天正遣欧少年使節とは|ローマへ渡った四人の少年と、帰国後の運命 ─ 追放令の出た日本、聚楽第での秀吉との対面

ヨーロッパの宮殿の広間で迎えられる着物姿の日本人の少年四人のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 天正遣欧少年使節とは、天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名代としてローマへ送られた四人の日本人の少年たちです
  • 伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン。出発のとき、みな十三、四歳でした
  • 少年たちはポルトガル・スペインを経てローマに入り、ローマ教皇に会いました。8年半の旅を終えて戻った天正18年(1590)、日本ではすでにバテレン追放令が出ていました
  • 翌天正19年、少年たちは聚楽第で秀吉に会い、西洋の楽器を奏でて聞かせました。しかしその後の四人の人生は、禁教の時代に大きく分かれていきます

天正10年(1582)、長崎の港から、四人の少年を乗せた船が出ていきました。行き先は、地球の反対側のローマ。彼らが日本に戻ってきたのは、8年半後のことです。その間に、日本は大きく変わっていました。信長は本能寺で倒れ、秀吉が天下を取り、そしてキリスト教の宣教師たちには追放令が出されていたのです。この記事では、天正遣欧少年使節の旅と、帰国後の四人の運命をたどります。

ヨーロッパの宮殿の広間で迎えられる着物姿の日本人の少年四人のイメージ(イラスト)
ヨーロッパの宮殿で迎えられる少年使節のイメージ(イラスト)
目次

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四人の少年たち

使節を計画したのは、巡察師ヴァリニャーノでした。日本の布教の成果をヨーロッパに示し、同時に少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見せて、日本に伝えさせようとしたのです。九州の三人のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信が、それぞれの名代として少年たちを送り出しました(大友宗麟とは、有馬晴信とは)。

名前 立場 その後
伊東マンショ 主席正使。大友宗麟の名代 司祭となり、慶長17年(1612)長崎で病死
千々石ミゲル 正使。大村純忠・有馬晴信の名代(ふたりの甥・いとこ) のちにイエズス会を離れ、信仰も捨てたとされる
原マルチノ 副使 司祭となり、禁教令でマカオへ追放。寛永6年(1629)マカオで死去
中浦ジュリアン 副使 司祭として日本に残り潜伏。寛永10年(1633)長崎で殉教

8年半の旅 ─ ローマ教皇との対面

少年たちを乗せた船は、マカオ、インドのゴアを経て、天正12年(1584)にポルトガルのリスボンに着きました。スペインでは国王フェリペ2世に迎えられ、天正13年(1585)にはついにローマに入ります。

ローマでは、教皇グレゴリウス13世が少年たちを迎えました。遠い東の国から来た少年たちの姿は、ヨーロッパの人びとを驚かせ、各地で歓迎を受けたといいます。教皇は会見のまもなく後に亡くなり、少年たちは次の教皇シクストゥス5世の即位の儀式にも参列しました。

年 できごと
天正10年(1582)1月 長崎を出航
天正12年(1584) ポルトガルのリスボンに着く。スペイン国王に会う
天正13年(1585) ローマで教皇グレゴリウス13世に会う
天正15年(1587)6月 日本でバテレン追放令が出る(少年たちは帰国の途中)
天正18年(1590)6月 長崎に帰国。活版印刷機などを持ち帰る
天正19年(1591)閏1月 聚楽第で秀吉に会い、西洋の楽器を演奏する

帰国すると、追放令が出ていた

少年たちが帰国の途にあった天正15年、秀吉はバテレン追放令を出しました。天正18年(1590)、長崎に戻った少年たちを待っていたのは、出発のときとはまったくちがう日本でした。少年たちを送り出した大友宗麟と大村純忠も、すでにこの世にいませんでした(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

少年たちは、ヨーロッパから活版印刷機を持ち帰りました。この印刷機で、日本語のキリスト教の本や、ローマ字で書かれた『平家物語』などが刷られます。キリシタン版と呼ばれる、日本で最初の活版印刷の本です。

