歴史ブログ– category –
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赤穂浪士の討ち入りをわかりやすく解説:あの段だら模様は、七十年後に生まれた
黒と白の段だら模様は、討ち入りの七十年以上あとに浮世絵で生まれた意匠です。史料が伝える装束は黒小袖に、白布で包んだ右袖だけ。松の廊下から切腹までを、史実と演出を分けて整理します。 -
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忍城はなぜ落ちなかったのか:二十八キロの石田堤と、切れた夜
日本三大水攻めで唯一失敗したのが忍城である。石田堤は全長二十八キロ。だが水を溜めた当日に堤は切れ、寄せ手に約二百七十人の死者が出た。そして城は攻め落とされないまま開城する。 -
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なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか:十二日で築いた堤と、発掘でわかった本当の大きさ
天正十年、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにした。堤は五月八日着工・十九日完成の十二日間。『太閤記』の伝える大きさと、蛙ヶ鼻の発掘でわかった実測値のちがいから、この工事の中身を読み解きます。 -
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根来衆とは何者だったのか:鉄砲を最初に持った僧たちと、弾痕の残る国宝大塔
和歌山の根来寺を拠点とした僧兵集団・根来衆。寺領七十二万石、僧兵一万余。種子島から持ち帰った一挺の火縄銃から始まった鉄砲隊は、なぜ秀吉に二日で焼かれたのか。 -
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榊原康政はなぜ秀吉に首を狙われたのか:「野人の子」と書いた檄文と、白山林の朝
この記事のポイント 榊原康政は、小牧・長久手の戦いで秀吉を名指しで罵る檄文を出した その文言は「羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず」と伝わる 秀吉が激怒して康政の首に賞を出した、という話がある。ただし「十万石」という数字には裏づ... -
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長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか:二十二歳の初陣と、一領具足という仕掛け
この記事のポイント 長宗我部元親は、幼い頃「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていた。色白でおとなしく、父が跡継ぎとして悩んだほどだった 初陣は永禄三年(1560)五月の長浜の戦い。二十歳をいくつも過ぎてからの、当時としては非常に遅い初陣である その... -
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三好信吉(豊臣秀次)はなぜ白山林で大敗したのか:十七歳の総大将に何が起きたか
この記事のポイント のちの豊臣秀次は、この時点では「信吉」と名乗っていた。数え十七歳である 三河へ向かった別動隊およそ二万四千の総大将が、この十七歳だった 天正十二年(1584)四月九日の早朝、休息中の隊が背後から急襲され壊滅する 本人は馬を失... -
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豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか:丹羽長秀と同じ名を持っていた男
この記事のポイント 秀吉の弟は、はじめ「木下小一郎長秀」と名乗っていた。通称が小一郎、諱が長秀である 織田家中には丹羽長秀という宿老がいて、諱が完全に重なっていた 天正八年(1580)の文書には、本人の署名で「長秀」と残っている 「秀長」への改... -
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豊臣兄弟!第34〜35回「最強のライバル」「秀長誕生」史実解説|小牧・長久手はなぜ痛み分けに終わったのか
この記事のポイント 天正十二年(1584)四月九日、長久手で羽柴方の別動隊が壊滅した。池田恒興・元助父子と森長可が討死している その別動隊の総大将は、秀吉の甥・三好信吉。数え十七歳だった 家康は戦場で勝った。だが秀吉は織田信雄と単独で講和し、戦... -
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豊臣鶴松はなぜ三歳で死んだのか:この子の死から、豊臣家は崩れはじめた
この記事のポイント 鶴松は秀吉に初めて生まれた子。父は五十代半ばだった 天正十九年(1591)、わずか三歳で病没する この死の直後、秀吉は関白を秀次に譲り、朝鮮出兵へ動きだす そして二年後に秀頼が生まれ、秀次は消される。すべてこの子の死から始ま... -
