秀吉に処刑・切腹させられた人びと:前野一族・千利休・秀次から神子田正治、石川五右衛門まで

橋のたもとの高札を見る町人たちのイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

豊臣秀吉は、天下統一の過程で多くの武将や人びとを処刑し、あるいは切腹に追いこみました。戦に敗れた城主の切腹、臆病や命令違反を責められた古参の家臣、利休の高弟・山上宗二、不正を働いた奉行、秀吉の怒りを買った茶人・千利休、謀反を疑われた甥の関白・秀次とその一族、そして釜煎りにされた大泥棒・石川五右衛門まで。この記事では、秀吉に命を奪われた人びとを理由ごとに整理し、その処分がなぜ下されたのかを見ていきます。

この記事のポイント
  • 戦の決着としての切腹:別所長治・吉川経家・清水宗治・北条氏政ら
  • 古参でも容赦なし:神子田正治・尾藤知宣は臆病や判断の誤りを責められ命を落とした
  • 不正と不興:吉川平介は着服で処刑、千利休は切腹
  • 秀次事件では前野長康父子ら重臣まで切腹。石川五右衛門は一族ごと処刑されたと伝わる
  • 命は助かっても改易・減封された者も。小早川秀秋は家康のとりなしで旧領に戻った
人物 処分 理由
天正八年 別所長治 自害 三木城開城の条件
天正九年 吉川経家 自害 鳥取城開城の条件
天正十年 清水宗治 自刃 備中高松城の和睦の条件
天正十一年 織田信孝 自害 賤ヶ岳の戦いで敗れる
天正十五年 神子田正治 切腹または斬首(諸説) 小牧・長久手での敵前離脱と秀吉への暴言
天正十六年 佐々成政 切腹 肥後国人一揆の責任
天正十六年 吉川平介 斬首 熊野の材木代金の着服
天正十八年 北条氏政・氏照 切腹 小田原征伐の敗北
天正十八年 山上宗二 処刑 利休の高弟。小田原で秀吉の怒りを買う
天正十八年 尾藤知宣 手打ち(諸説) 九州攻めでの判断を責められ追放、赦免を願い出て斬られる
天正十九年 千利休 切腹 秀吉の不興(理由は諸説)
天正十九年 九戸政実 斬首 九戸の乱
文禄元年 島津歳久 自害 梅北一揆への関与を疑われる
文禄三年 石川五右衛門 釜煎り 盗賊の首領
文禄四年 豊臣秀次と妻子三十九人 切腹・処刑 謀反の疑い
文禄四年 前野長康・景定、木村重茲ら 切腹 秀次事件への連座
目次

戦の決着としての切腹|城兵の命と引き換えに

戦国時代の城攻めでは、城主が腹を切ることで城兵の命を助けるという決着の付け方がよくとられました。秀吉の中国攻めでは、播磨の三木城の別所長治、因幡の鳥取城の吉川経家、備中高松城の清水宗治が、いずれも城兵の助命と引き換えに自ら命を絶っています。とくに清水宗治は、本能寺の変の直後、水攻めで囲まれた城から小舟で漕ぎ出し、両軍が見守る水の上で切腹しました。これらは罰というより、戦の終わらせ方としての死でした。それぞれの城攻めは三木の干殺し鳥取城跡なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのかで書いています。

天下統一の最後の戦いとなった小田原征伐でも、降伏した北条氏政と弟の氏照が切腹を命じられました。当主の氏直は家康の娘婿だったこともあって助命され、高野山へ送られています。北条氏の最期は小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏したのかで詳しく書いています。

古参でも容赦なし|神子田正治と尾藤知宣

秀吉の処罰の厳しさがよく表れているのが、長浜時代からの古参の家臣たちの最期です。神子田正治と尾藤知宣は、宮田光次・戸田勝隆とともに「羽柴四天王」とも呼ばれた秀吉子飼いの武将でした。

神子田正治は、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、味方が戦っている最中に隊を離れて自分だけ敵の首を取って戻ったとされます。秀吉の采配に苦言を呈して「闇将」とまで言い放ったため、秀吉は激怒して「臆病者」と責め、所領を取り上げて高野山へ追放しました。やがて高野山からも追われ、妻子をかくまうことも禁じられます。天正十五年(1587年)、九州で自害したとも、秀吉に帰参を願い出て許されず切腹か打ち首を命じられたともいわれ、首は京の一条戻橋に晒されて「臆病者」の高札が立てられたと伝わります。

尾藤知宣は、九州攻めで秀長の軍に加わっていましたが、根白坂の砦が島津勢に攻められたとき、秀長が救援に向かおうとするのを慎重論で止め、さらに逃げる島津勢の追撃も止めさせたとされます。この判断を秀吉にとがめられて所領を没収され、追放されました。天正十八年(1590年)、小田原征伐のあと東へ向かう秀吉に赦免を願い出たところ、怒りを買ってその場で斬られたと伝わります。知宣の一族からは、秀長に仕えた宇多頼忠が出ています。秀長の家臣団については豊臣秀長の家臣団とはで書いています。

▽ よく語られる話
神子田正治と尾藤知宣は、秀吉に逆らったために殺された悲劇の忠臣だった。
▼ 史実ではこうです
二人の最期にはいくつもの説があり、どこまでが事実かははっきりしません。ただ、戦場での行動が秀吉の軍の規律を乱したと見なされたことは共通しています。古くからの家臣でも規律に背けば許さないという姿勢を、秀吉ははっきり示したかったと考えられます。

一揆と不正の責任|佐々成政と吉川平介

九州平定のあと肥後を与えられた佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を急いだことで肥後国人一揆を招き、天正十六年(1588年)に責任を問われて切腹しました。同じ年には、秀長の家臣で熊野の山奉行だった吉川平介が、材木の代金を着服したとして処刑されています。平介は首を京に晒されましたが、妻子は罪に問われませんでした。成政の生涯は佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのか、平介の話は吉川平介とはで書いています。

