コエリョとは|秀吉に軍船を見せたイエズス会の日本準管区長 ─ 大坂城の会見、博多のフスタ船、バテレン追放令のあと武器を求めた男

平戸の浜に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちと見送る信者のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • ガスパル・コエリョは、ポルトガル出身のイエズス会の宣教師です。天正9年(1581)から日本の布教の責任者(日本準管区長)を務めました
  • 天正14年(1586)、大坂城で秀吉に会い、布教の許しを得ています。このとき秀吉は、大陸に兵を出す考えを語ったとも伝わります
  • 天正15年、九州攻めを終えた秀吉を博多に訪ね、自分の小型の軍船(フスタ船)に招きました。その数日後、秀吉はバテレン追放令を出します
  • 追放令のあとも日本を離れず、フィリピンから兵や武器を呼び寄せようと動きましたが、巡察師ヴァリニャーノに止められました。天正18年(1590)、肥前の加津佐で亡くなります

バテレン追放令の話をすると、必ずといっていいほど名前が出てくる宣教師がいます。ガスパル・コエリョ。追放令の直前に秀吉と会い、追放令のあとは秀吉に逆らおうとまで考えた人物です。宣教師の側から見れば熱心な指導者、秀吉の側から見れば危うい男。この記事では、コエリョの足どりを追いながら、彼が追放令にどうかかわったのかを考えます(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。

平戸の浜に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちと見送る信者のイメージ(イラスト)
平戸に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちのイメージ(イラスト)
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

コエリョとはどんな人物か

コエリョは、ポルトガル生まれのイエズス会士です。インドを経て日本に来たのは元亀3年(1572)ごろとされ、九州を中心に布教にあたりました。天正9年(1581)には、日本全体の布教をまとめる日本準管区長に任じられます。

当時の日本には百人をこえる宣教師がいましたが、その頂点に立っていたのがコエリョでした。のちに『日本史』を書くルイス・フロイスは、通訳として長くコエリョのそばにいた人物です(伴天連(バテレン)とは)。

年 コエリョのできごと
元亀3年(1572)ごろ 日本に来る。九州で布教にあたる
天正9年(1581) 日本準管区長となる
天正14年(1586)3月 大坂城で秀吉に会う。布教の許しを得る
天正15年(1587)6月 博多で秀吉を自分のフスタ船に招く。数日後、バテレン追放令
天正15年以降 日本を離れず、九州で宣教師たちをまとめる。フィリピンに援軍を求める
天正18年(1590) 肥前の加津佐で亡くなる

大坂城の会見 ─ 上機嫌だった秀吉

天正14年(1586)3月、コエリョはフロイスらとともに大坂城をたずね、秀吉に会いました。このときの秀吉はとても上機嫌で、城の中をみずから案内し、布教を許す書状まで与えています。

フロイスの記録によると、秀吉はこの席で、日本を平定したあとは大陸に兵を出すつもりだと語り、そのためにポルトガルの大きな船を手配してほしいと頼んだともいわれます。もしこれが本当なら、コエリョは秀吉の大きな構想を、最初に聞いた外国人のひとりだったことになります(秀吉はいつから朝鮮出兵を考えていたのか)。

博多のフスタ船 ─ 追放令の数日前

翌天正15年6月、九州攻めを終えた秀吉は、筑前の筥崎に陣を置きました。コエリョはここで秀吉をたずね、自分が乗ってきた小型の軍船、フスタ船に秀吉を招きます。大砲を積んだその船を、秀吉は興味深そうに見て回ったといいます。

ところが、そのわずか数日後の6月19日、秀吉はバテレン追放令を出しました。なぜ秀吉の態度は急に変わったのか。理由はひとつではありませんが、コエリョが見せた武装した船が、宣教師の背後にある軍事力を秀吉に意識させた、という見方があります(天正十五年に何が起きたのか)。

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト
港町の南蛮寺の前で宣教師と語らう人びとのイメージ(イラスト)
▽ よく語られる話
コエリョが軍船を見せびらかしたせいで、秀吉は怒ってバテレン追放令を出した。
▼ 史実ではこうです
フスタ船の見学が秀吉の心に影響した可能性はありますが、それだけが理由ではありません。長崎が教会の領地になっていたこと、寺社の破壊、日本人が海外へ売られていたことなど、秀吉は以前からいくつもの問題を気にかけていました。フスタ船は、そうした警戒心に火をつけたきっかけのひとつと見るのがよいでしょう。

追放令のあと ─ 武器を求めたコエリョ

追放令が出ると、コエリョは宣教師たちを平戸に集めました。しかし日本を離れることはせず、九州のキリシタン大名の領内にとどまります(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

さらにコエリョは、フィリピンのスペイン勢力に兵や武器を送ってほしいと求め、キリシタン大名たちに秀吉への抵抗をうながそうとしたといわれます。この動きは、のちに日本に戻った巡察師ヴァリニャーノによって止められ、送られてきた武器もひそかに処分されたと伝わります。もしこの計画が秀吉に知られていたら、追放令どころではすまなかったかもしれません。

✎ 筆者の考え
コエリョを「秀吉を怒らせた軽率な人」とだけ見るのは、少しかわいそうな気もします。彼は、日本の信者を守ろうと必死だったのでしょう。ただ、その守り方が武器と軍船に向かったことが、宣教師全体への疑いを深めてしまった。信仰と力の距離のとり方を誤った人、というのが筆者の見立てです。
冬の長崎の港を見おろす丘に十字架が並び、人びとが祈るイメージ(イラスト)
のちに二十六聖人が殉教する長崎の丘のイメージ(イラスト)

コエリョの最期とその後

コエリョは天正18年(1590)、肥前の加津佐で亡くなりました。同じ年、ヴァリニャーノは天正遣欧使節の少年たちを連れて日本に戻り、翌年インド副王の使節として聚楽第で秀吉に会います。ヴァリニャーノの穏やかなやり方によって、宣教師たちは追放令のもとでも、目立たない形で日本にとどまり続けることができました。

それでも、秀吉の宣教師への疑いが消えたわけではありません。慶長元年(1596)には二十六聖人の殉教が起き、江戸時代には禁教が本格化していきます(慶長の禁教令とは)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が描かれるようです。追放令に至るまでの秀吉と宣教師の関係を知るうえで、コエリョは欠かせない人物です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. コエリョとはだれですか?
A. ポルトガル出身のイエズス会宣教師で、日本の布教の責任者(日本準管区長)でした。

Q. コエリョは秀吉に会ったのですか?
A. 天正14年に大坂城で、天正15年に博多で会っています。

Q. フスタ船とは何ですか?
A. 大砲などを積んだ小型の軍船です。コエリョは博多で秀吉をこの船に招きました。

Q. コエリョはどこで亡くなりましたか?
A. 天正18年(1590)、肥前の加津佐で亡くなりました。

まとめ

ガスパル・コエリョは、日本の布教をまとめたイエズス会の責任者でした。大坂城では秀吉に歓迎されましたが、博多でフスタ船を見せた数日後に追放令が出され、その後は武器を求めて秀吉に抵抗しようとまでしました。追放令の裏には、宣教師と秀吉のあいだの、深まっていく疑いがあったのです。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店/安野眞幸『バテレン追放令』ちくま学芸文庫

  • URLをコピーしました!
目次