大村純忠とは|日本で最初のキリシタン大名 ─ 横瀬浦と長崎の開港、イエズス会への寄進、追放令の2か月前の死

岬の先に教会と町ができはじめた長崎の港を、高台から武将と宣教師が見おろすイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 大村純忠は、肥前の大村を治めた戦国大名で、永禄6年(1563)に洗礼を受けた日本で最初のキリシタン大名です。洗礼名はバルトロメウ
  • 純忠はポルトガル船を迎えるために港を開き、元亀2年(1571)には長崎の港が開かれました。長崎の町は、このときから始まります
  • 天正8年(1580)、純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進しました。日本の中に、教会の治める土地が生まれたのです
  • 天正15年(1587)4月、秀吉の九州攻めのさなかに純忠は亡くなります。その2か月後、秀吉はバテレン追放令を出し、長崎を取り上げました

長崎という町は、ひとりのキリシタン大名から始まりました。大村純忠。日本で最初に洗礼を受けた大名であり、長崎の港を開いてイエズス会に寄進した人物です。秀吉がバテレン追放令を出した理由のひとつに「長崎が教会の領地になっていたこと」がありますが、その長崎をつくったのが純忠でした。この記事では、純忠の生涯と長崎のはじまりをたどります。

島原半島の海辺の城と、港に入る南蛮船、城下の教会のイメージ(イラスト)
南蛮船が入る九州の港町のイメージ(イラスト)
目次

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有馬家から大村家へ

純忠は天文2年(1533)、島原半島の有馬晴純の子として生まれ、大村家の養子となって家を継ぎました。のちの有馬晴信は、純忠の甥にあたります(有馬晴信とは)。

大村家は肥前の小さな大名で、まわりを龍造寺や松浦、西郷といった勢力に囲まれていました。小さな家が生きのびるために、純忠が目をつけたのが、南蛮貿易でした。

日本で最初のキリシタン大名

永禄5年(1562)、純忠は領内の横瀬浦をポルトガル船に開きます。翌永禄6年(1563)、純忠は宣教師から洗礼を受けました。洗礼名はバルトロメウ。日本で最初のキリシタン大名の誕生です(キリシタン大名とは)。

純忠の入信は熱心なもので、領内の寺社を壊し、家臣や領民にも洗礼を受けさせたといわれます。その激しさは、家中や近隣の反発も生みました。横瀬浦は反対派に焼き払われ、純忠は命をねらわれたこともあります。

長崎の港を開く

横瀬浦を失ったあと、純忠は新しい港を探しました。選ばれたのが、深い入り江の奥にある、静かな寒村の長崎でした。元亀2年(1571)、長崎にポルトガル船が入り、岬の先に町がつくられていきます。

長崎は、たちまち南蛮貿易の中心となりました。教会が建ち、宣教師と商人が集まり、やがて「小ローマ」とも呼ばれるほどのキリスト教の町に育っていきます。

長崎をイエズス会に寄進する

天正8年(1580)、純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進しました。龍造寺など周りの大名に長崎を奪われないよう、教会の土地にしてしまおうと考えたのです。日本の中に、宣教師たちの治める土地が生まれました(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。

天正10年(1582)には、大友宗麟・有馬晴信とともに、天正遣欧少年使節をローマへ送り出しています。使節のひとり千々石ミゲルは、純忠の甥でした(天正遣欧少年使節とは)。

年 純忠のできごと
天文2年(1533) 有馬晴純の子として生まれ、のちに大村家を継ぐ
永禄5年(1562) 横瀬浦をポルトガル船に開く
永禄6年(1563) 洗礼を受ける。日本で最初のキリシタン大名に
元亀2年(1571) 長崎の港が開かれる
天正8年(1580) 長崎と茂木をイエズス会に寄進する
天正10年(1582) 天正遣欧少年使節をローマへ送る
天正15年(1587)4月 秀吉の九州攻めのさなかに亡くなる
天正15年6月 バテレン追放令。長崎は秀吉に取り上げられる

追放令の2か月前に

天正15年(1587)、秀吉の大軍が九州に入ります。純忠は秀吉に従いましたが、病のため戦にはのぞめず、4月に亡くなりました。55歳でした。同じ年の5月には、もうひとりのキリシタン大名の先がけ、大友宗麟も世を去ります(大友宗麟とは)。

そして6月、秀吉はバテレン追放令を出し、教会の土地となっていた長崎を取り上げて、自分の直轄地にしました。純忠がつくり、教会にゆだねた港は、天下人の港になったのです(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

▽ よく語られる話
大村純忠は信仰のために長崎を教会に差し出した。
▼ 史実ではこうです
純忠の信仰が熱心だったのは確かですが、長崎の寄進には、まわりの大名から港を守るという現実的なねらいもありました。小さな大名が、教会とポルトガルの力を借りて港を守ろうとした、と見るのがよいでしょう。

その後の大村家 ─ 玖島城

純忠のあとを継いだ子の喜前は、はじめキリシタンでしたが、のちに信仰を捨て、江戸時代には大村藩の藩主として、領内のキリシタンを取りしまる側にまわります。慶長4年(1599)、喜前は海に面した玖島に城を築き、ここが大村藩の居城となりました(玖島城(大村城))。

玖島城:大村喜前(大村純忠の嫡男)が築城した大村藩2万7千石の居城 玖島城
純忠の子・喜前が築いた玖島城(大村城)の跡
玖島城:大村喜前(大村純忠の嫡男)が築城した大村藩2万7千石の居城 玖島城
玖島城跡の石垣
✎ 筆者の考え
純忠の生涯を見ていると、信仰と生存が、いつも同じ天秤に乗っていたように思えます。港を開き、洗礼を受け、長崎を教会にゆだねた。そのどれもが、まわりを大国に囲まれた小さな大名の、生きのびるための賭けでした。そして純忠は、その賭けの結末を見ないまま、追放令の2か月前に世を去ったのです。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、九州攻めのあとのキリシタン追放令が物語の背景となります。追放令で秀吉が取り上げた長崎は、純忠が開き、教会にゆだねた港でした。

よくある質問

Q. 大村純忠はなぜ「最初のキリシタン大名」と呼ばれるのですか?
A. 永禄6年(1563)に、大名として初めて洗礼を受けたからです。

Q. 長崎を開いたのはだれですか?
A. 大村純忠です。元亀2年(1571)に港が開かれました。

Q. 長崎はなぜイエズス会の領地になったのですか?
A. 天正8年(1580)、純忠が長崎と茂木をイエズス会に寄進したためです。

Q. 大村純忠はいつ亡くなりましたか?
A. 天正15年(1587)4月、バテレン追放令の2か月前に亡くなりました。

まとめ

大村純忠は、日本で最初のキリシタン大名であり、長崎の港を開いてイエズス会に寄進した人物です。小さな大名が生きのびるために選んだ南蛮貿易と信仰は、長崎という町を生みました。純忠は追放令の2か月前に亡くなり、長崎は秀吉の直轄地になります。長崎の歴史は、純忠から始まったのです。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/外山幹夫『大村純忠』静山社/安野眞幸『教会領長崎』講談社選書メチエ

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