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聚楽第とは:秀吉が天皇を迎え、そして自分で消した城
この記事のポイント 聚楽第は関白・秀吉の「政庁」だった。大坂城とは役割がまるで違う ここに後陽成天皇を迎え、諸大名に忠誠を誓わせた 秀次に譲られたが、秀次事件のあと徹底的に破壊された わずか八年ほどで消えた城。跡地はいま京都の市街地の下にあ... -
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太閤検地と刀狩とは:秀吉はなぜ、自分が上ってきた梯子を外したのか
この記事のポイント 太閤検地は日本で初めて、全国の田畑を同じ物差しで測った事業だった それまで「誰の土地か」も「どれだけ穫れるか」も、国ごとにバラバラだった 刀狩とセットで、「戦う人」と「作る人」を分けたのが本当の狙いである この二つで下剋... -
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森長可とは:森蘭丸の兄「鬼武蔵」が、二十七歳で討死するまで
この記事のポイント 森長可は森蘭丸の兄。本能寺で弟三人を一度に失っている 父も兄も戦死。森家は男が次々に死んでいく家だった 「鬼武蔵」と呼ばれた猛将だが、その猛さは家を継ぐ順番が回ってきた結果でもある 長久手で討死。享年二十七。遺言で、弟に... -
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池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのか:奇襲は成功したあとが本番だった
この記事のポイント 「中入り」とは、にらみ合いの裏をかいて敵の本国を突く作戦のこと 池田恒興が献策し、秀吉が許可した。狙いは家康の本拠・三河だった 失敗の原因は兵力が大きすぎ、進軍が遅すぎたことである 一年前の賤ヶ岳で、佐久間盛政がまったく... -
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織田信雄はなぜ家康に断りもなく秀吉と和睦したのか:戦っていたのは誰だったのか
この記事のポイント 小牧・長久手は「秀吉 対 家康」ではなく「秀吉 対 信雄」の戦いだった 家康は信雄に頼まれて加勢した側である。当事者ではない だから信雄が降りた瞬間、家康は戦う名目そのものを失った 信雄の目的は織田家の家督。秀吉と戦い続ける... -
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秀頼は本当に秀吉の子だったのか:四百年消えなかった疑惑の正体
この記事のポイント 秀吉には多くの側室がいたのに、子を産んだのは茶々ひとりだけだった しかもその茶々が二人続けて産んでいる。疑惑はこの一点から生まれた ただし確定させる史料はない。四百年、誰も証明も否定もできていない 大事なのは「本当か」よ... -
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豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか:秀吉が戦場を離れられた、たったひとつの理由
この記事のポイント 賤ヶ岳で秀吉は戦場を空けている。織田信孝を討つため美濃へ向かった その留守を預かったのが弟の秀長。田上山に布陣したと伝わる 四月二十日、中川清秀が討たれ戦線が動揺するなか、秀長の陣は崩れなかった 美濃大返しが成立したのは... -
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お市の方はなぜ柴田勝家と再婚したのか:信長はもういなかった、誰も命じられない結婚
この記事のポイント お市が勝家と再婚したのは本能寺の変のあと。決めたのは信長ではない 信長がいないということは、この結婚を命令できる人間が誰もいなかった 勝家にとっては「織田家の後見人」を目に見える形にする一手だった 「秀吉もお市を望んでい... -
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北ノ庄城の天守は本当に九層だったのか:フロイスが見た城と、地表に残る石垣
この記事のポイント 宣教師ルイス・フロイスは、北ノ庄城の天守を「安土城より大きい、九層」と記録した ところが天守の礎石は、いまだに見つかっていない 一方でフロイスが書いた「石の屋根」は、物証がある。笏谷石の石瓦である この城が消えたのは、三... -
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柴田勝家とお市の辞世の句:夏の夜のほととぎすに、二人は何を託したのか
この記事のポイント 勝家とお市の辞世は、どちらも「ほととぎす」で終わる 天正十一年四月二十四日は、いまの暦で六月半ば。ほととぎすが実際に鳴く季節だった 同じ鳥に、勝家は「名」を、お市は「別れ」を託している ただしこの二首は同時代の一次史料に...
