九州停戦令(惣無事令)とは|天正13年、関白秀吉が島津と大友に命じた停戦と、秀長の九州攻めへの道

この記事のポイント
  • 九州停戦令は、天正13年(1585)10月、関白となった豊臣秀吉が、九州で戦っていた島津家と大友家に出した停戦命令です
  • 島津義久にあてた10月2日付の秀吉の書状では、天皇の意思(勅諚)として戦をやめるよう命じ、従わなければ成敗すると迫っています
  • 大友家はすぐに受け入れましたが、島津家は秀吉を軽く見て、事実上これを無視しました。翌年に示された国分け案も拒み、大友攻めを続けます
  • これが天正15年(1587)の九州攻めにつながり、秀長は日向方面の総大将として島津を降伏に追い込みました

『豊臣兄弟!』では、家康との対立がひと段落すると、物語の舞台はいよいよ九州へ移ると予想されます。仲野太賀さん演じる秀長が総大将として活躍する九州攻めは、なぜ始まったのでしょうか。そのきっかけとなったのが、天正13年に秀吉が出した「九州停戦令」です。この記事では、停戦令の中身と、島津・大友それぞれの反応、そして九州攻めまでの流れを紹介します。

臼杵城跡
大友宗麟が本拠とした豊後の臼杵城跡(臼杵城)
目次

そのころ九州では何が起きていたのか

戦国時代の九州は、豊後の大友、肥前の龍造寺、薩摩の島津が勢力を争う「三つどもえ」の状態でした。ところが天正6年(1578)、大友宗麟は日向の耳川の戦いで島津に大敗し、多くの重臣を失います。さらに天正12年(1584)には、龍造寺隆信が肥前の沖田畷の戦いで島津・有馬の軍に討たれました。

こうして島津は九州のほぼ全土に手を伸ばし、残る大友を北へ北へと追い詰めていきます。自力では支えきれなくなった大友家は、秀吉に助けを求めました。

勢力 本拠 当時の当主 このころの状況
島津家 薩摩(鹿児島) 島津義久 耳川・沖田畷で勝ち、九州の大半に勢力を広げる
大友家 豊後(大分) 大友義統(父は宗麟) 耳川で大敗し、島津に圧迫される。秀吉に救援を求める
龍造寺家 肥前(佐賀) 龍造寺政家 隆信が沖田畷で戦死し、勢いを失う

天正13年10月、関白秀吉の停戦命令

天正13年(1585)7月に関白となった秀吉は、10月、島津と大友の双方に、戦をやめるよう命じました。これが九州停戦令です。島津義久にあてた10月2日付の書状が残っていて、その中身はおおよそ次のとおりです。

  • 天皇の命令(勅諚)を受けて書いている
  • 関東から奥州の果てまで命令が行き渡り、天下は静かに治まっている
  • それなのに九州ではいまだに戦が続いていて、よくない
  • 領地の境目をめぐる争いは、双方の言い分を聞いて、のちに秀吉が裁定する
  • まずは敵も味方も弓矢をおさめよ。これは天皇のご意思である
  • 従わなければ、必ず成敗する。返答は、そちらにとって一大事であると心得よ

秀吉は、自分の命令としてではなく、関白として天皇の意思を伝えるという形をとりました。九州の大名どうしの争いを、天皇と関白の名のもとに止めようとしたのです。

▽ よく語られる話
秀吉は「惣無事令」という法令を全国に出し、大名どうしの私的な戦をいっせいに禁止した。九州停戦令もその一つである。
▼ 史実ではこうです
「惣無事令」は、歴史学者の藤木久志氏が提唱した考え方で、教科書にも載るほど広まりました。ただ近年は、全国一律の法令が出されたわけではなく、地域ごとに停戦を命じる書状が出されていたとみる研究者も増えています。九州停戦令も、島津・大友にあてた個別の命令として理解するのがよいでしょう。

島津と大友はどう応えたのか

大友家 ─ すぐに受け入れる

島津に追い詰められていた大友家にとって、停戦令はありがたい命令でした。大友家はすぐにこれを受け入れます。翌天正14年4月には、隠居していた大友宗麟がみずから大坂城を訪れ、秀吉に島津討伐を願い出ました(大友宗麟の大坂城訪問)。

島津家 ─ 秀吉を軽く見る

一方の島津家では、この書状が大きな波紋を呼びました。島津の家臣・上井覚兼の日記には、天正14年1月、書状には花押だけで名乗りがなく、宛名も略式で無礼だという受けとめが記されています。島津家の側には、もとは百姓の出とされる秀吉が関白を名乗ることへの反発もありました。

