三好信吉(豊臣秀次)はなぜ白山林で大敗したのか:十七歳の総大将に何が起きたか

岩崎城/アクセス・場所・地図 小牧・長久手の戦いで徳川方として奮戦した丹羽氏次の居城 岩崎城

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この記事のポイント
  • のちの豊臣秀次は、この時点では「信吉」と名乗っていた。数え十七歳である
  • 三河へ向かった別動隊およそ二万四千の総大将が、この十七歳だった
  • 天正十二年(1584)四月九日の早朝、休息中の隊が背後から急襲され壊滅する
  • 本人は馬を失い、徒歩で落ち延びた。馬を譲った家臣の兄弟は二人とも討死している
  • 戦後、秀吉は五箇条におよぶ折檻状を送りつけたと伝わる

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で「三好信吉」の名で登場する若者がいる。のちの関白・豊臣秀次である。

この人物の名は、教科書では「秀次事件」で切腹した悲運の関白として出てくる。だがその十一年前、彼は二万四千の総大将として戦場に立ち、そして歴史的な負け方をしている。小牧・長久手の戦いにおける、白山林の敗戦である。

数え十七歳。何が起きたのかを、順に見ていきたい。

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目次

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「三好信吉」とは誰のことか ─ 名前が四回変わった男

まず名前を整理しておきたい。この人物ほど、名前が変わった武将も珍しい。

  • 治兵衛… 永禄十一年(1568)、秀吉の同母姉・ともの長男として生まれる。幼名である
  • 宮部吉継… 元亀三年(1572)、名目上、宮部継潤の養子となる。通称は次兵衛尉
  • 三好信吉… 天正三年(1575)以降、三好康長の養子となり、通称を孫七郎、諱を信吉と改める
  • 羽柴秀次… のちに羽柴姓へ戻り、豊臣姓を下賜されて豊臣秀次となる

十歳になるまでに、二回も他家へ養子に出されている。宮部氏も三好氏も、秀吉が調略のために取り込もうとしていた相手である。つまりこの子どもは、伯父の外交の駒として名前ごと差し出されていた。

なお、小牧・長久手の時点での名乗りには少しややこしいところがある。天正十二年の春には羽柴姓へ復して「羽柴信吉」となっていたとする記述がある一方、現地の自治体の解説などでは「三好信吉」と記されることが多い。諱の「信吉」は共通しているので、この記事では現地の表記に合わせて三好信吉と呼ぶことにする。

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徳川家康が陣を置いた小牧山城

小牧山城。家康はここに陣を置き、秀吉は楽田で動きませんでした。

十七歳が、二万四千の総大将だった

天正十二年三月から、秀吉と徳川家康はにらみ合いに入っていた。秀吉は楽田、家康は小牧山城。どちらも動かない。

この膠着を破るために出たのが、三河へ回り込んで家康の本拠・岡崎を突くという策である。世に言う「中入り」だ。

四月六日の夜半、部隊が進発する。編成は四隊だった。

  • 第一隊… 池田恒興・元助父子と森長可
  • 第二隊… 長谷川秀一
  • 第三隊… 堀秀政
  • 第四隊… 三好信吉(総大将)

総勢およそ二万四千。その総大将が、数え十七歳の甥だった。信吉自身が率いた手勢は八千ほどと伝わる。

先鋒は池田恒興と森長可。どちらも織田家で鳴らした歴戦の将である。実質的な指揮は彼らが執っていたと見るのが自然で、総大将の座は名目に近い。だが、名目であっても総大将は総大将である。そして総大将の位置は、行軍の最後尾だった。

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岩崎城(愛知県日進市)

岩崎城。別動隊がここで足を止めているあいだに、徳川方の追撃が間に合った

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長久手の岩崎城跡

岩崎城跡。先鋒の池田勢がここで足を止めているあいだに、徳川方の追撃が間に合いました。

四月九日、白山林

秀吉方の誤算は、この動きが家康に気づかれていたことだった。四月八日、別動隊の進発を察知した家康は、丹羽氏次・榊原康政・大須賀康高らおよそ四千五百を小幡城へ入れ、夜のうちに追撃の態勢をとらせている。

明けて四月九日の未明、先鋒の池田勢が岩崎城への攻撃を開始する。城主の弟・丹羽氏重が十六歳で戦死し、城兵二百余名が討たれたが、この攻城戦のあいだに、別動隊は足を止めてしまった。その頃、最後尾の信吉隊は白山林(現在の愛知県尾張旭市)で休息をとっていたが、午前四時半ごろ、背後から徳川方の先発隊が突っ込んだ。

行軍中の部隊にとって、背後からの奇襲はもっとも立て直しの効かない崩れ方である。しかも休息中で隊列は解けていたから、信吉は応戦したものの、隊はまたたく間に総崩れとなった。

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家臣の兄弟が、二人とも死んだ

この敗走の途中で起きたことが、尾張旭市に伝わっている。逃げる信吉が馬を失ったところへ、家臣の木下勘解由利匡が自分の馬を差し出した。信吉を乗せて逃がし、みずからは追手に向き直って戦い、討死している。兄の木下助左衛門祐久も、同じく追手と戦って討たれた。

十七歳の総大将を一人逃がすために、兄弟が二人とも死んだことになる。それでも信吉は、その馬さえ最後まで保てなかったらしく、史料によれば馬もなく、徒歩で命からがら落ち延びている。

白山林の跡には、いまも木下勘解由の塚が残る。総大将の失敗は記録に残るが、そのために死んだ家臣の名が土地に残っているというのは、考えてみれば重い話である。

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岩崎城跡に立つ石碑

岩崎城跡。城主の弟・丹羽氏重は十六歳で戦死しました。信吉より一つ下です。

そのあと、戦いはどうなったか

白山林の崩壊は、別動隊全体の運命を決めた。第三隊の堀秀政だけは持ちこたえ、桧ヶ根で追ってきた徳川勢を迎え撃ってこれを退けているが、この日、秀吉方が勝ったといえるのはその一戦だけである。

