大友宗麟とは|ザビエルを迎え、洗礼を受けた九州のキリシタン大名 ─ 臼杵城、耳川の大敗、秀吉への援軍要請、追放令の直前の死

丹生島の崖の上に残る臼杵城の櫓と石垣
この記事のポイント
  • 大友宗麟(義鎮)は、豊後を本拠に九州の北半分に勢力を広げた戦国大名です。最も勢いのあった時期には、六か国の守護を兼ねました
  • 若いころにフランシスコ・ザビエルを府内に迎え、天正6年(1578)にはみずから洗礼を受けました。洗礼名はフランシスコです
  • 同じ年、日向の耳川で島津に大敗し、大友家は急速に力を失います。宗麟は天正14年(1586)、大坂城の秀吉に助けを求めました
  • 秀吉の九州攻めで島津が降伏した直後、天正15年(1587)5月に宗麟は亡くなります。バテレン追放令が出たのは、そのわずかひと月あまり後でした

九州の戦国大名で、キリスト教ともっとも深くかかわった人物をひとり挙げるなら、大友宗麟でしょう。ザビエルを迎え、南蛮貿易で栄え、ついにはみずから洗礼を受けた大名。けれど宗麟の人生は、栄光と転落の落差がとても大きいものでした。そして、秀吉がバテレン追放令を出したとき、宗麟はもうこの世にいませんでした。この記事では、臼杵城の写真とともに、宗麟の生涯をたどります。

丹生島の崖の上に残る臼杵城の櫓と石垣
丹生島の崖の上に残る臼杵城の石垣(臼杵城)
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豊後の大名、九州の北半分へ

宗麟は享禄3年(1530)、豊後の大友家に生まれました。名は義鎮といい、宗麟は出家後の号です。父の死後に家を継ぐと、豊後を中心に勢力を広げ、豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護も兼ねて、九州の北半分を治める大大名になりました。

本拠は、はじめ府内(いまの大分市)にありました。のちに宗麟は、海に突き出た丹生島に臼杵城を築いて移ります。三方を海に囲まれた臼杵城は、まさに天然の要害でした。

臼杵城(丹生島城)/アクセス・場所・地図 大友宗麟が大分府内城より本城を移した要害 臼杵城
臼杵城の跡(臼杵市)

ザビエルを迎えた若き大名

天文20年(1551)、宗麟は府内にフランシスコ・ザビエルを迎えました。ザビエルが日本を去る直前のことです。宗麟は布教を許し、府内には教会や病院が建てられて、日本のキリスト教の拠点のひとつになっていきます。

宗麟がキリスト教を保護した理由のひとつは、南蛮貿易でした。ポルトガルの船がもたらす鉄砲や硝石、そして大きな富は、九州で勢力を競う大名にとって欠かせないものでした。府内は南蛮の品々があふれる、にぎやかな港町になったのです。

大友家の本拠だった府内に、のちに築かれた府内城(大分府内城)
大友家の本拠だった府内に、のちに築かれた府内城(大分府内城)

天正6年の洗礼と、耳川の大敗

天正6年(1578)、宗麟は48歳でみずから洗礼を受けました。洗礼名はフランシスコ。ザビエルにちなんだ名でした(キリシタン大名とは)。

同じ年、宗麟は日向に大軍を送り、島津軍と耳川で戦います。結果は大敗でした。多くの重臣を失った大友家は、ここから坂を転げ落ちるように力を失っていきます。宗麟は日向にキリスト教の理想の国をつくろうとしていたともいわれ、その夢は耳川で砕かれたのでした。

年 宗麟のできごと
享禄3年(1530) 豊後の大友家に生まれる
天文20年(1551) 府内にザビエルを迎える
永禄年間 六か国の守護を兼ね、九州の北半分を治める
天正6年(1578) 洗礼を受ける(洗礼名フランシスコ)。耳川の戦いで島津に大敗
天正10年(1582) 大村純忠・有馬晴信とともに天正遣欧使節をローマへ送る
天正14年(1586) 大坂城で秀吉に会い、島津攻めの助けを求める。臼杵城が島津軍に攻められる
天正15年(1587)5月 島津が降伏した直後、津久見で亡くなる

