豊臣政権の「取次」とは何か|大名と秀吉のあいだに立った者たち ─ 上杉と真田には三成、徳川と伊達には浅野長政

石田三成ゆかりの地、長浜市石田町
この記事のポイント
  • 豊臣政権では、大名が秀吉に直接ものを言うことは原則ありませんでした。あいだに取次が立ちます
  • 取次は窓口であり、その大名の保証人であり、国もとの事情を代弁する者でもありました
  • 上杉・真田・島津の取次は石田三成。徳川・伊達の取次は浅野長政と富田一白でした
  • このしくみは信長のころからあり、明智光秀は長宗我部元親と筒井順慶の取次でした
  • 関ヶ原の東西は、この取次の線とおおむね重なります。大名が選んだのは陣営というより、人だったのかもしれません

戦国の大名が天下人に願い事をするとき、直接手紙を出したわけではありません。あいだに立つ者がいました。取次です。領地を認めてほしい、跡目を継がせたい、隣国との争いを裁いてほしい。そうした願いはすべて取次を通り、秀吉からの命もまた取次を通って国もとへ届きました。そして十数年後、関ヶ原で東西に分かれた線は、この取次の線と驚くほど重なります。

取次 ─ 大名と秀吉のあいだに立つ大名国もとにいる取次秀吉の側近秀吉大坂・聚楽第上りは願い(領地の安堵・跡目・訴え)/下りは命(軍役・普請・上洛の催促)取次の三つの役目一 窓口大名が秀吉へ直に物を言うことは、原則としてなかった。文も使者も取次を通る二 保証人その大名が約束を破れば、取次も責めを負う。身元を引き受ける立場だった三 代弁者国もとの事情を秀吉に伝え、無理な求めをやわらげるのも仕事のうち

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取次とは何だったのか

豊臣政権は、秀吉という一人の人間に権限が集まったしくみです。だからこそ、そこへ届く声を整理する役が要りました。それが取次です。史料では「取次」のほか「指南」「申次」とも書かれます。

役にあたったのは秀吉の側近たちでした。石田三成、浅野長政、富田一白、増田長盛、津田盛月。のちに武断派と対立したとされる三成も、この時期は各地の大名との交渉に明け暮れています。

長浜市石田町に立つ石田三成公出生地の標柱
長浜市石田町に立つ「石田三成公出生地」の標柱。彼岸花の咲く道沿いにあります

ただの連絡係ではなかった

取次は伝言役ではありません。三つの顔を持っていました。

ひとつは窓口です。大名の使者はまず取次の屋敷へ入り、そこから登城の段取りが組まれます。上杉景勝が天正十四年に上洛したときも、段取りを整えたのは三成でした。

ふたつめは保証人です。ここが重い。担当した大名が約束を破れば、取次も責めを負いました。身元を引き受けるようなもので、だから取次は国もとの動きに神経を使います。

みっつめは代弁者です。秀吉の求めが無理筋なとき、それをやわらげて伝えるのも取次の仕事でした。大名から見れば、中央に自分の言い分を分かってくれる人間がいるかどうかは死活問題です。

誰が誰の取次だったか

顔ぶれを並べると、担当がかなりはっきり分かれていることが分かります。

石田三成は上杉景勝、真田昌幸、そして九州攻めのあとの島津。いずれも東国と西国の大物です。浅野長政と富田一白は徳川家康と伊達政宗。北条氏規が聚楽第で秀吉と向き合ったときの交渉も、富田一白と津田盛月が小田原へ下っています。

誰が誰の取次だったか ─ そして関ヶ原大名取次関ヶ原上杉景勝石田三成西軍真田昌幸石田三成西軍(信之は東軍)島津義弘石田三成西軍毛利輝元安国寺恵瓊西軍(総大将)徳川家康浅野長政・富田一白東軍伊達政宗浅野長政・富田一白東軍北条氏直富田一白・津田盛月小田原で滅亡三成が取次だった家は西、浅野と富田が取次だった家は東。例外もありますが、線はおおむね重なります。

取次の線は、関ヶ原の線に重なった

表の右端を見ていただくと、気づくことがあると思います。三成が取次だった家は関ヶ原で西軍に、浅野と富田が取次だった家は東軍に付いています。

偶然ではないはずです。十数年のあいだ、文のやり取りをし、無理を聞いてもらい、国もとの事情を汲んでもらってきた相手が誰か。その積み重ねが、いざというときの判断に出たのだと思います。秀吉が死んだあとの大名にとって、頼るべき人間はもう陣営ではなく個人でした。

ただし、きれいに割り切れるわけではありません
真田は家が分かれた
昌幸と信繁は西軍、信之は東軍に付きました。信之の妻は本多忠勝の娘です。取次の縁と婚姻の縁が引き合い、家を二つに割ることで真田は生き残りました。
島津は成り行きの面が大きい
島津義弘ははじめ東軍に加わろうとして断られ、結果として西軍の陣に入ったと伝わります。三成との縁だけで説明するのは無理があります。
取次は一人とは限らない
時期によって交代しますし、複数が関わることもありました。ここに挙げたのは主な担当で、これだけが全てではありません。
紅葉のなかに立つ佐和山城址の石柱
佐和山城址の石柱。三成がここを居城としたのは、各地の大名との取次を担っていた時期と重なります

