- 天正15年(1587)5月8日、島津義久は薩摩の川内・泰平寺で秀吉に降伏しました。頭を丸めて「龍伯」と名乗り、秀吉は義久を許しました
- 弟の島津義弘はなおも抵抗を続けましたが、5月22日に降伏します。もう一人の弟・家久は、秀長とともに上洛する直前の6月5日に急死しました
- 秀吉は筑前の筥崎で九州の国分けを行い、島津家には薩摩・大隅と日向の一部を残しました。筑前は小早川隆景、豊前は黒田孝高、肥後は佐々成政、豊後は大友義統に与えられます
- 『豊臣兄弟!』第42回は九州攻めのあとの天正15年9月から始まると伝えられています。ドラマで描かれない九州平定の結末を、この記事でまとめます
秀長が日向方面の総大将を務めた九州攻めは、どのように終わったのでしょうか。伝えられているあらすじによると、『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は、九州攻めのあとの天正15年9月から始まり、島津家の降伏は描かれない見込みです。この記事では、島津義久の降伏から、義弘・家久のその後、そして秀吉が筥崎で決めた九州の国分けまでを紹介します。九州攻めの始まりは九州停戦令(惣無事令)とは、秀長の戦いぶりは根白坂の戦いで秀長は何をしたのかでくわしく書いています。

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根白坂の敗北で、島津は戦う力を失った
天正15年(1587)4月17日、日向の根白坂で、島津の救援軍は秀長の軍に敗れました。島津義久・義弘の兄弟は都於郡城へ退き、日向の戦線は崩れます。同じころ、秀吉の本隊は肥後を南へ進み、薩摩の入口に迫っていました。東と西の両方から攻めこまれた島津家には、もう押し返す力が残っていませんでした。
島津義久の降伏 ─ 5月8日、川内・泰平寺
5月6日、義久は本拠の鹿児島を出て、伊集院の寺で頭を丸め、「龍伯」と名乗りました。そして5月8日、秀吉が陣を置いていた薩摩・川内の泰平寺に出向いて降伏します。秀吉は義久を許し、薩摩一国を安堵しました。
頭を丸めて自ら出向くことで、義久は島津家の当主として責任をとる姿を見せました。秀吉にとっても、九州最大の大名を滅ぼさずに従わせることは、のちの九州の統治を考えればはるかに得策でした。

