- 天正14年(1586)4月、豊後の大友宗麟は大坂城を訪れ、秀吉に島津討伐を願い出ました。島津に追い詰められた大友家にとって、最後の頼みの綱でした
- 秀吉はみずから宗麟を案内し、天守や黄金の茶室を見せました。宗麟は国元の家臣に送った手紙に、その驚きをくわしく書き残しています
- その手紙によると、秀長は宗麟の手を取り「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と語りました。豊臣政権での秀長の立場を示す言葉として有名です
- 宗麟の願いを受けて、秀吉は九州攻めの準備を命じます。宗麟は臼杵城で島津軍を防いだのち、島津の降伏を見届けるように、天正15年5月に世を去りました
「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」。秀長について調べると、必ずといってよいほど出てくる言葉です。仲野太賀さんが秀長を演じる『豊臣兄弟!』でも、いつかこの場面が描かれるのでは、と期待する人は多いでしょう。この言葉は、豊後の大友宗麟が大坂城を訪れたときの手紙に書き残されたものです。この記事では、宗麟の大坂城訪問と、そこで秀吉・秀長・利休が見せたもてなしを紹介します。

大友宗麟とはどんな人物か ─ 九州六か国の太守
大友宗麟(義鎮)は、享禄3年(1530)、豊後の府内(大分市)に生まれました。大友家は鎌倉時代から豊後を治めてきた名門の守護大名で、宗麟はその21代目にあたります。のちにキリシタンとなり、南蛮貿易で栄え、一時は九州の北半分を治めた大名です。その生涯は、栄光と挫折の振れ幅がとても大きいものでした。
二階崩れの変 ─ 父の死で家督を継ぐ
天文19年(1550)2月、父の大友義鑑は、嫡男の義鎮(宗麟)ではなく、側室の子・塩市丸に家を継がせようとしました。これに反発した家臣たちが館を襲い、塩市丸とその母を殺害します。義鑑も深い傷を負って亡くなりました。館の二階で起きたことから「二階崩れの変」と呼ばれます。この事件を経て、21歳の義鎮が大友家の当主となりました。
弟を大内家の当主に ─ 毛利との争い
翌天文20年(1551)、周防・長門の大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、宗麟は実の弟・晴英を大内家の新しい当主として送り込みました(大内義長)。しかし弘治3年(1557)、義長は毛利元就に攻められて自害し、大内家は滅びます。こののち、宗麟は九州の玄関口である豊前の門司城をめぐって、毛利元就と激しく争いました(門司城)。永禄5年(1562)ごろ、宗麟は出家して「宗麟」と名乗ります。

六か国の守護と九州探題
永禄2年(1559)、宗麟は将軍・足利義輝から豊前・筑前の守護と九州探題に任じられました。豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六か国に勢力を広げ、大友家の全盛期を築きます。本拠は府内から、海に囲まれた臼杵の丹生島城へと移しました(大分府内城)。

