戦国の戦火で大仏殿を焼かれ、雨ざらしになっていました。秀吉はそれに代わる大仏を京都に造り、天下人の力を目に見える形で示そうとします。大仏は高さ六丈三尺(約十九メートル)の木造で、漆を塗って仕上げられ、それを納める大仏殿は南北約八十八メートル、東西約五十五メートルという、とてつもない大きさでした。工事は文禄四年(1595年)に完成します。秀吉が京都でどんな都市づくりを進めていたかは秀吉は京都で何をしていたのかで書いています。

刀狩と大仏|「没収した刀は大仏の釘に」

天正十六年(1588年)、秀吉は刀狩令を出し、百姓から刀や鉄砲を取り上げました。このとき秀吉は、集めた刀は無駄にせず、造営中の大仏の釘やかすがいに使うので、百姓はこの世だけでなくあの世まで救われる、と説明しています。武器を取り上げる命令に、大仏という信仰の衣を着せたわけです。実際に没収した武器が釘に使われたとも伝わります。刀狩の本当のねらいは太閤検地と刀狩とはで詳しく書いています。

▽ よく語られる話
刀狩で集めた刀は、すべて大仏の釘に溶かされた。
▼ 史実ではこうです
刀狩令は「大仏の釘やかすがいに使う」と説明していますが、没収した武器のすべてが大仏に使われたわけではなく、多くは各地の大名のもとにとどめられたとみられます。大仏は、武器の没収を受け入れさせるための大義名分としての意味が大きかったと考えられています。

熊野の材木と吉川平介|大仏を支えた木

巨大な大仏殿を建てるには、大量の良い材木が必要でした。紀伊の熊野は全国有数の木材の産地で、大仏殿の造営が始まると熊野の木の値打ちは一気に高まります。その熊野の山を秀長のもとで預かっていたのが、山奉行の吉川平介でした。天正十六年、平介は熊野の木二万余本を大坂で売った代金を着服したとして処刑されます。大仏の造営で材木の価値が跳ね上がっていたことが、この一件の背景にあったと考えられています。平介の話は吉川平介とはで書いています。

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熊野の木二万余本と、主君・秀長にまで及んだ責め。家族と子孫のその後まで。

地震で壊れた大仏|秀吉は大仏に矢を放ったのか

完成の翌年、文禄五年(1596年)閏七月、京都と伏見を大地震が襲いました。慶長伏見地震です。前の年には秀次事件で関白秀次とその妻子が命を落としたばかりで、京の人びとには不吉な出来事が続いたように見えたかもしれません。秀吉が築いたばかりの伏見城の天守が崩れ、大仏殿は倒れずに残ったものの、大仏は大きく壊れてしまいます。自分の身さえ守れない仏に怒った秀吉が、大仏の眉間に矢を射たという話が伝わっています。結局、秀吉は壊れた大仏を取り壊させました。代わりに翌年、信濃の善光寺から本尊の善光寺如来を大仏殿に迎えますが、秀吉が病に倒れると如来は信濃へ送り返され、その直後に秀吉は亡くなりました。

▽ よく語られる話
怒った秀吉は「自分の身も守れないのか」と言って、大仏の眉間に矢を射た。
▼ 史実ではこうです
矢を射た話は後世に広まった逸話で、確かな記録で裏づけられるものではありません。ただ、地震で壊れた大仏を秀吉が取り壊させたこと、善光寺如来を迎えて大仏殿の本尊にしようとしたことは記録に残っています。

秀頼の再建と「国家安康」|鐘が招いた大坂の陣

秀吉の死後、大仏の再建は息子の秀頼に引き継がれました。慶長七年には銅で大仏を鋳造している最中に火が出て大仏殿まで焼けてしまいますが、秀頼はあきらめず、慶長十七年(1612年)ごろ、ついに銅造の大仏と大仏殿を完成させます。そして慶長十九年(1614年)、大仏殿の梵鐘が鋳造されました。この鐘に刻まれた銘文のなかに「国家安康」「君臣豊楽」という言葉がありました。家康の名を「家」と「康」に切り分け、豊臣を君として楽しむ意味だと問題にされたのです。これが方広寺鐘銘事件で、ここから大坂冬の陣へと事態は一気に進みます。大坂の陣の流れは大坂の陣をわかりやすく解説をご覧ください。

▽ よく語られる話
家康は鐘銘の言いがかりで、豊臣家を滅ぼす口実をつくった。
▼ 史実ではこうです
鐘銘を問題にしたことが開戦の口実になったのは確かですが、銘文を作った側にも家康の名を避けなかった落ち度があったとする見方や、豊臣方がもともと徳川との関係を悪化させていたとする見方もあります。一方的な言いがかりか、避けられた失策か、評価は分かれています。

その後の大仏|焼けては建て直された京の大仏

秀頼の大仏は、寛文年間の地震で壊れて木造で造り直され、寛政十年(1798年)には落雷で大仏殿とともに焼けてしまいます。天保年間には尾張の人びとの寄進で上半身だけの大仏が造られましたが、これも昭和の火災で失われました。いまの方広寺には大仏も大仏殿も残っていませんが、「国家安康」の鐘は鐘楼に吊られて現存し、大仏殿の巨大な石垣が往時の規模を伝えています。すぐ近くには秀吉を祀る豊国神社があります。秀吉の死後に天下がどう傾いたかは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書いています。

まとめ|豊臣家の始まりと終わりをつないだ大仏

方広寺の大仏は、刀狩の大義名分として、天下人の威光の象徴として造られ、地震で壊れ、息子の手で建て直され、最後は豊臣家を滅ぼすきっかけになりました。熊野の材木をめぐる吉川平介の処刑から、大坂の陣まで。一つの大仏をたどると、豊臣政権の始まりから終わりまでが見えてきます。秀吉がなぜ関白という道を選んだのかは関白とはでどうぞ。

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