義弘はなお抵抗、家久は急死
兄の義久が降伏したあとも、弟の義弘は日向の飯野城に立てこもって抵抗を続けました。しかし義久の説得を受け、5月22日に降伏します。義弘は子の久保(ひさやす)を人質として差し出しました。
もう一人の弟・家久は、秀長の軍に降り、佐土原城を明け渡して秀長とともに上洛することになっていました。ところがその直前の6月5日、家久は急死します。病死とも毒殺ともいわれ、真相はわかっていません。戸次川の戦いで豊臣方の先発隊を破った名将の、あっけない最期でした(戸次川の戦いとは)。
筥崎の九州国分け
秀吉は5月18日に泰平寺を発ち、6月7日に筑前の筥崎(いまの福岡市東区)に入りました。ここで秀吉は、九州の大名たちの領地を決め直します。これを九州国分けといいます。
| 国 | 与えられた大名 | ひとこと |
|---|---|---|
| 薩摩 | 島津義久 | 降伏した島津本家に安堵 |
| 大隅 | 島津義弘 | 一部は島津家臣・伊集院忠棟へ |
| 日向 | 島津家(諸県郡など)・伊東祐兵(飫肥)・秋月種実(財部)・高橋元種(県)ほか | 大友宗麟に与える話もあったが辞退したとされる |
| 筑前 | 小早川隆景 | 毛利家の重鎮が九州の北の要に。筑後・肥前の一部も |
| 筑後 | 立花宗茂(柳川)・毛利秀包(久留米)・高橋直次(三池)・筑紫広門ほか | 宗茂は13万2000石の大名に取り立てられる |
| 豊前 | 黒田孝高(官兵衛)・毛利勝信 | 官兵衛は中津、勝信は小倉 |
| 肥後 | 佐々成政(球磨郡は相良氏) | のちの肥後国人一揆の舞台に |
| 豊後 | 大友義統 | 豊後一国と豊前宇佐郡の半分 |
| 肥前 | 龍造寺政家(実権は鍋島直茂)・有馬晴信(島原)・大村喜前(大村)・松浦鎮信(平戸)・波多親(唐津)ほか | おおむね元の領地を安堵。キリシタン大名の有馬・大村も残された |
筑後の柳川には、立花宗茂が13万2000石で入りました。宗茂は、岩屋城で討死した高橋紹運の子で、立花道雪の養子です。大友家の家臣でありながら、九州攻めでの働きを秀吉に認められ、大友家から独立した大名に取り立てられたのです。秀吉は宗茂を「西国無双」とたたえたと伝わります。翌月に起きた肥後国人一揆でも、宗茂は隈本城への補給を成功させています(柳川城/肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。
筑前の秋月種実は、島津方について秀吉と戦った大名です。天正15年4月、秀吉の本隊が九州に入ると、まず秋月の岩石城が一日で落とされ、種実は益富城を捨てて降伏しました。このとき種実は、天下の名物とされた茶入「楢柴肩衝」を秀吉に差し出して許しを請うたと伝わります。国分けでは、筑前・筑後に広がっていた秋月家の領地は取り上げられ、日向の財部(のちの高鍋)3万石に移されました。秋月家はこの地で、江戸時代を通じて高鍋藩として続きます。
日向ではほかに、島津に追われて豊後へ逃れていた伊東祐兵が、九州攻めで道案内を務めた功により、旧領の飫肥を取り戻しています。
肥前では、龍造寺・有馬・大村・松浦といった大名たちが、おおむね元の領地を認められました。大村家では、長崎をイエズス会に寄進したキリシタン大名・大村純忠が国分けの直前に亡くなり、子の喜前が跡を継いでいます。その長崎は、翌天正16年(1588)に秀吉の直轄地とされました(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。
なお、のちに唐津城を築く寺沢広高は、この国分けにはまだ登場しません。広高は文禄元年(1592)ごろに長崎奉行となり、文禄2年(1593)、波多親が朝鮮出兵での失態をとがめられて改易されたあと、その旧領の唐津を与えられました。
島津家は、九州のほぼ全土に広がっていた勢力を、薩摩・大隅と日向の一部にまで減らされました。一方で、滅ぼされることはなく、のちに関ヶ原を生きぬいて江戸時代の薩摩藩となります。
国分けのあとに起きたこと
九州国分けは、九州攻めの終わりであると同時に、新しい問題の始まりでもありました。筥崎に滞在していた6月19日、秀吉はバテレン追放令を出します(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。そして肥後を与えられた佐々成政の領地では、7月に国人たちが一斉に立ちあがる一揆が起きました(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。
その知らせが京に届いたのが、北野大茶湯の当日だったともいわれます(北野大茶湯とは)。第42回は、こうして九州攻めの「その後」が次々と押し寄せてくる時期にあたります。

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よくある質問
Q. 島津義久はいつ降伏したのですか?
A. 天正15年(1587)5月8日、薩摩・川内の泰平寺で秀吉に降伏しました。その前に頭を丸めて「龍伯」と名乗っています。
Q. 島津義弘はいつ降伏したのですか?
A. 兄の義久の降伏後も抵抗を続けましたが、5月22日に降伏し、子の久保を人質に出しました。
Q. 島津家久はなぜ死んだのですか?
A. 天正15年6月5日、秀長とともに上洛する直前に急死しました。病死とも毒殺ともいわれ、はっきりしていません。
Q. 九州国分けで島津家に残された領地は?
A. 薩摩一国(義久)、大隅(義弘)、日向の諸県郡などです。九州のほぼ全土に広がっていた勢力から大きく減らされました。
まとめ
九州攻めは、天正15年5月8日、島津義久が泰平寺で秀吉に降伏して終わりました。義弘も5月22日に降り、家久は秀長と上洛する直前に急死します。秀吉は筥崎で九州の国分けを行い、島津家には薩摩・大隅と日向の一部を残しました。しかしその筥崎でバテレン追放令が出され、肥後では一揆が起きます。第42回「北野大茶湯」の舞台は、九州平定の「その後」が動き出す時期なのです。
参考:『九州御動座記』/『上井覚兼日記』/『島津家文書』/藤井讓治『天下人の時代』吉川弘文館
