- 北条氏規(ほうじょう うじのり)は、小田原の北条氏康の子で、当主・氏政の弟です。伊豆の韮山城主として、北条家の外交を担いました
- 少年時代に駿府で今川家の人質として過ごし、同じく人質だった徳川家康(竹千代)と知り合っていたと伝わります。この縁から、北条家と徳川家の交渉役を務めました
- 天正16年(1588)8月、上洛を渋る兄の氏政に代わって京に上り、聚楽第で秀吉に会いました
- 天正18年の小田原攻めでは韮山城で籠城しましたが、家康のすすめで開城します。北条家が滅んだあとも生きのび、子孫は河内の狭山藩として江戸時代を通じて続きました
北条氏規は、北条氏政の弟で、北条家と豊臣家・徳川家をつなぐ外交役だった武将です。天正16年(1588)、上洛しない兄に代わって聚楽第へ出向き、秀吉と向き合いました。『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」では、氏規が聚楽第に参上する場面が描かれそうです。この記事では、氏規の生涯と、北条家の滅亡のなかで生きのびた理由を紹介します(北条氏政とは)。
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駿府の人質時代と家康
氏規は天文14年(1545)、北条氏康の子として生まれました。北条・武田・今川の三家が同盟を結んだころ、氏規は今川家の本拠・駿府に送られ、人質として少年時代を過ごします。同じころ駿府には、松平竹千代、のちの徳川家康も人質として暮らしていました。二人は屋敷が近く、親しくしていたと伝わります(北条五代100年の歴史)。
この縁は、のちに北条家と徳川家の交渉で生きてきます。天正10年の本能寺の変のあと、甲斐・信濃をめぐって北条と徳川が争ったときも、和睦をまとめる場面で氏規の名が出てきます。
韮山城主として
氏規は伊豆の韮山城をまかされ、相模の三崎城なども受け持ちました。韮山は、北条家の祖・伊勢宗瑞(北条早雲)が本拠とした城で、伊豆と駿河を見張る要の地です。北条家の領国の西の守りを担う立場でした(北条家の領国とは)。
韮山城)” class=”wp-image-4406″ />天正16年、聚楽第で秀吉と向き合う
家康が天正14年に臣従したあと、秀吉は北条家にも上洛を求めました。しかし当主の氏直や、実権を握る隠居の氏政は動きません。天正16年、間に立った家康のすすめもあって、北条家は氏規を京へ送ることにしました。8月、氏規は聚楽第で秀吉に会い、北条家として豊臣政権に従う姿勢を示します。
ただ、氏規が上洛しても、氏政本人が来ないことに秀吉は不満でした。その後、北条家は沼田領の問題で真田家と争い、天正17年の名胡桃城事件をきっかけに、秀吉は小田原攻めを決めます(名胡桃城事件とは)。
韮山城の籠城と開城
天正18年(1590)、豊臣の大軍が小田原に迫ると、氏規は韮山城にこもりました。わずかな兵で数万の豊臣方を相手に、数か月にわたって城を守り抜きます。最後は旧知の家康のすすめを受けて城を開きました(韮山城)。
7月に小田原城が開城すると、兄の氏政と氏照は切腹を命じられました。氏規は兄たちの最期を見届けたと伝わります。当主の氏直は家康の娘婿だったこともあって命を助けられ、高野山に送られました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。
生きのびた氏規と、狭山藩
北条家の本家は滅びましたが、氏規は秀吉に許され、河内などに領地を与えられて豊臣家に仕えました。慶長5年(1600)に亡くなり、子の氏盛が跡を継ぎます。氏盛の家は河内の狭山藩一万石の大名として江戸時代を通じて続き、北条の名を明治まで伝えました。外交に生きた氏規の家が、北条の血筋を後世に残したことになります。
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よくある質問
Q. 北条氏規とはだれですか?
A. 北条氏康の子で、当主・氏政の弟です。韮山城主として北条家の外交を担いました。
Q. 北条氏規はいつ上洛しましたか?
A. 天正16年(1588)8月に上洛し、聚楽第で秀吉に会いました。
Q. 北条氏規と徳川家康の関係は?
A. 少年時代に二人とも駿府で今川家の人質として過ごし、親しかったと伝わります。
Q. 北条氏規は小田原攻めのあとどうなりましたか?
A. 許されて豊臣家に仕え、子の氏盛の家は河内の狭山藩として江戸時代を通じて続きました。
まとめ
北条氏規は、駿府での人質時代に家康と知り合い、その縁を生かして北条家の外交を担った武将でした。天正16年には兄の氏政に代わって聚楽第へ上洛し、戦を避ける道を探りますが、氏政が動かなかったことで北条家は小田原攻めを受けます。韮山城で籠城したのち開城した氏規は生きのび、その家は狭山藩として北条の名を残しました。
参考:『北条五代記』/黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ日本評伝選/黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版

