秀長は佐々成政の介錯をしたのか|『豊臣兄弟!』第43回「秀吉が大嫌いじゃ」の場面と史実 ─ 尼崎・法園寺の切腹、検使と辞世

白い幕が張られ、白い布と畳が敷かれた夕暮れの寺の中庭
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第43回の予告では、佐々成政の切腹で秀長が介錯人をつとめる場面が映りました
  • 史実の成政は、天正16年(1588)閏5月14日、摂津尼崎の法園寺で切腹しました。秀長が介錯したという記録は見当たりません
  • 切腹の検使には加藤清正があたったと伝わり、成政は「このごろの厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今やぶるなり」という辞世を残したとされます
  • 秀長と成政のあいだに直接の深い縁は見えませんが、秀長は諸大名との取次役として、成政のように豊臣家に従った元敵将とも向き合う立場にありました

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」の予告では、中庭に座った佐々成政が短刀を手にし、そのかたわらで秀長が介錯人として刀を構える場面が映りました。成政は「秀吉が大嫌いじゃ」と言い放ち、秀長は苦しげな表情でそれを受けとめます。では、史実の秀長は本当に成政の介錯をしたのでしょうか。この記事では、成政の切腹の日付・場所・立ち会った人物を記録からたどり、ドラマの場面と比べます。

真冬の北アルプスを越える佐々成政の一行のイメージ
真冬の北アルプスを越える佐々成政の一行のイメージ(イラスト)。秀吉に二度逆らった成政の生き方を象徴する場面
目次

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結論:秀長が介錯したという記録は見当たらない

先に結論を書くと、秀長が成政の介錯をしたという記録は見当たりません。成政が切腹したのは摂津の尼崎で、秀長はこのころ大和郡山や京を行き来していました。ドラマの場面は、兄の命令で切腹させられる成政の最期を、弟の秀長が見届けるという形に脚色したものとみられます。

切腹した日 天正16年(1588)閏5月14日
場所 摂津国尼崎の法園寺(いまの兵庫県尼崎市)
命じた人 豊臣秀吉
検使 加藤清正と伝わる
介錯人 記録ではっきりしない
辞世 このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり
墓所 尼崎の法園寺

成政はなぜ切腹を命じられたのか

成政は、九州攻めのあと天正15年(1587)に肥後一国を与えられました。ところが入国してまもなく、隈部親永ら肥後の国人たちが一斉に兵をあげます。肥後国人一揆です。成政は自力で一揆を鎮めることができず、秀吉は九州や四国の大名を動員して、ようやく年末に鎮圧しました(肥後国人一揆とは)。

天正16年2月、成政はわびを入れるために大坂へ向かいますが、秀吉は会おうとせず、成政は尼崎に留め置かれました。安国寺恵瓊らが命ごいをしたとも伝わりますが聞き入れられず、閏5月14日、切腹が命じられます。秀吉が国人たちの権利を3年は守るよう言い含めていたのに、成政が急いで検地を進めたことが一揆を招いた、とよく説明されます。ただ、切腹の日に出された秀吉の文書は検地にふれず、成政と隈部親永の不和を一揆の原因としているとされ、一揆を自分で鎮められなかった責任を問われたとみる説もあります。

切腹の場に立ち会ったのは誰か

切腹は、命じた側から「検使」と呼ばれる見届け役が送られて行われます。成政の切腹の検使には、加藤清正があたったと伝わります。清正はこのあと、成政の旧領だった肥後の北半分を与えられることになります(加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのか)。

介錯人がだれだったのかは、はっきりしません。成政は短刀を腹に突き立てて横一文字に引き、はらわたをつかみ出して天井に投げつけたという、すさまじい最期の話も伝わっています。ただしこれは後世の軍記などに見える話で、そのまま事実とは言いきれません。

尼崎城跡の石垣と櫓(兵庫県尼崎市)
尼崎城跡の石垣と櫓(兵庫県尼崎市)。成政が最期を迎えた法園寺も尼崎の町なかにある

成政の墓は、いまも尼崎の法園寺にあります。境内には辞世を刻んだ碑も建てられています。

「秀吉が大嫌いじゃ」は本当か

予告で成政が口にする「秀吉が大嫌いじゃ」という言葉は、もちろんドラマのせりふです。ただ、成政が秀吉と長く対立してきたことは史実です。

  • 本能寺の変のあと、成政は柴田勝家について秀吉と争った
  • 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄の側について秀吉に敵対した
  • 家康と信雄が秀吉と和睦すると、成政は冬の北アルプスを越えて浜松の家康のもとへ向かい、もう一度戦うよう説いた(さらさら越え)
  • 天正13年(1585)、秀吉の大軍に富山城を囲まれ、頭を丸めて降伏した

秀吉に二度逆らい、それでも命を助けられて大名に返り咲いた成政が、最後は肥後の失政を理由に切腹させられる。成政にしてみれば、「大嫌い」と言いたくなる気持ちもわからなくはありません(佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのか)。

なぜドラマは秀長に介錯させたのか

秀長と成政のあいだに、記録に残るほどの深い縁は見えません。それでもドラマが秀長を介錯人にしたのは、秀長がこの物語の主人公であり、兄の政治の「後始末」を引き受ける役回りとして描かれてきたからでしょう。

史実の秀長も、諸大名と秀吉のあいだに立つ取次役として、敵だった大名を豊臣家の秩序に迎え入れる仕事を数多く手がけました。九州では島津家との和睦にかかわり、天正16年の夏には上洛した毛利輝元や北条氏規の接待役もつとめています。秀吉に逆らった者を許し、つなぎとめるのが秀長の仕事だったとすれば、許されなかった成政の最期をその秀長が見届けるという筋には、ドラマなりの意味がこめられているのかもしれません(豊臣政権の「取次」とは何か)。

成政の切腹のあとに起きたこと

成政の切腹から2か月たたない7月8日、秀吉は刀狩令を出しました。肥後のように百姓が武器をとって立ちあがることを防ぐ、というのがその大きなねらいでした。ドラマで秀吉が「刀狩りじゃ」と宣言するのは、この流れを受けたものです(太閤検地と刀狩とは)。肥後は加藤清正と小西行長に分けて与えられ、成政の佐々家は大名としての地位を失いました。

よくある質問

Q. 秀長は佐々成政の介錯をしたのですか?
A. そうした記録は見当たりません。ドラマの脚色とみられます。

Q. 佐々成政はいつ、どこで切腹しましたか?
A. 天正16年(1588)閏5月14日、摂津尼崎の法園寺で切腹しました。

Q. 成政の切腹の検使はだれですか?
A. 加藤清正と伝わります。

Q. 佐々成政の辞世は?
A. 「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」と伝わります。

まとめ

『豊臣兄弟!』第43回の予告で映った、秀長が佐々成政の介錯をする場面は、記録からは確かめられず、ドラマの脚色とみられます。史実の成政は天正16年閏5月14日、尼崎の法園寺で切腹し、検使には加藤清正があたったと伝わります。秀吉に二度逆らった成政の「秀吉が大嫌いじゃ」というせりふは創作ですが、その生き方をよく表したひとことといえそうです。放送後に、描かれ方と史実のちがいを追記します。

参考:Wikipedia「佐々成政」/外川淳「名誉か刑罰か?佐々成政のあいまいな切腹」(BEST TiMES)

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