高山右近は改易のあとどこにいたのか|小豆島、加賀の前田利家、高岡城の縄張、マニラへ ─ 領地を捨てた右近の27年

高槻城跡公園に立つ像
この記事のポイント
  • 天正15年(1587)、高山右近は信仰を捨てることを拒み、播磨明石6万石を取り上げられました
  • 領地を失った右近をかくまったのは、同じキリシタンの小西行長でした。右近は行長の支配する小豆島などに身をひそめたと伝わります
  • 天正16年(1588)、右近は加賀の前田利家に招かれ、客将として金沢で暮らすようになります。金沢城の改修や、のちの高岡城の縄張にかかわったとも伝わります
  • 慶長19年(1614)、江戸幕府の禁教令で国外追放となり、翌年マニラで亡くなりました。追放令から27年、右近は最後まで信仰を捨てませんでした

「領地より信仰を選んだ大名」。高山右近を語るとき、かならず添えられる言葉です。でも、明石6万石を返したあと、右近はどこへ行き、どうやって暮らしたのでしょうか。大名でなくなった右近の後半生は、意外と知られていません。この記事では、天正15年(1587)の改易から、マニラでの最期までの27年を、ゆかりの城の写真とともにたどります(高山右近とは)。

高槻城跡公園に立つ像
右近が城主をつとめた高槻城の跡、高槻城跡公園に立つ像
目次

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天正15年、明石6万石を返す

天正15年6月、九州攻めの陣中にいた右近のもとに、秀吉の使いがやってきました。信仰を捨てるか、領地を捨てるか。右近の答えは迷いのないものでした。信仰は捨てない。右近は明石の領地を返し、大名の座を下りました(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

右近はもともと摂津の高槻城主で、のちに播磨の明石に移っていました。高槻時代には領内に教会を建て、多くの家臣や領民が洗礼を受けたといわれます。

高槻城跡公園の池に組まれた石垣
高槻城跡公園の池に組まれた石垣。右近の時代の高槻城の面影をしのばせる

小西行長にかくまわれる ─ 小豆島へ

領地を失った右近に手を差しのべたのは、小西行長でした。行長もまたキリシタンで、秀吉のもとで瀬戸内の水軍を任されていた人物です。行長は、自分の支配する小豆島などに右近をかくまったと伝わります。

秀吉に罰せられた人物をかくまうのは、行長にとっても危ないことでした。それでも行長は右近を見捨てませんでした。翌天正16年に行長が肥後の南半国を与えられると、右近も一時その領内に身を寄せたともいわれます(加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのか)。

瀬戸内の島の庵で、十字架の前に正座して祈る武士のイメージ(イラスト)
瀬戸内の島の庵で祈る右近のイメージ(イラスト)

加賀の前田利家のもとへ

天正16年(1588)、右近は加賀の前田利家に招かれます。利家は右近の人柄と、武将としての力量を高く買っていました。右近は前田家の客将として、1万5000石ほどの扶持を与えられ、金沢で暮らすことになります。

金沢城:前田利家・前田利長の居城加賀100万石 下町と日本三大庭園兼六園で有名な金沢城
右近が後半生を過ごした加賀の金沢城(金沢城)

天正18年(1590)の小田原攻めでは、右近は前田軍の一員として出陣しました。改易から3年、右近はふたたび戦場に立ったのです。また、右近は築城にもすぐれ、金沢城の改修にかかわったとも伝わります(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。

金沢城:前田利家・前田利長の居城加賀100万石 下町と日本三大庭園兼六園で有名な金沢城
金沢城の石垣と櫓

高岡城の縄張

慶長14年(1609)、利家の子の前田利長は、隠居の城として越中に高岡城を築きます。この高岡城の縄張、つまり城の設計にかかわったのが右近だと伝わります。水堀を大きくめぐらせた平城で、いまも当時の堀がよく残っています(高岡城跡)。

右近が縄張にかかわったと伝わる高岡城の水堀
右近が縄張にかかわったと伝わる高岡城の水堀
高岡城跡(高岡古城公園)
高岡城跡(高岡古城公園)
年 右近のできごと 場所
天正15年(1587) 信仰を捨てず、明石6万石を返す 九州・明石
天正15年〜 小西行長にかくまわれる 小豆島など
天正16年(1588) 前田利家に招かれ、客将となる 加賀・金沢
天正18年(1590) 前田軍の一員として小田原攻めに出陣 小田原
慶長14年(1609) 高岡城の縄張にかかわったと伝わる 越中・高岡
慶長19年(1614) 江戸幕府の禁教令で国外追放 長崎からマニラへ
慶長20年(1615) マニラで亡くなる マニラ

マニラでの最期

慶長19年(1614)、江戸幕府はキリスト教を全国で禁じ、宣教師と有力な信者を国外へ追放しました。右近もそのひとりでした。金沢を離れた右近は長崎へ送られ、同年の暮れ、家族とともに船でマニラへ向かいます(慶長の禁教令とは)。

マニラでは、スペインの総督や人びとに温かく迎えられました。しかし長い船旅の疲れもあり、翌年の正月、右近は病にかかって亡くなります。60歳をこえていました。平成29年(2017)、右近はカトリック教会から「福者」に列せられています(高山右近の最期)。

✎ 筆者の考え
右近の後半生をたどって筆者が驚いたのは、改易されたあとも、右近のまわりから人が離れなかったことです。行長がかくまい、利家が招き、利長が城の設計をまかせた。信仰をつらぬいた頑固さだけでなく、人に信頼される何かが右近にはあったのでしょう。茶の湯では利休七哲のひとりに数えられたのも、そうした人柄と無関係ではないはずです(利休七哲とは)。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では市川知宏さんが右近を演じています。第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令とそれに恨みを抱く者が描かれるようです。追放令でただひとり領地を失った右近がどう描かれるのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 高山右近は改易されたあと、どこにいましたか?
A. 小西行長にかくまわれて小豆島などに身をひそめ、天正16年からは加賀の前田利家のもとで暮らしました。

Q. 前田家ではどんな待遇でしたか?
A. 客将として1万5000石ほどの扶持を与えられたといわれます。

Q. 右近はどこで亡くなりましたか?
A. 慶長19年に国外追放となり、翌年フィリピンのマニラで亡くなりました。

Q. 右近ゆかりの城はどこですか?
A. 高槻城、明石、金沢城、そして縄張にかかわったと伝わる高岡城などです。

まとめ

天正15年に明石6万石を返した高山右近は、小西行長にかくまわれ、やがて加賀の前田利家のもとで客将として生きました。小田原攻めに出陣し、城づくりにもかかわり、最後は禁教令でマニラへ。大名ではなくなっても、右近は信仰と人の信頼を失わずに、その後の27年を生きたのです。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/海老沢有道『高山右近』吉川弘文館/高岡市「高岡古城公園」案内

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