聚楽第で秀吉の前に立つ

天正19年(1591)閏1月、少年たちはヴァリニャーノとともに聚楽第をたずね、秀吉に会いました。ヴァリニャーノは、宣教師としてではなく、インド副王の使節という立場で来ていました。少年たちは秀吉の前で、ヨーロッパの楽器を奏でて聞かせたといいます。秀吉はたいへん喜び、何度も演奏を求めたと伝わります(聚楽第はいまどこにあるのか)。

水堀と石垣に囲まれ、金箔瓦の御殿がかがやく聚楽第のイメージ(イラスト)
少年たちが秀吉に会った聚楽第のイメージ(イラスト)

このとき秀吉は、少年たちに仕えないかと誘ったとも伝わります。追放令を出した秀吉が、ローマ帰りの少年たちの演奏に心をなごませる。そこには、キリスト教を警戒しながらも、南蛮の文化には強くひかれていた秀吉の姿が見えます。

▽ よく語られる話
天正遣欧使節は帰国後、秀吉に冷たくあしらわれた。
▼ 史実ではこうです
聚楽第での会見で、秀吉は少年たちの演奏を喜び、何度も聞いたと伝わります。追放令は出ていましたが、ヴァリニャーノが使節の立場で来たこともあり、秀吉は少年たちを丁重に迎えました。

分かれた四人の運命

帰国した四人は、イエズス会に入って学び、聖職者への道を歩みました。しかし、時代は禁教へと進んでいきます。伊東マンショは司祭となり、慶長17年(1612)に長崎で病のため亡くなりました。原マルチノは江戸幕府の禁教令でマカオへ追放され、そこで生涯を終えます。

千々石ミゲルは、のちにイエズス会を離れ、信仰も捨てたとされます。そして中浦ジュリアンは、禁教のもとでも日本に残り、ひそかに信者を励まし続けました。寛永10年(1633)、捕らえられたジュリアンは長崎で殉教します。死の間際、「わたしはローマに行った中浦ジュリアンである」と名のったと伝えられています。

冬の長崎の港を見おろす丘に十字架が並び、人びとが祈るイメージ(イラスト)
のちに中浦ジュリアンが殉教する長崎の丘のイメージ(イラスト)
✎ 筆者の考え
同じ船で海を渡り、同じ景色を見た四人の少年が、帰国後にこれほどちがう道を歩んだことに、筆者は胸をつかれます。ローマで見たものが大きすぎたのか、日本の変わりようが激しすぎたのか。四人の人生は、追放令から禁教へと向かう日本の、それぞれの答えだったのかもしれません。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)で描かれるキリシタン追放令が出されたとき、少年使節たちは帰国の旅の途中でした。ドラマに登場するかはわかりませんが、追放令の前後の日本とキリスト教を知るうえで、欠かせないできごとです。

よくある質問

Q. 天正遣欧少年使節の四人はだれですか?
A. 伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。

Q. いつローマへ行ったのですか?
A. 天正10年(1582)に長崎を出て、天正13年(1585)にローマに着きました。

Q. だれが送り出したのですか?
A. 大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の三人のキリシタン大名で、計画したのはヴァリニャーノです。

Q. 帰国後、秀吉に会いましたか?
A. 天正19年(1591)、聚楽第で秀吉に会い、西洋の楽器を演奏しました。

まとめ

天正遣欧少年使節は、九州のキリシタン大名がローマへ送った四人の少年たちでした。8年半の旅から戻ると、日本ではバテレン追放令が出ていましたが、少年たちは聚楽第で秀吉に会い、西洋の音楽を聞かせます。帰国後の四人の運命は、禁教へと進む時代のなかで大きく分かれていきました。

参考:ルイス・フロイス『九州三侯遣欧使節行記』/松田毅一『天正遣欧使節』講談社学術文庫/若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』集英社

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