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秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのか:吉川平介・千利休・豊臣秀次
平介の妻子は不問、利休の家族は許され、秀次は妻子三十九人まで。その差はどこから来たのか。

千利休|天下一の茶人の切腹

天正十九年(1591年)、茶の湯の第一人者として秀吉に重く用いられた千利休が、切腹を命じられました。大徳寺の山門に自分の木像を置かせたこと、茶道具の売買で不当な利益を得たことが理由とされますが、政権内の対立に巻きこまれたとする見方も根強く、本当のところはわかっていません。同じ年の正月には、利休の理解者だった秀長が亡くなっています。詳しくは豊臣秀吉はなぜ千利休を切腹させたのかをご覧ください。

利休の切腹の前年には、利休の高弟だった山上宗二も命を落としています。宗二は歯に衣着せぬ物言いで秀吉の怒りを買って追放され、北条氏のもとに身を寄せていましたが、小田原征伐の陣中で秀吉に再会したとき、再び怒りを買って処刑されました。耳と鼻をそがれたうえで殺されたと伝わります。茶人であっても、秀吉の前で言葉を誤れば命はありませんでした。利休の弟子たちのその後は千利休の弟子たちはどうなったのかで書いています。

九戸政実と島津歳久|天下統一のあとの反乱

天下統一のあとも、秀吉の支配に従わない動きは続きました。天正十九年、陸奥の九戸政実が南部氏に背いて挙兵すると、秀吉は大軍を送り、降伏した政実らを処刑しました。文禄元年(1592年)には、朝鮮出兵のさなかに薩摩で梅北一揆が起き、島津義久の弟・歳久がこれに関わったと疑われます。秀吉の命を受けた義久が討手を送り、歳久は自害しました。朝鮮出兵の背景は朝鮮出兵をわかりやすく解説で書いています。

石川五右衛門|釜煎りにされた大泥棒

武将ではありませんが、秀吉の時代の処刑でいちばん有名なのが石川五右衛門かもしれません。文禄三年(1594年)八月、京の三条河原で盗賊の一味が釜煎りにされたことが、公家の山科言経の日記『言経卿記』などに記録されています。当時日本にいたスペイン商人の記録には、首領の五右衛門とともに、その妻子や親族まで処刑されたと書かれています。秀吉の寝所に忍びこんだ、千鳥の香炉を盗もうとしたといった話は、のちの歌舞伎や講談が生んだものです。処刑の舞台となった三条河原は、翌年には秀次の妻子が処刑される場所にもなりました。秀吉の京都のまちづくりは秀吉は京都で何をしていたのかで書いています。

▽ よく語られる話
石川五右衛門は秀吉の命を狙って伏見城に忍びこみ、捕らえられて釜ゆでにされた。辞世は「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」。
▼ 史実ではこうです
五右衛門という盗賊の首領が京で釜煎りにされたことは同時代の記録で確かめられ、実在の人物と考えられています。ただ、秀吉の暗殺をねらった話や有名な辞世は後世の芝居や読み物に由来するもので、史料では確認できません。

秀次事件|関白と一族、重臣たちの最期

秀吉の処罰のなかで最も多くの命を奪ったのが、文禄四年(1595年)の秀次事件です。関白・豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に送られて切腹し、三条河原では幼い子どもたちと妻や側室、侍女ら三十九人が処刑されました。処罰は秀次の家臣にも及び、秀次の家老をつとめていた前野景定と、その父で但馬出石城主の前野長康が切腹に追いこまれます。前野長康は、墨俣のころから秀吉を支えてきた古い仲間でした。木村重茲をはじめ、秀次に近かった武将たちも次々と命を落としています。事件の全体は秀次事件をわかりやすく解説、処刑された女性たちは秀次事件 三十九人の処刑駒姫とは、前野長康の城は出石城で書いています。

命は助かったが|改易・減封された者たち

処刑や切腹には至らなくても、秀吉の不興を買って領地を取り上げられたり減らされたりした武将もいました。九州攻めの戸次川の戦いで軍令に背いて大敗した仙石秀久は、讃岐の領地を没収されて高野山に追放されます。のちに小田原征伐で手柄を立てて大名に返り咲きました。

北政所ねねの甥で、秀吉の養子から小早川家に入った小早川秀秋も、処罰を受けた一人です。慶長の役で朝鮮に渡った秀秋は、蔚山城の救援などでの軽率なふるまいを責められたとされ、筑前などの領地から越前北ノ庄へ移されて石高を大きく減らされました。しかし秀吉が亡くなると、徳川家康のとりなしで旧領に戻ることができます。この恩が、関ヶ原で秀秋が東軍に寝返る伏線になったとも言われます。関ヶ原での秀秋の動きは関ヶ原の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。

▽ よく語られる話
小早川秀秋の減封は、秀秋の失態に対する当然の処分だった。
▼ 史実ではこうです
減封の理由とされる朝鮮での失態には、石田三成らが秀吉に悪く報告したためだとする話もあり、処分が妥当だったかどうかは見方が分かれます。秀秋自身がそう受け止めていたなら、処分を覆してくれた家康に近づき、三成を憎むようになったのも無理はないことになります。

まとめ|秀吉は何を許さなかったのか

秀吉に命を奪われた人びとを並べると、秀吉が許さなかったものが見えてきます。戦の決着、軍の規律、奉行の不正、そして豊臣家の跡継ぎを脅かすもの。とくに晩年は、秀頼の将来にかかわることには一切の容赦がありませんでした。処罰が本人で止まったのか、家族まで及んだのかという違いについては、秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで詳しく考えています。

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