このしくみは信長のころからあった

取次は秀吉が考え出したものではありません。織田政権にも同じ仕組みがあり、方面ごとに担当が決まっていました。

よく知られているのが明智光秀と長宗我部元親です。光秀の重臣・斎藤利三の縁者が元親の正室の実家につながっており、その縁で光秀が四国との窓口になりました。元親が土佐から四国全体へ手を広げられたのは、中央に光秀がいたからです。

ところが信長が方針を変えます。長宗我部に認めるのは土佐と阿波の一部だけだと言い出したのです。取次である光秀の面目は丸つぶれでした。これを本能寺の動機のひとつに数える見方があります。

光秀は大和の筒井順慶の取次でもありました。順慶が洞ヶ峠で日和見をしたという話は有名で、近年は実際に洞ヶ峠へ出たのは光秀のほうだったとも言われます。ただ順慶が動かなかったことは確かで、それは取次が謀反人になったとき、担当された大名がどんな立場に置かれるかをそのまま示しています。

信長のころの取次 ─ そして取次が倒れたあと取次担当した方面・相手取次が倒れたあと明智光秀長宗我部元親(四国)後ろ盾を失い、四国攻めを受ける明智光秀筒井順慶(大和)動かぬまま、のち秀吉方へ明智光秀丹波の国衆そのまま秀吉の支配下へ羽柴秀吉毛利輝元(中国方面)取次ごと豊臣政権に引き継がれる柴田勝家北陸方面と上杉賤ヶ岳で敗れ、北ノ庄で果てる滝川一益関東(北条氏政)神流川で敗れ、伊勢へ退く丹羽長秀若狭の国衆豊臣政権で越前を与えられる取次が力を失えば、その相手もまとめて足場を失う。十八年後の関ヶ原と、同じことが起きています。

表の右端を見てください。取次が倒れると、その相手も足場を失っています。長宗我部は四国攻めを受け、順慶は身の振り方に苦しみ、北条との窓口だった滝川一益は関東を失って伊勢へ退きました。十八年後の関ヶ原で起きたことと、構造はまったく同じです。

信長も秀吉も、天下に近づくほど一人では回せなくなり、方面ごとに人を置きました。そして置かれた者と相手の大名のあいだには、主従とは別の、もっと個人的な線ができていったのです。

取次を失うということ

取次が力を失えば、担当されていた大名も足場を失います。佐々成政が肥後で一揆を招いて切腹を命じられたとき、成政の側に立って弁じてくれる者はいませんでした。逆に浅野長政のように長く中央に残った者の担当大名は、政権が代わっても道が残ります。

秀吉が死に、三成が関ヶ原で敗れたとき、上杉も真田も島津も、まとめて後ろ盾を失いました。上杉は会津百二十万石から米沢三十万石へ。真田は昌幸と信繁が九度山へ。島津は所領こそ保ちましたが、長く重い立場に置かれます。

取次とは、大名にとって中央に伸ばした一本の根でした。根が切れれば、木そのものが傾きます。

佐和山城跡の高みに立つ彦根八景「武士の夢 佐和山」の案内板と眼下の眺め
佐和山城跡から彦根の町と湖を望む。案内板には彦根八景のひとつ「武士の夢 佐和山」とあります

家康の取次はだれだったのか

天正十四年、家康が上洛を決めるまでのあいだ、豊臣方で動いていたのは浅野長政と富田一白です。長政は旭姫の輿入れに付き添って浜松まで下り、大政所を岡崎へ送る段取りにも関わりました。小牧・長久手のあとの講和では織田信雄が仲立ちに立ちましたが、これは一度きりの仲介で、取次とは役回りがちがいます。

では秀長は何だったのか。秀長は家康の取次ではありません。上洛した家康を自分の屋敷に泊め、謁見の前夜にもてなした。これは取次の仕事ではなく、政権の副将としての顔です。取次が日々の実務を担い、その上に秀長のような調整役がいた。豊臣政権には、こういう二重の構えがありました。

だから大名が上洛するときの段取りを見ると、必ず二人以上の名前が出てきます。手続きを進める者と、場を収める者は別だったのです。

よくある質問

Q. 取次は役職だったのですか?
A. 正式な官職ではありません。実際の慣行につけられた呼び名で、史料には「指南」「申次」とも出てきます。

Q. 大名が秀吉に直接会うことはなかったのですか?
A. 上洛して謁見する場はあります。ただ、日々のやり取りや願い事は取次を通すのが決まりでした。

Q. 取次は選べたのですか?
A. 大名の側が指名したわけではありません。地域や縁で秀吉の側が決めています。ただ、関係が深まれば事実上の専任になりました。

Q. 徳川の世にも同じしくみはありましたか?
A. 形を変えて残ります。江戸幕府の老中や大目付、各家の留守居役が担った仕事には、取次と重なる部分があります。

まとめ

取次は、豊臣政権の目立たない背骨でした。秀吉という一人に集まる権限を、現実に回すための装置です。大名から見れば、中央に自分を分かってくれる人間を一人持つことであり、取次から見れば、その大名の不始末まで引き受けることでした。だからこそ関係は深くなり、秀吉が死んだあとは、その深さがそのまま東西の線になったのだと思います。関ヶ原を「豊臣か徳川か」の対立として見ると落ちてしまうものが、ここにあります。大名たちが見ていたのは、十数年のあいだ文を交わしてきた相手の顔だったのかもしれません。

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