※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 天正15年(1587)は、豊臣秀吉が九州を平定し、名実ともに西日本の主となった年です
- 前半は九州攻め。秀長が日向で、秀吉が肥後・薩摩で島津を追いつめ、5月8日に島津義久が降伏しました
- 6月、博多の近くの筥崎で九州の国分けを行い、焼けた博多の町を立て直させ、バテレン追放令を出しました
- 7月に大坂へ戻ると、9月に京の新しい本拠・聚楽第が完成し、10月1日には北野大茶湯を開きます
- ところが同じ7月、肥後では佐々成政に反発する国人一揆が起きていました。華やかな年の裏で、のちに火種となる出来事も始まっていたのです
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」の舞台は、天正15年(1587)です。この一年、秀吉は九州で島津を降し、京では聚楽第と北野大茶湯で天下人の姿を見せつけました。豊臣政権が大きく広がった年といえます。この記事では、天正15年の出来事を月ごとにたどります。2年後の天正17年については天正十七年に何が起きたのかでまとめています。

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天正15年の年表
| 月日 | できごと |
|---|---|
| 1月1日 | 秀吉が諸大名に九州攻めへの出陣を命じる |
| 2月10日 | 豊臣秀長が九州へ出陣 |
| 3月1日 | 秀吉が大坂城を出陣 |
| 3月下旬 | 島津軍が豊後から撤退。秀吉が豊前の小倉に着く |
| 4月1日 | 岩石城が1日で落ちる |
| 4月6日 | 秀長の軍が日向の高城を囲む |
| 4月17日 | 根白坂の戦い。島津の救援軍が大敗 |
| 4月21日 | 島津義久が秀長に和睦を申し入れる |
| 5月6日 | 大友宗麟が死去 |
| 5月8日 | 島津義久が薩摩の泰平寺で降伏 |
| 6月5日 | 島津家久が佐土原城で急死 |
| 6月7日 | 秀吉が筑前の筥崎で九州の国分けを行う |
| 6月12日 | 焼けた博多の町割り(太閤町割り)を始める |
| 6月19日 | バテレン追放令を出す。高山右近が信仰を選び領地を失う |
| 7月1日 | 肥後で国人一揆が起きる(佐々成政への反発) |
| 7月14日 | 秀吉が大坂に戻る |
| 7月末 | 北野大茶湯の触れを京・奈良・堺などに出す |
| 8月 | 秀長が大納言に、家康が権大納言になる |
| 9月 | 聚楽第が完成し、秀吉が移る |
| 10月1日 | 北野大茶湯。10日間の予定が1日で終わる |
| 10月25日 | 越後の新発田重家が上杉景勝に攻められ自害 |
| 11月22日 | 秀次が権中納言になる |
| 12月 | 肥後国人一揆がほぼ鎮まる。関東・奥羽に惣無事を命じる |
日付は記録や研究によって少し違うことがあります。おおよその流れとしてご覧ください。
1月〜5月:九州攻め ─ 島津の降伏
年の前半は、九州攻め一色でした。2月に秀長、3月に秀吉が大坂を出陣し、合わせて約20万の大軍が九州へ渡ります。秀吉は肥後から薩摩へ、秀長は豊後から日向へと二方面から攻めこみました。4月1日には岩石城がわずか1日で落ち、九州の国衆は次々と豊臣方に降ります。4月17日、日向の根白坂で島津の救援軍が秀長の軍に大敗し、5月8日、島津義久は頭を丸めて秀吉に降伏しました(島津はなぜあっさり秀吉に敗れたのか、秀長の九州攻めをたどる)。
同じ5月6日には、秀吉に助けを求めた豊後の大友宗麟が、島津の降伏を見届ける前に亡くなっています(大友宗麟の大坂城訪問)。
6月:筥崎での国分け、博多の再建、バテレン追放令
島津を降した秀吉は北へ戻り、6月7日、博多の近くの筥崎に入ります。ここで九州の大名の領地を決めました(九州攻めはどう終わったのか)。島津には薩摩・大隅と日向の一部が残され、筑前は小早川隆景、豊前の一部は黒田孝高、肥後は佐々成政に与えられます。
筥崎の秀吉の目の前には、戦乱で焼け野原になった博多がありました。秀吉は博多の町を立て直すよう命じ、町の区画を整えさせます。これが「太閤町割り」です。その実務には、博多の豪商・神屋宗湛や島井宗室が加わりました。