大坂城の秀吉に助けを求める

島津の勢いに押された宗麟は、天正14年(1586)、大坂城の秀吉をたずね、助けを求めました。このとき宗麟は、秀吉の弟の秀長に会い、「内々のことは利休に、公儀のことは宰相(秀長)に」と声をかけられたと書き残しています。秀長が豊臣政権の表の顔だったことを示す、有名な場面です(大友宗麟の大坂城訪問)。

同じ年、島津軍は豊後に攻めこみ、臼杵城を囲みました。宗麟は南蛮渡来の大砲「国崩し」を撃って城を守りぬいたと伝わります。

島津軍の攻撃にも耐えた臼杵城の跡
島津軍の攻撃にも耐えた臼杵城の跡

追放令を見ずに亡くなる

天正15年、秀吉の大軍が九州に入り、秀長の軍は日向から島津を追いつめました。5月、島津義久が降伏します。その直後、宗麟は豊後の津久見で亡くなりました。58歳でした(九州攻めはどう終わったのか、根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。

そしてひと月あまり後の6月19日、秀吉はバテレン追放令を出します。もうひとりのキリシタン大名の先がけ、大村純忠も、同じ年の4月に亡くなっていました。最初と最大のキリシタン大名が、そろって追放令を見ずにこの世を去ったのです。

▽ よく語られる話
大友宗麟はキリシタンになったせいで家臣に背かれ、大友家を滅ぼした。
▼ 史実ではこうです
宗麟の入信が家中に反発を生んだのは確かですが、大友家が力を失った最大の原因は耳川の大敗でした。そして大友家が改易されたのは、宗麟の死から6年後の文禄2年(1593)、子の義統が朝鮮で撤退した責任を問われたためです。

子の義統と、大友家の終わり

宗麟のあとを継いだ義統も、一度は洗礼を受けましたが、追放令の後に信仰を離れました。文禄2年(1593)、朝鮮出兵で戦わずに退いたことを秀吉にとがめられ、豊後を取り上げられます。鎌倉時代から続いた名門・大友家は、ここで大名としての歴史を終えました(大友義統のその後)。

✎ 筆者の考え
宗麟の生涯は、南蛮の風を誰よりも早く受けとめた大名の、まぶしさと危うさを両方見せてくれます。もし宗麟があと数年生きて、追放令を見ていたら。右近のように信仰をつらぬいたのか、それとも義統のように離れたのか。筆者はどうしても、それが気になってしまいます。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、九州攻めのあとのキリシタン追放令が物語の背景となります。追放令の直前に亡くなった宗麟は、ドラマには登場しないかもしれませんが、九州とキリスト教の関係を知るうえで欠かせない人物です。

よくある質問

Q. 大友宗麟の洗礼名は?
A. フランシスコです。天正6年(1578)に洗礼を受けました。

Q. 大友宗麟の城はどこですか?
A. はじめ府内(大分市)、のちに臼杵の丹生島に臼杵城を築きました。

Q. 大友宗麟はいつ亡くなりましたか?
A. 天正15年(1587)5月、島津の降伏直後に津久見で亡くなりました。

Q. 大友家はその後どうなりましたか?
A. 子の義統が文禄2年(1593)に改易され、大名としての大友家は終わりました。

まとめ

大友宗麟は、ザビエルを迎え、みずから洗礼を受けた九州のキリシタン大名でした。南蛮貿易で栄えた大友家は、耳川の大敗で力を失い、宗麟は秀吉に助けを求めます。島津が降伏した直後に宗麟は亡くなり、そのひと月あまり後、秀吉はバテレン追放令を出しました。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館/臼杵市「臼杵城跡」案内

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