- 天正14年(1586)7月27日、立花宗茂の実の父・高橋紹運は岩屋城で島津の大軍を相手に戦死しました。それからわずか11か月後の天正15年6月、宗茂は秀吉から筑後柳河を与えられ、大名になります
- 島津が引き揚げると、宗茂は味方を待たずに追撃し、奪われた城を取り返しました。秀吉は「その忠義も武勇も九州一」とたたえたと伝わります
- 宗茂は、仕えてきた大友家の家臣ではなく、秀吉に直接仕える大名として取り立てられました。強い家臣を主家から切り離すことで、秀吉は九州の大名の力を組み替えていったのです
立花宗茂の名は、「西国無双」というほめ言葉とともに語られることが多い武将です。けれども、宗茂が一人前の大名になった天正15年のいきさつを日付で追うと、その出世が驚くほど短い時間で起きていたことに気づきます。父の死から1年もたっていないのです。この記事では、岩屋城の落城から柳河の主になるまでの宗茂の11か月を追い、秀吉が宗茂を大友家から切り離した意味を考えます。
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宗茂の11か月
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 天正14年(1586)7月27日 | 岩屋城が落ち、実父の高橋紹運が戦死(763人で14日間戦う) |
| 天正14年7月〜8月 | 宗茂は立花山城に籠城。島津の大軍を引きつけて持ちこたえる |
| 天正14年8月 | 豊臣方の先遣隊が九州に到着。8月24日に島津が引き揚げを始める |
| 天正14年8月下旬 | 宗茂は味方を待たずに追撃し、高鳥居城を落とし、岩屋城・宝満城を取り返す |
| 天正15年(1587)4月 | 九州攻めで西の手に加わり、肥後の竹迫城・宇土城を攻める |
| 天正15年6月25日 | 秀吉から筑後柳河を与えられ、大友家から独立した大名になる |
| 天正15年9月 | 肥後国人一揆で、飢えた佐々成政の軍に兵糧を届けて救う |
父の死と、立花山城の籠城
宗茂は、大友家の重臣・高橋紹運の長男として生まれ、同じ大友家の名将・立花道雪の娘婿となって立花家を継ぎました。天正14年、島津の大軍が筑前に攻めこむと、実父の紹運は岩屋城で、わずか763人で14日間戦い抜いて全員が討ち死にします(高橋紹運はなぜ763人で玉砕したのか)。
岩屋城のすぐ北には、宗茂の守る立花山城がありました(立花城)。父が稼いだ14日間のあいだに、豊臣方の先遣隊が九州に近づいてきます。宗茂は立花山城に立てこもって島津を引きつけ、降伏すると見せかけて島津の陣を襲うなど、小さな勝ちを重ねて持ちこたえました。
味方を待たない追撃
8月下旬、豊臣方の大軍が迫ったことを知った島津は、筑前から引き揚げを始めます。このとき宗茂は、毛利や小早川の到着を待たず、自分の兵だけで島津を追いました。島津方の高鳥居城を落とし、さらに父が死んだ岩屋城と、弟の統増が守っていた宝満城を取り返します。
父の城を、父の死からひと月もたたないうちに取り返したのです。この働きを聞いた秀吉は、宗茂を「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」とたたえ、「九州の逸物」と呼んだと伝わります。
柳河の大名に ─ 主家から切り離されるということ
翌天正15年の九州攻めでも、宗茂は肥後へ攻め入って働きました。そして6月25日、筥崎で九州の国分けを行っていた秀吉は、宗茂に筑後の柳河を与えます(柳川城)。石高は13万2千石とよく紹介されますが、資料によって違い、8万石ほどとする見方もあります。
大事なのは石高よりも、その形でした。宗茂はこのときから、大友家の家臣ではなく、秀吉に直接仕える大名になったのです。もとの主家の大友義統には豊後一国が残されただけでした。秀吉は、大友家でいちばん頼りになる武将を大友家から切り離し、自分の大名にしたことになります。
秀吉は九州のほかの家でも同じことをしています。龍造寺家では重臣の鍋島直茂に実権を任せ、島津家では重臣の伊集院忠棟に直接領地を与えました。主家を小さくしながら、秀吉に直接つながる大名を増やしていく。宗茂の出世は、その代表的な例だったのです(秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち)。
宗茂は大友家への恩を捨てて、秀吉に乗りかえた。
宗茂が自分から大友家を離れたわけではありません。秀吉が国分けで宗茂に直接領地を与えたことで、宗茂は大友家の家臣から秀吉の大名へと立場が変わったのです。主家から切り離すことで九州の大名の力を組み替える、秀吉の政策の一つでした。
柳河に入ってすぐの戦い
大名になってわずか3か月後の天正15年9月、宗茂はまた戦場に立ちます。肥後で国人一揆が起き、佐々成政の軍が城に閉じこめられて飢えていました(肥後国人一揆とは)。宗茂は約1200の兵で兵糧を運びこみ、待ち伏せや、退くと見せかける計略を使って一揆勢を破り、成政の軍を救いました。
3年前の小牧・長久手の戦いのころ、成政は秀吉と戦った敵方の武将でした。その成政を、大名になったばかりの宗茂が救ったのです。成政は結局、一揆の責任を問われて切腹しますが、宗茂の名はこの戦いでさらに高まりました。
「西国無双」のその後
天正18年の小田原攻めでは、秀吉が諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並べてたたえたという話が伝わります。宗茂の評判は、九州の外にまで広がっていました。
主家の大友家は、のちに朝鮮出兵での失態をとがめられて改易されます(大友義統のその後)。一方の宗茂は、関ヶ原で西軍につき、いったんは柳河を失いますが、20年後の元和6年(1620)、ふたたび柳河の主に戻りました。関ヶ原で領地を失った大名が、もとの領地に返り咲いたのは、宗茂ただ一人です。天正15年に秀吉が切り離した家臣は、主家より長く、自分の家を残したのです。
よくある疑問
Q. 立花宗茂はいつ大名になったのですか?
A. 天正15年(1587)6月25日、九州攻めのあとの国分けで、秀吉から筑後柳河を与えられました。
Q. 立花宗茂の実の父はだれですか?
A. 岩屋城で戦死した高橋紹運です。宗茂は立花道雪の娘婿となって立花家を継ぎました。
Q. 柳河は何万石だったのですか?
A. 13万2千石とよく紹介されますが、資料によって数字が違い、8万石ほどとする見方もあります。
Q. 「西国無双」とはだれの言葉ですか?
A. 小田原攻めのとき、秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」とたたえたと伝わりますが、伝承として語られている話です。
参考:『国史大辞典』「立花宗茂」、中野等『立花宗茂』ほか

