天正16年、七本槍はどこまで出世していたのか|清正は肥後、正則は伊予、片桐且元はまだ数千石 ─ 子飼いの仲間と小六のいない豊臣家

長浜城アクセス・所在地・マップ 羽柴秀吉が信長より初めて城主に任命された浅井家旧領 長浜城
この記事のポイント
  • 賤ヶ岳の戦い(天正11年・1583)から5年たった天正16年(1588)ごろ、七本槍の七人の出世には、すでに大きな差がついていました
  • 福島正則は九州攻めのあと伊予で約11万石、加藤清正は肥後国人一揆のあと肥後北半国で約19万5千石の大名になり、七人の中で抜きん出ました
  • 加藤嘉明と脇坂安治は淡路で水軍を率いる1万〜3万石ほどの大名、糟屋武則は播磨で1万石あまり、片桐且元と平野長泰はまだ数千石ほどの家臣でした
  • 同じ子飼いでも、石田三成や大谷吉継は奉行として政権の中枢に入っていきます。戦場の働きで出世する道と、政務で出世する道が、このころ分かれ始めていました

賤ヶ岳の七本槍は、同じ日に同じ働きで秀吉から認められた七人です。けれども『豊臣兄弟!』第42〜43回の舞台となる天正15〜16年ごろには、七人の立場はすでに大きく分かれていました。この記事では、ドラマのいまの時期に、七人と子飼いの仲間たちがどこにいて、どれくらいの領地を持っていたのかを一覧にします。七人の最終的な行く末は賤ヶ岳の七本槍とは:七人のその後で紹介しています。

目次

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天正16年ごろの七本槍

石高は史料によって差があるため、目安として示します(賤ヶ岳の戦いをわかりやすく解説)。

名前 賤ヶ岳の恩賞 天正16年ごろの立場
福島正則 五千石 伊予で約11万石の大名(九州攻めのあと)
加藤清正 三千石 肥後北半国で約19万5千石の大名(天正16年閏5月)
加藤嘉明 三千石 淡路で約1万5千石。水軍を率いる
脇坂安治 三千石 淡路洲本で約3万石。水軍を率いる
糟屋武則 三千石 播磨で1万石あまり
片桐且元 三千石 まだ数千石ほど。秀吉の直臣として実務を担う
平野長泰 三千石 数千石ほど。のちも大名にはならない

清正 ─ 肥後国人一揆が開いた道

加藤清正が一気に大名になったきっかけは、肥後国人一揆でした。一揆の責任を問われて佐々成政が切腹すると、秀吉は肥後を二つに分け、北半国を清正に、南半国を小西行長に与えます。天正16年閏5月、清正はこのとき27歳。三千石の恩賞から5年で、20万石近い大名になったのです。九州を押さえ、のちの朝鮮出兵の前線を任せる人材として、秀吉が信頼する子飼いを置いたと考えられます(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。

加藤清正:羽柴秀吉の小姓から一躍肥後一国の大大名へとのし上がった熊本城主 加藤清正
肥後北半国の大名となった加藤清正(加藤清正)

正則 ─ 九州攻めのあと伊予へ

福島正則は、七人の中でただ一人五千石を受け、早くから別格の扱いでした。九州攻めのあと、天正15年に伊予の今治周辺で約11万石を与えられたとされます。正則は秀吉の母方の縁者ともいわれ、尾張以来の身内に近い家臣でした。清正と正則が、ほぼ同じころに九州と四国で大名となったことは、秀吉が西国の要所を子飼いで固めていったことを物語っています(福島正則とは)。

嘉明と安治 ─ 淡路の水軍

加藤嘉明と脇坂安治は、淡路に領地を与えられ、水軍を率いる役目を担いました。四国攻めや九州攻めでは、兵や兵糧を船で運ぶことが欠かせません。瀬戸内の東の入口にあたる淡路に、信頼できる子飼いを置いたのです。二人はのちの朝鮮出兵でも水軍を率いて海を渡ります(豊臣水軍とは)。

片桐・平野・糟屋 ─ 大名になれなかった者

糟屋武則は播磨で1万石あまりを得ましたが、片桐且元と平野長泰は、このころまだ数千石ほどの家臣でした。且元は戦場よりも、検地や普請などの実務で秀吉に仕えるようになり、のちに豊臣家の家老として、秀吉の死後の豊臣家を支える立場になります。一方の平野長泰は、最後まで大名になることはありませんでした。同じ「七本槍」でも、恩賞から5年で差はこれほど開いていたのです。

▽ よく語られる話
七本槍の七人は、そろって大名に出世した、秀吉の子飼いの花形だった。
▼ 史実ではこうです
七人のうち、天正16年ごろに10万石を超えていたのは正則と清正だけでした。片桐且元と平野長泰は、まだ数千石の家臣です。七本槍という呼び名で七人がひとくくりに語られますが、その後の出世は、秀吉がだれに何を任せたかで大きく違いました。

子飼いの仲間たちは ─ 奉行への道

同じ子飼いでも、戦場の働きとは別の道で出世した人たちがいます。石田三成は、天正14年ごろから堺の奉行を務めるなど、政務の担い手として力をつけていきました。大谷吉継は天正17年に越前敦賀の大名となり、浅野長政もこのころ秀吉の信頼の厚い奉行として働いています。秀長の家臣の藤堂高虎は、紀伊で城と領地を任されていました(加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ不仲だったのか、浅野長政とは)。

戦場で槍をふるって大名になる者と、帳簿と書状で政権を動かす者。天下統一が近づくにつれて、秀吉の家臣団の出世の道は二つに分かれていきました。その分かれ目が、のちの清正・正則と三成の対立、そして関ヶ原へとつながっていきます。

蜂須賀小六はもういない

一夜城の時代から秀吉を支えた蜂須賀小六(正勝)は、天正14年(1586)5月に亡くなっています。阿波一国を辞退して息子の家政に譲ったあとのことでした。七本槍の若者たちが大名へと駆け上がっていくころ、尾張以来の古い仲間は一人また一人と世を去り、豊臣家の顔ぶれは世代交代を迎えていたのです(蜂須賀小六の武功と最期)。

よくある質問

Q. 七本槍で最初に大名になったのはだれですか?
A. 脇坂安治が天正13年に淡路で約3万石を得ています。

Q. 加藤清正はいつ肥後の大名になりましたか?
A. 天正16年(1588)閏5月、肥後国人一揆のあとに肥後北半国を与えられました。

Q. 福島正則はいつ伊予の大名になりましたか?
A. 九州攻めのあとの天正15年に、伊予で約11万石を与えられたとされます。

Q. 片桐且元はなぜ出世が遅かったのですか?
A. 戦場よりも検地や普請などの実務で仕える道を歩んだためと考えられます。のちに豊臣家の家老となりました。

まとめ

賤ヶ岳から5年たった天正16年ごろ、七本槍の出世には大きな差がついていました。福島正則は伊予で、加藤清正は肥後で10万石を超える大名となり、嘉明と安治は淡路で水軍を率い、片桐且元と平野長泰はまだ数千石の家臣でした。同じころ三成らは奉行として政権の中枢に入り、小六ら古い仲間は世を去っていきます。第42〜43回の時代は、秀吉の家臣団が大きく入れ替わっていく時期でもあったのです。

参考:『寛政重修諸家譜』/小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書/谷口克広『秀吉戦記』学研M文庫

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