そして6月19日、秀吉はバテレン追放令を出し、宣教師に国外退去を命じます。キリシタン大名の高山右近は、信仰を捨てるか領地を捨てるかを迫られ、信仰を選んで領地を失いました(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。
7月:大坂への凱旋と、肥後の一揆
7月14日、秀吉は大坂に戻りました。ところがその少し前の7月1日、肥後では新しい領主・佐々成政の支配に反発した国人の隈部親永が兵を挙げ、肥後国人一揆が始まっていました。一揆は肥後じゅうに広がり、秀吉は九州や四国の大名を動員して鎮めることになります。一揆の責任を問われた成政は、翌年に切腹させられました(肥後国人一揆とは)。
8月:秀長が「大和大納言」に
8月、九州攻めで日向方面の総大将を務めた秀長は、大納言に任じられます。大和郡山城を本拠とした秀長は、こののち「大和大納言」と呼ばれるようになりました。同じころ、前年に臣従した家康も権大納言になっています。秀吉の弟と、新たに従った家康が、同じ大納言として並んだのです。
9月〜10月:聚楽第の完成と北野大茶湯
9月、京都の内野(平安京の大内裏の跡)に建てていた聚楽第が完成し、秀吉は大坂から移りました。金箔の瓦で飾られた、城のような屋敷です。翌年4月には、ここに後陽成天皇を迎えることになります(聚楽第行幸とは)。
そして10月1日、北野天満宮で北野大茶湯が開かれました。身分を問わずだれでも参加してよいとされた大茶会でしたが、10日間の予定はたった1日で打ち切られます(北野大茶湯とは、北野大茶湯はなぜ開かれたのか、秀吉はなぜ大茶会を開いたのか)。打ち切りの理由には、肥後の一揆の知らせが届いたためという説もあります。
11月〜12月:東へ向かう目
10月には越後で新発田重家が上杉景勝に攻められて自害し、景勝の越後統一が成ります。12月には、秀吉は関東と奥羽の大名に私戦をやめるよう命じました(関東・奥両国惣無事とは)。西を平らげた秀吉の目は、まだ従っていない北条と、その先の奥羽へ向かい始めていました。この流れが、3年後の小田原攻めへとつながっていきます。
天正15年は、九州平定と北野大茶湯で豊臣家が絶頂を迎えた、めでたいばかりの年だった。
華やかな出来事の裏で、肥後国人一揆が起き、バテレン追放令で高山右近が領地を失っています。新しい領地の治め方や、キリシタンへの対応など、のちに政権を悩ませる問題もこの年に始まっていました。
よくある疑問
Q. 天正15年は西暦何年ですか?
A. 1587年です。
Q. 天正15年の大きな出来事は何ですか?
A. 九州攻めでの島津の降伏(5月)、バテレン追放令(6月)、肥後国人一揆(7月)、聚楽第の完成(9月)、北野大茶湯(10月)です。
Q. 北野大茶湯はなぜこの年に開かれたのですか?
A. 九州平定と聚楽第の完成を祝い、京の人々に天下人の姿を見せる狙いがあったと考えられています。
Q. 大河『豊臣兄弟!』では何回がこの年ですか?
A. 第42回「北野大茶湯」が天正15年の秋を舞台にすると伝えられています。
九州攻めのあいだ、秀次が京都で何をしていたのかは、天正15年の豊臣秀次は何をしていたのかで紹介しています。
九州攻めのあと秀吉が焼けた博多をどう立て直したのかは、博多の「太閤町割り」とはで、神屋宗湛と島井宗室の話とあわせて紹介しています。
一揆のあと肥後を分けあった二人については、加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのかで比べています。
同じころ豊前でも黒田家に対する一揆が起きていました。豊前国人一揆とはで紹介しています。
岩石城の先鋒を務めた武将については、蒲生氏郷とはで紹介しています。
秀吉が出兵を言い出すまでの数年間は、秀吉はいつから朝鮮出兵を考えていたのかで日付順に追っています。
同じ天正15年、大坂では細川忠興の妻・玉がひそかに洗礼を受けていました。細川ガラシャはなぜバテレン追放令のあとに洗礼を受けたのかで紹介しています。
岩屋城の落城から立花宗茂が大名になるまでは、立花宗茂は父の玉砕から11か月で大名になったで追っています。
参考:『国史大辞典』「九州征伐」「聚楽第」「北野大茶湯」、『多聞院日記』ほか
