豊臣平和令とは|惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令をわかりやすく ─ 秀吉は戦国の「戦う自由」をどう取り上げたのか

実った田のそばで、庄屋が巻物を手に村人たちへ話すイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 豊臣平和令(とよとみへいわれい)とは、秀吉が出した惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令などをまとめて呼ぶ、歴史学の言葉です。歴史家の藤木久志氏が名づけました
  • 共通しているのは、大名・村・百姓・海の武士が、自分の力で争いを解決すること(自力救済)を禁じ、争いは天下人の裁きにゆだねさせる、という考え方です
  • 大名どうしの戦は惣無事令、村どうしの争いは喧嘩停止令、百姓の武器は刀狩令、海の武力は海賊停止令と、相手ごとに命令が出されました
  • ただし「惣無事令」という一つの法令が本当にあったのかなど、研究者のあいだでは今も議論があります

豊臣平和令とは、秀吉が戦国の「戦う自由」を一つずつ取り上げていった命令の総称です。秀吉自身がこの名で呼んだわけではなく、のちの歴史家がまとめて名づけました。『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」では、秀長が「検地、惣無事、バテレンの追放、喧嘩停止、海賊禁止、そして刀狩り」と、兄が重ねてきた命令を思い返す場面があるようです。この記事では、その命令を一つずつ整理します(刀狩令とは)。

目次

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だれの、どんな争いを禁じたのかで分けると、次のようになります(九州停戦令(惣無事令)とは)。

命令 相手 禁じたこと 時期
惣無事令 大名 大名どうしが勝手に戦うこと 天正13年の九州停戦令、天正14年ごろの関東・奥羽への命令など
喧嘩停止令 村 村どうしが武器を持って争うこと 天正年間(時期ははっきりしない)
刀狩令 百姓 百姓が刀や鉄砲などの武具を持つこと 天正16年(1588)7月8日
海賊停止令 海の武士 海上での賊船、通行料を取る海賊行為 天正16年(1588)7月8日

戦国の「自力救済」とは

戦国時代は、争いごとを自分の力で解決するのが当たり前の時代でした。大名は領地をめぐって戦い、村は水や山の利用をめぐって隣村と武器を持って争い、海の武士は船から通行料を取って海を仕切りました。これを「自力救済」といいます(惣村とは)。

秀吉は、この「自分の力で解決する自由」を、相手ごとに取り上げていきました。争いがあれば、天下人に訴えて裁いてもらう。その代わり、勝手に武力を使った者は厳しく罰する。豊臣平和令は、天下人が争いの裁き手になる仕組みづくりだったのです。

惣無事令 ─ 大名の戦を止める

天正13年(1585)、秀吉は九州の島津家と大友家に、戦をやめて領地の争いは秀吉の裁定に従うよう命じました。これが九州停戦令です。島津家がこれに従わなかったことが、九州攻めの理由になりました。関東や奥羽の大名にも同じような命令が出され、のちに北条家が名胡桃城を奪ったことは、この命令への違反として小田原攻めにつながります(名胡桃城事件とは)。

▽ よく語られる話
秀吉は「惣無事令」という一つの法令を出して、全国の大名に戦を禁じた。
▼ 史実ではこうです
藤木久志氏は、秀吉が全国に向けた停戦令を出したと考え、「惣無事令」と呼びました。しかしその後の研究では、全国一律の法令があったのではなく、地域ごとに個別の停戦命令が出されていたのではないか、という見方も出ています。「惣無事」という言葉は史料に見えますが、その中身や広がりについては、今も議論が続いています。

喧嘩停止令 ─ 村の争いを止める

戦国の村は、田に引く水や、薪や草をとる山の利用をめぐって、たびたび隣村と争いました。ときには村人が武器を持って集まり、死者が出ることもありました。秀吉は、こうした村どうしの武力による争いも禁じたとされます。これが喧嘩停止令です。いつ、どのような形で出されたのかははっきりしませんが、争いを起こした村は厳しく罰せられるようになりました(石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのか)。

刀狩令と海賊停止令 ─ 陸と海の武力

天正16年(1588)7月8日、秀吉は同じ日に二つの命令を出しました。陸では百姓から刀や鉄砲を差し出させる刀狩令、海では海の武士たちの賊船を禁じる海賊停止令です。前の年の肥後国人一揆が、武器を持った国人や百姓の力を見せつけたことが、きっかけの一つでした(海賊停止令とは)。

こうして、大名の戦、村の争い、百姓の武器、海の武力という、戦国の世を動かしてきた四つの力が、すべて天下人の許しのもとに置かれることになります。検地で土地と百姓を把握したことと合わせて、戦国の世を終わらせる仕組みが形になっていきました(太閤検地と刀狩とは)。

秀長は兄の命令をどう見ていたのか

史料から、秀長がこれらの命令一つひとつにどんな思いを抱いていたのかを知ることはできません。ただ、秀長は大和で寺社や村と向き合い、検地を進めた大名でした。上からの命令を、現場でどう受け止めさせるか。その難しさを一番よく知っていたのは、秀長だったかもしれません(秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第43回「殿下の刀狩り」は11月8日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀長が利休の茶室で、検地・惣無事・バテレン追放・喧嘩停止・海賊禁止・刀狩りと、秀吉の命令を並べて思い悩む場面があるようです。放送後にこの枠を更新します。

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よくある質問

Q. 豊臣平和令とは何ですか?
A. 秀吉が出した惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令などを、まとめて呼ぶ歴史学の言葉です。

Q. 豊臣平和令はだれが名づけたのですか?
A. 歴史家の藤木久志氏です。

Q. 惣無事令は本当にあったのですか?
A. 「惣無事」という言葉は史料に見えますが、全国一律の法令だったのかについては議論があります。

Q. 喧嘩停止令とは何ですか?
A. 村どうしが武器を持って争うことを禁じた命令です。いつ出されたかははっきりしていません。

まとめ

豊臣平和令は、大名の戦を止める惣無事令、村の争いを止める喧嘩停止令、百姓の武器を集める刀狩令、海の武力を封じる海賊停止令などを、まとめて呼ぶ言葉です。どれも、争いを自分の力で解決する戦国の習わしを禁じ、天下人の裁きにゆだねさせるものでした。その仕組みは江戸時代にも受け継がれ、長い平和の土台になっていきます。

参考:藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会/藤木久志『刀狩り』岩波新書/藤井讓治「「惣無事」はあれど「惣無事令」はなし」

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