『豊臣兄弟!』の秀長にとって、生涯でいちばん大きな勝ち戦があります。根白坂(ねじろざか)の戦いです。
天正十五年四月十七日の夜、日向で起きました。秀長は島津方の高城を囲み、救援が通る道にあたる根白坂に砦を築いて待ちます。島津義久はここに全力をぶつけましたが、砦は抜けませんでした。島津は大将格を何人も失って退き、義久は戦意を失って剃髪します。九州攻めの勝敗は、この一夜で決まりました。秀吉も九州に来ていましたが、この戦いを戦ったのは秀長の軍です。
この記事は秀長がこの戦いで何を選んだかを中心に見ていきます。合戦そのものの流れを順に追いたい方は、姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」の根白坂の戦いをわかりやすく解説もあわせてどうぞ。
- 根白坂はどこにあり、なぜそこが決戦の場になったのか
- 秀長はなぜ高城を力攻めにしなかったのか
- 四月十七日の夜、砦で何が起きたのか
- 援軍を止めた軍監・尾藤知宣の判断はどう評価されたのか
- 島津義久はなぜ、この一戦で降伏を決めたのか
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
根白坂はどこか ─ 城を囲む軍と、助けに来る軍のあいだ
根白坂は、いまの宮崎県児湯郡木城町にあります。日向の平野を南北に抜ける道筋の途中で、北から来る軍と南から来る軍がぶつかる場所でした。
この年の三月、秀吉と秀長は二手に分かれて九州へ入ります。秀吉は肥後から、秀長は豊後から日向へ。四国平定・九州平定の全体像で見ると、兄弟が左右から島津を押し込む形だったことがわかります。前の年の暮れには仙石秀久の軍が戸次川で大敗し、長宗我部信親が討たれていました。島津はまだ勝っていたのです。

秀長はなぜ、高城を力攻めにしなかったのか
日向を南下した秀長の前に立ちはだかったのが高城です。守っていたのは島津の武将・山田有信。その兵は三百あまりでした。
八万とも言われる軍勢を前に、三百。普通なら一日で揉みつぶせます。ところが秀長は力攻めをしませんでした。高城は九年前、大友の大軍を同じように受け止めて耳川の勝利につないだ城です。堅い城に兵を損じるより、囲んで干上がらせるほうが安い。帳簿と文書に残る秀長の仕事を見ていくと、この人は一貫して、勝ち方より損の少なさで手を選んでいます。
そのうえで秀長は、もう一つ手を打ちました。島津の救援が必ず通る根白坂に、砦を築いたのです。城を囲む輪と、助けに来る軍のあいだに、もう一枚の壁を置いたことになります。守将は宮部継潤、兵は約一万。空堀を掘り、板塀を立てて固めました。
四月十七日の夜 ─ 砦は破られなかった
高城が落ちれば日向は終わり、日向が終われば薩摩まで一本道です。島津義久は決戦を選びました。
四月十七日の夜半、島津軍が根白坂の砦へ突撃します。島津の戦い方といえば釣り野伏せ──わざと退いて追わせ、伏せた兵で囲む──ですが、この夜はそれが使えません。相手が砦から出てこないから、釣れないのです。空堀と板塀の前で、島津は正面からぶつかるしかありませんでした。
宮部継潤は守り抜きます。そこへ藤堂高虎の五百と戸川達安の手勢が横から入り、さらに小早川隆景・黒田官兵衛らの軍が外から押しました。島津は島津忠隣・猿渡信光といった大将格を失い、夜明けまでに退きます。
援軍を止めた軍監 ─ 尾藤知宣の判断
この夜、豊臣方でもう一つのことが起きています。
砦が攻められていると知った秀長は、本隊から救援を出そうとしました。これを止めたのが、軍監の尾藤知宣です。救援は間に合わない、島津の軍に正面から当たるべきではない、と進言しました。島津が退いたあとの追撃も、深追いは危ういと言って止めています。
砦は持ちこたえたので、結果だけ見れば害はありません。ところが秀吉は激怒しました。知宣は与えられたばかりの讃岐の所領を取り上げられて追放され、諸国を流浪したあげく処刑されます。勝った戦で、味方の武将が一人つぶれたのがこの夜でした。

島津義久はなぜ、この一戦で降伏を決めたのか
根白坂で島津が失ったのは兵の数だけではありません。勝ち筋そのものでした。
高城は囲まれたまま、救援は通らない。野戦に引きずり出そうにも相手が出てこない。義久・義弘は都於郡城へ、家久は佐土原城へ退きます。義久はこののち剃髪して降伏の意を示し、島津の降伏が整ったのは五月下旬でした。

高城の山田有信は、それでも城を開けませんでした。主君の義久が自ら説いて、ようやく子の有栄を人質に出して降ります。三百の兵で、最後まで囲みに耐えきったことになります。
戦後、薩摩は義久、大隅は義弘、日向の一郡は久保に与えられました。島津は潰されず、所領を削られて残ります。この後始末の形は、第38回以降の年表でたどると、秀吉のやり方としてはむしろ寛大な部類でした。
この勝ちは、誰の勝ちだったのか
九州攻めは「秀吉が島津を降した戦」として語られます。実際、秀吉は肥後方面の大軍を率いて来ていました。
ただ、島津の主力とぶつかって決着をつけたのは、日向の秀長の軍です。秀吉の本隊は根白坂にいません。そして秀長がやったのは、名乗りを上げて突っ込む類の戦いではなく、城を囲み、道をふさぎ、砦を置いて相手に不利な形で戦わせるという、きわめて地味な手でした。
秀長の家臣団を見ると、藤堂高虎のように自分で動ける武将がそろっています。秀長の強みは個人の武勇ではなく、要るところに要る人を置けることでした。根白坂はその集大成です。
よくある疑問
Q. 根白坂の戦いに秀吉は来ていたのですか。
A. 来ていません。秀吉は肥後方面を進んでおり、日向の根白坂で島津とぶつかったのは秀長の軍です。
Q. 兵力の数字はどこまで信じられますか。
A. 豊臣方八万、島津方三万五千といった数字が伝わりますが、いずれも後世の編さん物によるもので幅があります。桁として大きな差があったことは確かですが、人数そのものは目安と考えるのが安全です。
Q. 高城はどこですか。高鍋城とは違うのですか。
A. 別の城です。根白坂の高城は宮崎県児湯郡木城町にあり、同じ児湯郡の高鍋城(舞鶴公園)とは場所も歴史も異なります。
Q. 尾藤知宣の判断は、そんなに悪かったのですか。
A. 結果として砦は守り切れたので、実害は出ていません。それでも処分が重かったのは、総大将の弟の軍で軍監が消極策を押したこと自体を秀吉が許さなかったからだと見られます。経緯は尾藤知宣とはにまとめています。
まとめ
- 根白坂の戦いは天正十五年四月十七日の夜、日向(いまの宮崎県木城町)で起きた九州攻めの決戦
- 秀長は高城を力攻めせず囲み、島津の救援路にあたる根白坂に宮部継潤の砦を置いた
- 島津は夜襲をかけたが砦を抜けず、島津忠隣・猿渡信光らを失って退いた
- 砦に籠もって動かないことで、島津の得意な釣り野伏せは最初から封じられていた
- 軍監・尾藤知宣は救援と追撃を止め、のちに所領を失って追放された
- 義久はこののち剃髪して降伏し、島津の降伏が整ったのは五月下旬。薩摩・大隅・日向一郡は島津に残された
- 高城を守り抜いた山田有信の兵は三百あまり。義久に説かれ、子を人質に出してようやく降りた

