加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのか|佐々成政の切腹のあと、北半国と南半国 ─ 七本槍と堺の商人の子、関ヶ原で分かれた道

熊本城:加藤清正苦心の城 石垣が立派な新緑の熊本城
この記事のポイント
  • 天正16年(1588)閏5月、肥後国人一揆の責任を問われた佐々成政が切腹すると、秀吉は肥後を二つに分け、北半国を加藤清正に、南半国を小西行長に与えました
  • 加藤清正は秀吉と同じ尾張中村の生まれで、賤ヶ岳の七本槍の一人。肥後で19万5千石を得て、隈本城(のちの熊本城)を本拠にしました
  • 小西行長は堺の豪商・小西隆佐の子で、秀吉の水軍を担った商人出身の武将。宇土・八代・天草など約15万石を得て、宇土城を築きました
  • 一人の大大名に任せず、性格も得意分野もちがう二人に分けたことで、肥後の支配は落ち着きました。一方で、この二人はのちに朝鮮出兵や関ヶ原で、はっきりと道を分けることになります

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回では、肥後国人一揆とその責任を問われる佐々成政の姿が描かれると伝えられています。一揆のあと、肥後の新しい主になったのが、加藤清正と小西行長の二人でした。この記事では、肥後がなぜ二人に分けられたのか、そして二人がどんな武将だったのかを比べながら紹介します。一揆そのものについては肥後国人一揆とはでくわしく書いています。

目次

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肥後が二人に分けられるまで

時期 できごと
天正15年(1587)6月 九州の国分けで、佐々成政に肥後一国が与えられる
天正15年7月 成政への反発から、隈部親永らが挙兵。肥後国人一揆が広がる
天正15年12月ごろ 九州・四国の大名が動員され、一揆がほぼ鎮まる
天正16年(1588)閏5月14日 成政が摂津尼崎の法園寺で切腹
天正16年閏5月 肥後北半国を加藤清正に、南半国を小西行長に与える
天正17年(1589) 天草の国人が一揆を起こし、清正と行長が共に鎮める

成政は肥後一国という大きな領地を一人で任されましたが、国人たちの反発を抑えきれませんでした。そこで秀吉は、肥後を北と南に分け、二人の大名に治めさせることにします。一人に大きすぎる領地を与えず、互いに目を光らせあう形にすることで、一揆の再発を防ごうとしたと考えられています。

二人をくらべる

加藤清正 小西行長
生まれ 永禄5年(1562)、尾張中村 永禄元年(1558)ごろ、堺の豪商の家
出自 秀吉の遠い親類ともいわれ、幼いころから仕えた子飼いの武将 父は堺の商人・小西隆佐。宇喜多家をへて秀吉に仕えた
得意 槍働きと築城・治水などの土木 船と水運、商い、外交交渉
肥後での領地 北半国 19万5千石 南半国 約15万石(宇土・益城・八代・天草)
本拠 隈本城(のちの熊本城) 宇土城
信仰 熱心な法華宗(日蓮宗)の信者 キリシタン(洗礼名アゴスチーニョ)
関ヶ原 東軍。戦後に肥後一国54万石 西軍。捕らえられ京都で処刑

加藤清正 ─ 七本槍から肥後の主へ

清正の生涯全体は加藤清正:羽柴秀吉の小姓から一躍肥後一国の大名へでまとめています。ここでは肥後入りの前後に絞ります。

加藤清正は、秀吉と同じ尾張中村に生まれ、秀吉の遠い親類ともいわれます。幼いころから秀吉のもとで育ち、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで活躍して「七本槍」の一人に数えられました(天正16年、七本槍はどこまで出世していたのか)。とはいえ、それまでの清正の領地は数千石ほどにすぎません。肥後の19万5千石は、いきなり大名へと引き上げられる大抜擢でした。

清正は隈本に入り、城を大きく造りかえていきます。これがのちの熊本城です(熊本城)。清正は築城だけでなく、川の流れを変え、堤を築き、田を開くなど、領国の土木事業にも力を注ぎました。いまも熊本で「清正公(せいしょこ)さん」と親しまれているのは、こうした国づくりの跡が残っているからです。

小西行長 ─ 堺の商人の子が大名に

小西行長は、堺の豪商・小西隆佐の子です。若いころは備前の宇喜多直家に仕え、その縁で秀吉に仕えるようになりました。行長が力を発揮したのは船と水運です。瀬戸内の水軍を任され、小豆島などを治めて、秀吉の「海の奉行」として働きました。

行長はキリシタンでもありました。肥後南半国に入ると宇土城を築き、宇土・八代・天草など、海に面した土地を治めます。港と船をよく知る行長に、有明海や八代海に開けた肥後の南を任せたのは、秀吉らしい人選でした(宇土城跡)。

秀吉はなぜこの二人を選んだのか

清正と行長は、生まれも得意分野も、信仰までもまったく違う二人でした。秀吉がこの二人を並べたのには、いくつかの理由が考えられます。

一つめは、一揆のあとの肥後を確実に治めるためです。槍働きと土木に長けた清正と、交渉と水運に長けた行長。違う力を持つ二人に分けることで、北と南それぞれの土地に合った治め方ができました。

二つめは、大陸への出兵を見すえていたことです。肥後は九州の西側にあり、朝鮮へ渡る港に近い土地です。のちの朝鮮出兵で、清正と行長はそろって先鋒を務めることになります。秀吉はすでにこのころから、自分の手足となって大陸へ渡る大名を九州に置こうとしていたのかもしれません。

よく語られる話

加藤清正と小西行長は、肥後を分けあった時から仲が悪かった。

史実ではこうです

肥後に入った翌年の天草一揆では、二人は力を合わせて鎮めています。二人の対立がはっきりするのは、朝鮮出兵で先陣を争い、講和の進め方をめぐって意見が割れてからのことでした。

二人のその後

文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵で、行長と清正はそれぞれ一番隊・二番隊を率いて先陣を争いました。戦のあいだ、講和を探る行長と、戦い抜こうとする清正の考えは大きく食い違い、二人の対立は深まっていきます。この対立は、清正ら武断派と石田三成ら奉行衆との不仲にもつながりました(加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ不仲だったのか)。

そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、行長は西軍、清正は東軍につきます。行長は敗れて捕らえられ、キリシタンとして自害を選ばず、10月1日、石田三成・安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で処刑されました。一方の清正は、行長の旧領も合わせて肥後一国を与えられ、熊本城を完成させます。同じ日に肥後を分けあった二人は、12年後、まったく違う結末を迎えたのです。

よくある疑問

Q. 肥後が加藤清正と小西行長に分けられたのはいつですか?
A. 天正16年(1588)閏5月です。佐々成政が肥後国人一揆の責任を問われて切腹した直後でした。

Q. 清正と行長は肥後のどこを治めたのですか?
A. 清正が北半国(19万5千石、本拠は隈本)、行長が南半国(約15万石、本拠は宇土)です。

Q. なぜ肥後は二つに分けられたのですか?
A. 一揆のあとの肥後を一人の大名に任せず、得意分野の違う二人に治めさせることで、支配を安定させようとしたと考えられています。

Q. 清正と行長は仲が悪かったのですか?
A. 肥後に入った当初は天草一揆を共に鎮めています。対立が深まったのは朝鮮出兵のころからです。

参考:宇土市「小西行長」、八代市立博物館「八代城関係略年表」、『国史大辞典』「加藤清正」「小西行長」ほか

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