※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」で、秀長の娘・末(すえ)が初登場します。演じるのは池端杏慈さん。公式の紹介では「秀長と慶の間に生まれたひとり娘」で、奔放な性格だが心優しい少女、とされています。
では、史実の秀長に娘はいたのでしょうか。いたとすれば、誰に嫁ぎ、最後はどうなったのか。史料に残る秀長の娘たちをたどると、ドラマの「ひとり娘」とは少し違う姿が見えてきます。
- 史実の秀長には、名前の伝わる娘が少なくとも二人いた。養子の秀保に嫁いだ娘と、毛利秀元に嫁いだ「きく」(大善院)である
- 秀保に嫁いだ娘は、結婚から数年で夫を亡くし、大和豊臣家はそこで絶えた
- きくは秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぎ、慶長十四年(1609)、二十二歳(数え)で亡くなったとされる。墓は京都・大徳寺の大光院
- 「末」という名前は史料では確認できず、年齢の設定も実在の娘たちとは合わない。ドラマ独自の人物とみられる
ドラマの末:秀長と慶のひとり娘
第37回は、四国攻めの恩賞として秀長が大和一国を与えられ、大和郡山城に移る回です。末はその新しい国で暮らしはじめる秀長一家の娘として登場します。母の慶は吉岡里帆さんが演じています。
放送の舞台は天正十三年(1585)ごろ。ドラマの末は、この時点で「少女」として描かれます。ここが、史実と比べるときの手がかりになります。第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。
史実の秀長には、娘が何人いたのか
秀長の子として名前が伝わるのは、早くに亡くなった男子の与一郎と、娘たちです。娘のうち、嫁ぎ先まではっきりしているのは次の二人です。
- 秀保(ひでやす)に嫁いだ娘:秀長の養子・秀保の妻。名は「みや」とされる
- きく(大善院):秀吉の養女として毛利秀元に嫁いだ娘
このほか、森忠政の妻となった岩(いわ)を秀長の娘(養女)に数えることもあります。いずれにしても、「ひとり娘」というドラマの設定とは違い、秀長には複数の娘がいました。
母親についても、はっきりしないところが残ります。秀保に嫁いだ娘は正室の慈雲院(ドラマの慶)の子とする見方がある一方、側室の子とする説もあります。きくは側室の子で、母の名はよく分かっていません。
秀保に嫁いだ娘:夫の早世と、大和豊臣家の断絶
一人目は、秀長の跡継ぎとなった秀保の妻です。天正十六年(1588)の年紀をもつ長谷寺の金灯籠に「和州大納言秀長公姫君三八女」と刻まれているとされ、この「三八(みや)」が彼女の名だと考えられています。
秀長には跡を継ぐ男子が育たなかったため、姉・ともの三男である秀保を養子に迎え、この娘と結ばせて家を継がせました。祝言は秀長が亡くなる直前、天正十九年(1591)のことで、秀保は十三歳、娘はまだ幼かったとされます。
しかし秀保は、文禄四年(1595)四月、大和の十津川で十七歳の若さで急死します。二人のあいだに子はなく、百万石の大和豊臣家はここで断絶しました。夫を失ったあとの彼女の暮らしについては、はっきりした記録がほとんど残っていません。
豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか:養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶
秀長の跡継ぎ問題と、秀保の死で家が絶えるまでを追っています。
毛利秀元に嫁いだ「きく」:二十二歳での死
二人目のきくは、天正十六年(1588)の生まれとされます。つまり秀長が大和に入った天正十三年には、まだ生まれていません。
秀長が亡くなったあと、きくは伯父である秀吉の養女という立場で、毛利輝元の養子・毛利秀元に嫁ぎました。婚儀は文禄四年(1595)二月、広島で行われたとされます。数えで八歳の花嫁でした。豊臣家と、中国地方の大大名・毛利家を結ぶ縁組だったのです。
夫の秀元は、関ヶ原の戦い(1600)で西軍として南宮山に陣を構えましたが、戦わないまま敗戦を迎えます。戦後、毛利家は大きく領地を減らされ、秀元はのちの長府藩につながる所領を与えられました。
きくが亡くなったのは慶長十四年(1609)、数えで二十二歳でした。法名は大善院。墓は京都・大徳寺の大光院にあると伝わります。大光院は、もともと秀長の菩提を弔うために建てられた寺です。若くして亡くなった娘は、父のそばに葬られたことになります。
なお、きくと秀元のあいだの子どもについては、はっきりしたことが分かっていません。秀元はのちに、徳川家康の養女を継室に迎えています。
末のモデルはどちらなのか
ドラマの末は、天正十三年ごろにすでに「少女」です。ところが、きくはまだ生まれておらず、秀保に嫁いだ娘も、その六年後の祝言の時点で幼かったとされます。どちらの娘も、年齢は末の設定と合いません。
名前も、史料で確認できるのは「みや(三八)」と「きく」で、「末」という名は伝わっていません。ドラマの末は、実在の娘たちをもとに、秀長一家を描くために作られた人物とみるのが自然でしょう。
そう考えると、ドラマが末をどんな結婚へ導くのかは見どころのひとつです。秀保に嫁いで早くに夫を亡くす道か、毛利家に嫁いで若くして亡くなる道か。どちらを重ねても、秀長の娘たちの人生は、豊臣家の運命に大きく左右されたものでした。
まとめ
秀長には、嫁ぎ先の分かる娘が少なくとも二人いました。一人は養子の秀保に嫁ぎ、夫の早世とともに大和豊臣家の終わりを見届けます。もう一人のきくは秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぎ、二十二歳で亡くなって、父の菩提寺に眠っています。
『豊臣兄弟!』の末は、史料に名前の残らない「ひとり娘」です。だからこそ、実在の娘たちがたどった道を知っておくと、ドラマで末に訪れる出来事が、史実のどこから来ているのかが見えてくるはずです。
秀長その人については豊臣秀長とはで、秀長が大和をどう治めたかは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで書いています。同じ第37回で登場する大和郡山の庄屋については石川清兵衛とはで、村がなぜ寺に年貢を納めていたのかを解説しています。