島津家は家中で議論したうえで、家臣の鎌田政近を秀吉のもとへ送り、「戦を仕掛けてきたのは大友のほうで、こちらは防いだだけだ」と弁明します。しかし実際には、大友攻めをやめることはありませんでした。

内城跡
島津義久の本拠・内城の跡(内城)

国分け案の拒否、そして九州攻めへ

天正14年(1586)3月、秀吉は鎌田政近に国分け案を示しました。島津が奪った土地の多くを大友に返させ、九州の領地を秀吉が割り振り直すという内容です。島津家はこれを拒み、大友攻めを再開しました。

秀吉は4月、毛利輝元に九州出兵の準備を命じ、九州攻めが動き出します。その流れを年表で見てみましょう。

年月日 出来事
天正13年7月 秀吉が関白に就任
天正13年10月2日 秀吉が島津義久に停戦を命じる書状を出す(九州停戦令)
天正14年1月 島津家で書状が問題になる。家臣の上井覚兼は無礼だと記す
天正14年3月 秀吉が国分け案を示す。島津は拒否
天正14年4月 大友宗麟が大坂城で秀吉に救援を願う。秀吉が毛利輝元に出兵準備を命じる
天正14年12月 戸次川の戦い。豊臣方の先発隊が島津軍に大敗
天正15年3月 秀吉が大坂を出陣。秀長は豊後から日向へ進む
天正15年4月 根白坂の戦い。秀長の軍が島津の救援軍を退ける
天正15年5月 島津義久が剃髪して秀吉に降伏
宮崎城跡
秀長の軍が進んだ日向の宮崎城跡

秀長にとっての九州停戦令

九州停戦令が無視されたことで始まった九州攻めで、秀長は日向方面の総大将を任されます。秀長は力攻めにこだわらず、根白坂で島津の救援軍を退けて、島津を降伏へと追い込みました(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。九州攻め全体の流れは四国平定・九州平定をわかりやすく解説で紹介しています。

九州攻め(天正15年)の秀吉と秀長の進軍路の模式図
九州攻めの進軍路。秀吉は筑前・肥後から薩摩へ、秀長は豊後から日向へ進みました(模式図)

秀吉と秀長は、3月下旬に豊前の小倉で軍を二手に分けました。秀吉の本隊は筑前の秋月から筑後・肥後を南へ進み、八代、出水を経て薩摩の川内に入ります。秀長の軍は豊後の府内から日向へ入り、県(延岡)の松尾城、高城へと島津方の城を攻めながら進みました。島津の主力が秀長の軍と根白坂で戦って敗れたことで、島津義久は5月8日、川内の泰平寺で秀吉に降伏します。豊臣兄弟が西と東から挟み撃ちにした形でした。

停戦令から九州攻めまでの流れは、のちの北条攻めにもよく似ています。秀吉はまず天皇と関白の権威で戦をやめるよう命じ、従わない相手を「天下の敵」として討つ。関東では、名胡桃城事件がそのきっかけになりました(名胡桃城事件とは)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、家康の臣従のあと、秀長が総大将として活躍する九州攻めが大きな見せ場になると予想されます。秀吉の停戦命令を島津がどう受けとめたのか、その場面が描かれるかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 九州停戦令はいつ出されましたか?
A. 天正13年(1585)10月です。島津義久にあてた10月2日付の秀吉の書状が残っています。

Q. 九州停戦令はだれに出されたのですか?
A. 九州で戦っていた島津家と大友家の双方に出されました。

Q. 九州停戦令と惣無事令はどうちがうのですか?
A. 惣無事令は、秀吉が全国の大名の私的な戦を禁じたとする考え方で、九州停戦令はその代表例とされてきました。近年は、全国一律の法令ではなく、地域ごとに出された停戦命令だとみる研究者も増えています。

Q. 島津はなぜ九州停戦令に従わなかったのですか?
A. 書状の書き方が無礼だと受けとめたことや、出自の低い秀吉が関白を名乗ることへの反発があったとされます。島津家は九州の大半を手に入れかけていて、大友攻めをやめるつもりもありませんでした。

まとめ

九州停戦令は、関白となった秀吉が、天皇の意思として島津と大友に戦をやめるよう命じたものでした。大友家はすぐに従い、島津家は秀吉を軽く見て従いませんでした。国分け案も拒んだ島津に対し、秀吉は九州攻めを決め、秀長が日向方面の総大将として島津を降伏させます。一通の停戦命令が、豊臣兄弟の九州攻めの出発点になったのです。

参考:『上井覚兼日記』/「天正13年10月2日島津義久宛豊臣秀吉判物」(『島津家文書』)/藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会/藤井讓治『天下人の時代』吉川弘文館

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