ザビエルと南蛮貿易 ─ キリシタン大名へ
天文20年(1551)、宗麟はフランシスコ・ザビエルを府内に迎え、キリスト教の布教を許しました。ポルトガル船との南蛮貿易で、府内は国際的な町としてにぎわいます。宗麟はポルトガルから大砲も手に入れ、「国崩し」と呼ばれました。天正6年(1578)7月には、みずから洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」の洗礼名を名乗ります。天正10年(1582)にローマへ向かった天正遣欧少年使節では、伊東マンショが宗麟の名代を務めました(宗麟自身は関わっていなかったとする見方もあります)。
耳川の大敗 ─ 転落の始まり
天正6年(1578)、宗麟は、島津に追われた日向の伊東家を助けるという名目で、大軍を日向へ送りました。日向にキリシタンの理想の国をつくろうとしていた、ともいわれます。しかし同年11月、大友軍は耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失いました。
この敗戦をきっかけに、大友家に従っていた国衆が次々と離れ、大友家は急速に力を失います。すでに家督を譲っていた子の義統には家をまとめる力が足りず、宗麟は隠居の身で家を支え続けることになりました。筑前では、立花道雪と高橋紹運という二人の名将が、なんとか大友家の領地を守っていました(立花城)。
| 年 | 宗麟のできごと |
|---|---|
| 享禄3年(1530) | 豊後府内に生まれる |
| 天文19年(1550) | 二階崩れの変。21歳で家督を継ぐ |
| 天文20年(1551) | ザビエルを府内に迎える。弟・晴英を大内家の当主に送る |
| 永禄2年(1559) | 豊前・筑前の守護、九州探題となる。六か国に勢力を広げる |
| 永禄5年(1562)ごろ | 出家して宗麟と名乗る |
| 天正6年(1578) | 洗礼を受ける。耳川の戦いで島津に大敗 |
| 天正14年(1586)4月 | 大坂城で秀吉に救援を願う |
| 天正14年(1586)12月 | 臼杵城に籠城し、島津軍を防ぐ |
| 天正15年(1587)5月 | 豊後の津久見で亡くなる。58歳 |
島津の圧迫が強まるなか、宗麟は秀吉に助けを求めることを決めました(九州停戦令(惣無事令)とは)。

天正14年4月、宗麟は大坂城へ
天正13年10月、秀吉は島津と大友に停戦を命じましたが、島津は従わず、大友攻めを続けていました。追い詰められた宗麟は、みずから大坂へ上ります。天正14年(1586)4月5日に堺に着いた宗麟は、翌6日、大坂城で秀吉に対面しました(5日に対面したとする説もあります)。
宗麟は、この日のようすを、4月6日付で国元の重臣3人(古荘丹後入道・葛西周防入道・斎藤紀伊入道)にあてた手紙にくわしく書いています。当時の大坂城と、秀吉の周りの人々の姿を伝える、貴重な記録です。
秀吉の案内 ─ 天守と黄金の茶室
対面のあと、秀吉はみずから宗麟を城の中へ案内しました。宗麟は天守の壮大さに驚き、手紙のなかで「見事結構」「比類無き」といった言葉を重ねています。
秀吉は宗麟を黄金の茶室にも招きました。天井も壁も金で覆われた茶室で、千利休が茶を点てたといいます。宗麟は手紙に、天井も壁も、そのほかもみな金で光り輝いていたと書き残しました(秀吉の黄金の茶室とは)。宗麟が秘蔵の茶器を秀吉に贈ると、秀吉は喜び、大友家を全面的に助けると約束したとされます。

秀長の言葉「公儀の事は宰相存じ候」
この日、宗麟の手紙のなかでもっとも有名なのが、秀長の言葉です。秀長は宗麟の手を取って、次のように語ったと書かれています。
何事も何事も、美濃守かくのごとく候あいだ、心安かるべく候。内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候。御為に悪しき事は、これあるべからず候。
美濃守は秀長、宗易は千利休、宰相は参議の唐名で、ここでは秀長自身を指します。意味は、おおよそ次のとおりです。
「何ごとも、この秀長がこうしておりますから、ご安心ください。内々のことは利休に、公のことはこの私(秀長)が承ります。あなたのためにならないようなことは、決していたしません」
| 担当 | 人物 | 意味 | |
|---|---|---|---|
| 内々の儀 | 私的なこと・内々の相談 | 千利休(宗易) | 秀吉に近い茶頭として、表に出ない相談ごとの窓口 |
| 公儀の事 | 政治・公のこと | 豊臣秀長(宰相) | 政権の重臣として、大名との公式な取りつぎや政治の窓口 |
秀吉に何かを頼みたいとき、表向きのことは秀長に、内々のことは利休に相談すればよい。この言葉は、豊臣政権のなかで秀長と利休が、秀吉と諸大名をつなぐ大きな役割を担っていたことを示すものとして、よく引用されます。
豊後の危機 ─ 岩屋城の玉砕と臼杵城の「国崩し」
宗麟が大坂から戻ったあとも、島津の攻勢は止まりませんでした。天正14年(1586)7月、島津軍は筑前の岩屋城を攻め、城を守る高橋紹運は、わずかな兵で大軍を相手に戦い抜いたすえ、城兵とともに討死します(岩屋城)。紹運の子・立花宗茂は立花城を守りぬき、豊臣軍の到着を待ちました。
同じ年の12月、豊臣方の先発隊は豊後の戸次川の戦いで島津家久の軍に大敗し、長宗我部信親や十河存保が討死しました(戸次川の戦いとは)。府内は島津軍に奪われ、義統は豊後の北へ逃れます。
このとき宗麟は、海に囲まれた臼杵の丹生島城(臼杵城)に立てこもりました。島津軍が押し寄せると、宗麟は南蛮渡来の大砲「国崩し」を撃って応戦したと伝わります。城は落ちず、島津軍は臼杵の攻略をあきらめました。隠居していた宗麟が、最後に大友家の意地を見せた戦いでした。

