北野大茶湯に秀長はなぜ反対したのか|「時期尚早」の理由と、10日の予定が1日で終わったわけ ─ 九州の一揆と追放令の4か月後

北野の松原の大茶会で茶を点てる千利休のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第42回では、秀次が提案した大茶会に、秀長が「天下一統も道半ば、時期尚早」と反対するようです
  • 史実で秀長が北野大茶湯に反対したという記録はありません。ただ、天正15年(1587)の秋は、九州の戦が終わったばかりで、肥後では国人一揆が起き、関東の北条や奥州の伊達もまだ従っていない時期でした
  • 北野大茶湯は天正15年10月1日に開かれ、10日間の予定がわずか1日で打ち切られました。肥後一揆の知らせが理由ともいわれます
  • 茶会の会場で刃傷沙汰が起きたという記録も見つかっていません。「キリシタン追放令に恨みを抱く者」の事件は、ドラマの創作と考えられます

『豊臣兄弟!』第42回の公式あらすじには、気になる一文があります。聚楽第の完成祝いに大茶会を開こうという秀次の提案に、秀長が「天下一統も道半ばのなか時期尚早」と反対するというのです。それでも秀吉は、大名も商人も百姓も参加できる大茶会を北野で開くと決めます。そして茶会の会場では、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が起きる。では史実の北野大茶湯は、本当に「時期尚早」だったのでしょうか。そして刃傷沙汰はあったのでしょうか(北野大茶湯とは)。

北野の松原の大茶会で茶を点てる千利休のイメージイラスト
北野の松原の大茶会で茶を点てる千利休のイメージ(イラスト)
聚楽第と北野天満宮の位置関係の模式図
聚楽第と北野天満宮の位置関係のイメージ
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

秀長は反対したのか ─ 記録には残っていない

先に答えを書くと、秀長が北野大茶湯に反対したことを示す史料は見つかっていません。秀長が茶会の当日に何をしていたのかも、はっきりとはわかっていません(秀長は北野大茶湯で何をしていたのか)。

ですから、ドラマの「秀長の反対」は創作です。ただし、まったくの作り話というわけでもありません。天正15年の秋の情勢を見ていくと、「まだ早い」と考える人がいても少しもおかしくない状況だったことがわかります。

天正15年の秋 ─ 天下一統はまだ道半ば

時期 できごと
天正15年5月 島津義久が降伏し、九州攻めが終わる
6月 筥崎でバテレン追放令。高山右近が改易される
7月 秀吉が大坂に戻る。北野で大茶会を開くという高札が京・奈良・堺に立てられる
7月ごろ 肥後で国人たちが佐々成政に反発し、一揆が起こる
9月 聚楽第が完成し、秀吉が移る
10月1日 北野大茶湯。10日間の予定が1日で終わる
10月以降 豊前でも国人一揆。年末にかけて九州の各地で戦が続く

表を見ると、北野大茶湯がどれほど慌ただしい時期に開かれたかがわかります。九州攻めが終わってまだ5か月、肥後では一揆が広がり、関東の北条氏や奥州の伊達氏は秀吉に従っていません。天下一統は、文字どおり道半ばでした(天正十五年に何が起きたのか)。

そんなさなかに、京で十日間もの大茶会を開く。秀吉には、九州平定を天下に示し、聚楽第の完成を祝い、町の人びとにまで天下人の姿を見せるという、はっきりしたねらいがありました。一方で、戦の後始末を考える立場の者からすれば、「いまは足もとを固める時ではないか」と思うのも当然でしょう。ドラマの秀長は、その声を代弁しているのだと思います(秀吉はなぜ大茶会を開いたのか)。

北野の松原に茶席が並び、中央に黄金の茶室が置かれた秀吉の大茶会のイメージ(イラスト)
北野の松原に茶席が並んだ大茶会のイメージ(イラスト)
北野の松原に町人や百姓の茶席が並び、朱塗りの大傘を立てた茶席が目を引く北野大茶湯のイメージ(イラスト)
北野の松原に町人や百姓の茶席が並んだ大茶会のイメージ(イラスト)

10日の予定が1日で終わった

天正15年10月1日、北野天満宮の境内と松原には、八百とも千五百ともいわれる茶席が並びました。秀吉は黄金の茶室を持ちこみ、利休・宗及・宗久の三人の茶頭とともに、身分を問わず茶をふるまいました。

ところが、10日間開くはずだった茶会は、この1日で打ち切られます。その理由として古くからいわれるのが、肥後の一揆の知らせです。佐々成政が治める肥後で国人たちが立ち上がり、事態は秀吉の想像をこえて広がっていました(肥後国人一揆とは)。

もし本当に一揆の知らせで茶会が打ち切られたのなら、「時期尚早」という秀長の反対は、ドラマの中で現実になったことになります。

▽ よく語られる話
北野大茶湯は大成功し、秀吉は満足して茶会を終えた。
▼ 史実ではこうです
茶会は10日間の予定でしたが、1日で打ち切られています。理由ははっきりしませんが、肥後国人一揆の知らせが届いたためという説がよく知られています。華やかな茶会の裏で、九州はまだ戦のさなかにありました。

茶会の刃傷沙汰と、追放令の4か月後という時期

ドラマでは、茶会の会場で「キリシタン追放令に恨みを抱く者」による刃傷沙汰も起きるようです。史料にこの事件が見えるかどうかは、当サイトの「北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか」でくわしく取り上げています。

ここで押さえておきたいのは、時期です。バテレン追放令が出たのは6月、茶会は10月。わずか4か月のあいだに、高山右近は領地を失い、教会は壊され、宣教師たちは身をひそめました。秀長が「まだ早い」と言うとき、その目には九州の一揆だけでなく、追放令が生んだ人びとの不満も映っていたのかもしれません(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

✎ 筆者の考え
「だれでも来い」と呼びかけた茶会は、裏を返せば、だれが紛れこんでもおかしくない茶会でした。天下人が身分をこえて人びとの前に姿を見せる晴れの場に、刃を持った者が現れる。ドラマのこの筋書きは、開かれた茶会の危うさと、秀吉の政策が生んだ恨みとを、ひとつの場面に結びつけたものだと筆者は見ています。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。公式のあらすじでは、秀次の提案に秀長が時期尚早と反対し、秀吉は利休に命じて北野で大茶会を開きます。茶会は盛況となるものの刃傷沙汰が起き、さらに佐々成政の治める肥後で大規模な一揆が起こるようです。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 秀長は北野大茶湯に反対したのですか?
A. 反対したという記録はありません。ドラマの創作ですが、九州平定直後で各地に戦の火種が残る時期だったのは確かです。

Q. 北野大茶湯はいつ開かれましたか?
A. 天正15年(1587)10月1日です。

Q. なぜ1日で終わったのですか?
A. はっきりしませんが、肥後国人一揆の知らせが理由ともいわれます。

Q. 茶会で刃傷沙汰はあったのですか?
A. 「北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか」の記事でくわしく解説しています。

まとめ

史実の秀長が北野大茶湯に反対した記録はありません。それでも天正15年の秋は、九州攻めの直後で肥後に一揆が起こり、関東や奥州もまだ従っていない「道半ば」の時期でした。茶会が1日で打ち切られたことを思えば、ドラマの秀長の「時期尚早」は、史実の流れをふまえた言葉といえそうです。

参考:『北野大茶湯之記』/『多聞院日記』/熊倉功夫『千利休』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書

  • URLをコピーしました!
目次