だが先頭の池田・森の両隊は、後方が崩れたことを知って引き返す途中、家康の本隊と正面からぶつかった。仏ヶ根である。

森長可、二十七歳。銃弾を受けて戦死。
池田恒興、四十九歳。嫡男の元助、二十六歳。父子ともに討死。

長久手一日の死者は、羽柴方およそ二千五百、織田・徳川方およそ五百九十と伝わる。

敗戦のあと ─ 秀吉が送った折檻状

秀吉の怒りは激しかった。伝わるところでは、秀吉は秀次に五箇条にわたる折檻状を送りつけ、そこには「一門の恥であるから手討ちにする」という趣旨まで書かれていたという。そのうえで「これからの覚悟次第である」と、条件つきで許している。

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伯父から甥への手紙である。しかも相手は十七歳だ。

ここで少し立ち止まりたい。そもそも十七歳に二万四千の総大将を任せたのは、秀吉自身である。実戦経験のない甥を最後尾に置き、歴戦の将を先鋒に配した。その編成で背後を突かれた。

それを本人の「無分別」として叱責するのは、筋としては苦しい。だが秀吉には、そうするだけの事情もあった。池田恒興と森長可という、代えのきかない将を二人まとめて失っている。誰かが責めを負わなければ、家中が収まらない。

それでも秀次は、後継者になった

意外なのはここからで、これほどの失態を演じながら、秀次はその後も重く用いられ続ける。近江に大きな所領を与えられ、やがて関白の座まで受け継ぐことになる。

理由は単純で、秀吉に子がいなかったからである。実子のいない天下人にとって、姉の子は数少ない血縁だった。血がつながっているという一点が、白山林の失態を上回った。

そして、その血縁がのちに彼を殺すことになる。秀吉に実子・秀頼が生まれたとき、秀次の存在意義は反転した。後継者であることが、そのまま邪魔者であることに変わったのである。

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現地はいま

白山林の一日は、愛知県内の狭い範囲で完結している。

  • 岩崎城(愛知県日進市)… 別動隊が足を止めた城。ここでの数時間が、追撃を間に合わせた
  • 小牧山城(愛知県小牧市)… 家康が本陣を置いた城
  • 犬山城(愛知県犬山市)… 池田恒興が奪った羽柴方の拠点
  • 岡崎城(愛知県岡崎市)… 別動隊が目指していた家康の本拠

岡崎城と三河一帯の現地の様子は、姉妹サイトの実録記事「【実録】家康の岡崎と長篠の戦い ― 田原城・西尾城から長篠城・設楽原・野田城へ|都内発 車1泊2日 三河の史跡めぐり」で写真つきにたどっている。

よくある疑問

Q. 白山林はどこにありますか?
A. 現在の愛知県尾張旭市にあたります。市が史跡として解説を出しており、木下勘解由の塚も残っています。

Q. 秀次は本当に総大将だったのですか?
A. 編成上の総大将は信吉でした。ただし先鋒は池田恒興・森長可という歴戦の将で、実質的な作戦指揮は彼らが担っていたと見られています。

Q. なぜ秀吉の甥が「三好」を名乗っていたのですか?
A. 阿波の三好氏の一族・三好康長の養子となっていたためです。秀吉の調略にともなう養子縁組で、それ以前は宮部氏の養子でもありました。

Q. 折檻状は現存しているのですか?
A. 五箇条にわたる厳しい内容だったと伝わります。細部の文言については研究者によって扱いが分かれる部分もあり、この記事では伝わる趣旨として紹介しています。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 豊臣秀次 … 白山林の総大将。のちに関白となり、高野山で自刃した
  • 豊臣秀吉 … 十七歳の甥に二万四千を預けた伯父
  • 徳川家康 … 別動隊の動きを読み切った側
  • 池田恒興 … 先鋒を務め、仏ヶ根で討死
  • 池田元助 … 恒興の嫡男。父と同じ日に討たれた
  • 森長可 … 「鬼武蔵」。二十七歳で戦死
  • 榊原康政 … 白山林で信吉隊を突き崩した将
  • 豊臣秀長 … この年、伊勢方面と講和交渉を担っていた叔父
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まとめ

白山林の敗戦は、しばしば「秀次の無能を示す一件」として語られる。だが編成を見ると、話はもう少し複雑である。

実戦経験のない十七歳を名目上の総大将に据え、最後尾に置いた。その配置で背後を突かれれば、誰が指揮していても結果は大きく変わらなかっただろう。

それでも彼は総大将だった。責めを負い、折檻状を受け取り、そして許された。許された理由は、能力ではなく血縁である。

その同じ血縁が、十一年後に彼を高野山へ追いやることになる。白山林で家臣に馬を譲られて逃げた十七歳は、そこまで含めて記憶されるべき人物だと思う。

白山林の戦いをもっと詳しく知りたい人におすすめの本

小牧・長久手の戦いを最新の研究で描き直した新書です。白山林での敗戦を、戦い全体の流れの中で理解できます。

豊臣秀次の生涯を史料にもとづいてまとめた人物叢書の一冊です。白山林で大敗した十七歳の総大将が、その後どう生きたのかがわかります。

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◀ 小牧・長久手の戦い全体は:第34〜35回 史実解説

▶ 大河ドラマ『豊臣兄弟!』特集ページ(放送回・テーマから記事を探す)

この戦いで秀次に馬を求められて断ったとされるのが可児才蔵です。「雨降りの傘也」という言葉の出どころもそちらに。

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