宗麟の願いと九州攻め
宗麟の訪問を受けて、秀吉は4月、毛利輝元に九州出兵の準備を命じていました。それでも天正15年(1587)、秀吉と秀長がみずから大軍を率いて九州へ入り、秀長は日向の根白坂で島津の救援軍を退けました(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。
宗麟は、島津義久が降伏した直後の天正15年5月23日、豊後の津久見で世を去りました。58歳でした。秀吉は九州攻めのあと、宗麟に日向一国を与えようとしたものの、宗麟は辞退した、あるいはその前に亡くなっていた、とも伝わります。墓は津久見と、京都・大徳寺の瑞峯院にあります。大坂城で手を取ってくれた秀長が、宗麟のために戦ったのが、この九州攻めだったのです。
宗麟の死後、大友家は子の義統が継ぎました。しかし義統は、朝鮮出兵での失敗をとがめられ、わずか6年後に豊後を取り上げられてしまいます。その後の大友家については大友義統(吉統)のその後で紹介しています。
あわせて読みたい:家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか
特集 ─ 大河ドラマ『豊臣兄弟!』
放送回ごとの史実解説と、登場人物のすべて
秀吉と秀長の歩み、家臣と女性たち、ゆかりの城まで三百本以上を一覧に ▶
よくある質問
Q. 大友宗麟が大坂城を訪れたのはいつですか?
A. 天正14年(1586)4月です。4月5日に堺に着き、6日に大坂城で秀吉に対面しました(5日とする説もあります)。
Q. 「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」とはどういう意味ですか?
A. 内々のことは千利休(宗易)に、公のことは秀長(宰相)に相談すればよい、という意味です。秀長が宗麟の手を取ってかけた言葉として、宗麟の手紙に書かれています。
Q. 「宰相」とはだれのことですか?
A. 豊臣秀長です。宰相は参議の唐名で、このころ秀長は参議に任じられていました。
Q. 大友宗麟はどんな人物ですか?
A. 豊後を本拠とした戦国大名で、一時は九州の六か国に勢力を広げました。ザビエルを迎えて布教を許し、のちにみずから洗礼を受けたキリシタン大名です。天正6年の耳川の戦いで島津に大敗し、大友家は衰えました。
Q. 大友宗麟はいつ亡くなりましたか?
A. 天正15年(1587)5月23日、豊後の津久見で亡くなりました。58歳でした。
Q. 大友宗麟はなぜ大坂城へ行ったのですか?
A. 島津家に追い詰められていた大友家を救ってもらうため、秀吉に島津討伐を願い出るためでした。
まとめ
天正14年4月、島津に追い詰められた大友宗麟は大坂城を訪れ、秀吉に助けを求めました。秀吉は天守や黄金の茶室を見せて宗麟をもてなし、秀長は「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候」と語って宗麟を安心させました。この言葉は、豊臣政権で秀長が担っていた役割の大きさを伝えるものとして、いまも語り継がれています。宗麟の願いはやがて九州攻めとなり、秀長は総大将として島津を降伏させることになります。
参考:「天正14年4月6日付 大友宗麟書状」(『大友家文書録』)/『大分県史料』
