- 高橋紹運が岩屋城で退かなかったのは、時間を稼ぐためでした。大友家に残されていた手は、秀吉の援軍を待つことだけだったからです
- 岩屋城は大宰府を見下ろす位置にあり、ここを抜かれれば長男・宗茂の立花城も次男・統増の宝満城も一度に呑まれる関係にありました
- 紹運は5度の勧告を断っています。3度は島津からの降伏勧告、残る二つは味方からの撤退の勧めでした
- 763人で14日。島津方の死傷は4,500を超えたと伝わります。立花城を攻めるころには勢いが落ちていました
- その間に秀吉の先発が九州へ入り、島津は薩摩へ退きます。息子二人も、立花・高橋の二家も残りました
高橋紹運が岩屋城を動かなかったのは、死に場所を求めたからではなく、時間を買うためでした。天正14年の夏、島津は2万を超える兵で筑前に入っています。衰えた大友家に残されていた手は、上方の秀吉が動くのを待つことだけでした。岩屋城は大宰府の喉元にあたり、ここを素通りされれば息子たちの二つの城も一度に呑まれます。紹運は763人で籠もり、島津に14日を使わせました。その14日が、島津の兵力と、九州を平らげるという計画の両方を削ったのです。
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天正14年の夏、島津は筑前まで来ていた
九州の形勢は、このころすでに島津に傾いていました。大友家は耳川の敗戦から立ち直れず、配下の国人が次々に島津へ移っていきます。追い詰められた大友宗麟は前年から秀吉を頼り、天正14年の春には自ら大坂城へ上って救援を願い出ました(大友宗麟の大坂城訪問)。
秀吉は関白の名で島津と大友に停戦を命じますが、島津はこれに従いませんでした(九州停戦令(惣無事令)とは)。上方の軍勢が九州へ渡ってくる前に、九州を自分のものにしてしまう。それが島津の計算でした。そして七月、島津忠長と伊集院忠棟の率いる2万を超える軍が、筑前へ入ってきます。
岩屋城に籠もったのは763人
岩屋城は、大宰府の背後にそびえる四王寺山の中腹にある山城です。高橋紹運はこのとき39歳。城に入った人数は763人と伝わります。寄せ手は2万以上ですから、26倍を超える相手でした。
7月12日に最初の降伏勧告があり、14日から攻防が始まります。落城は7月27日(26日とする史料もあります)。寄せ手は石垣に取りつくこともままならず、投石や倒木に阻まれながら、14日をかけてようやく本丸にたどり着きました。城にいた者はほぼ全員が討ち死にしています。

いまの岩屋城跡は、本丸跡まで登ると大宰府の町と背振の山並みが一望できます(岩屋城)。

5度の勧告を断った ─ うち二つは味方からだった
この戦いでいちばん知られていないのは、紹運に逃げ道が用意されていたことです。伝わるところでは、勧告は5度ありました。
島津から3度 ─ 降伏の勧め
条件まで示されました。長男を差し出すなら和睦してよい、というものです。城も人も助かる話でした。
長男・立花宗茂から ─ 撤退の勧め
岩屋城は守りきれない、立花城へ退いてほしい、と息子のほうから申し入れています。
黒田官兵衛から ─ 同じく撤退の勧め
上方から様子をうかがっていた官兵衛も、岩屋を捨てるよう伝えたと伝わります。
紹運は、使者をいずれも丁重にもてなしたうえで、すべて断りました。「生きて二君にまみえんより、死して武士道を全うせん」と答えたと軍記物は伝えます。後世の脚色がどこまで入っているかは分かりませんが、断ったという事実そのものは、どの系統の記録でも変わりません。
大友が栄えているときに従い、傾いたら離れる。九州ではそれが当たり前になっていた時期でした。秀吉がのちに諸大名を引き抜いていったのも、同じ風向きの上での話です(秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち)。その中で紹運は動きませんでした。
14日という時間が、何を変えたのか
岩屋城で島津が払った代償は大きいものでした。死傷者は4,500を超えたと伝わります。二万の軍で4,500を失えば、次の城を落とす勢いは明らかに鈍ります。
島津はそのまま北へ進み、立花城にかかりました。しかし押しきれません。そうしているうちに、秀吉の先発である毛利・小早川・黒田らの軍勢が九州へ渡ってきます。島津は立花城を落とせないまま、薩摩へ引き上げました。
九州攻めがこのあとどう進み、島津がどう降伏したのかは九州攻めはどう終わったのかにまとめています。秀吉本隊と秀長の本格的な進攻は翌年で、その決着がついたのが根白坂の戦いでした。
息子たちはどうなったのか
長男の宗茂は立花城を守り抜きました。岩屋城へ援軍も送っており、駆けつけた吉田右京ら20人ほどが父とともに討ち死にしています。父を助けられなかった息子、という形です。
次男の統増がいた宝満城には、城兵以外の人びとも入っていました。統増は島津の計略にかかって捕らえられますが、のちに解放されています。
翌天正15年、宗茂は筑後の柳川13万2千石を与えられました。父が守った家は、息子の代でむしろ大きくなっています。統増ものちに立花の名字を許され、立花直次と名のりました。高橋の家も立花の家も、江戸時代を通じて続きます。

では、なぜ紹運は残ったのか
理由を一つに絞るのは難しいのですが、整理すると四つが重なっています。
① 位置 岩屋城は大宰府の喉元にあり、ここを抜かれれば宝満城も立花城も続けて攻められる並びでした。先頭の石を抜けば、うしろが崩れる形です。
② 時間 大友にはもう兵力がありません。残された手は秀吉の援軍を待つことだけで、だとすれば価値があるのは土地ではなく日数でした。少ない人数で1日でも長く持ちこたえることは、負け方として合理的だったのです。
③ 立場 島津の出した条件は、長男を差し出すなら和睦する、というものでした。これを受ければ命は助かりますが、大友を裏切ったことになります。九州では主家を見限る者が続いていた時期で、紹運はその流れに乗りませんでした。
④ 家 息子二人は、それぞれ別の城にいました。父が岩屋、長男が立花、次男が宝満。結果として、父が倒れても家は残る置き方になっています。家族を一か所に集めなかったことが、二家が続いた理由の一つでもありました。
「玉砕」は紹運の意図だったのか
最初から全員で討ち死にするつもりだった、という読み方と、持ちこたえるだけ持ちこたえた結果そうなった、という読み方があります。島津が4,500を失っていることを考えると、守り手としては十分に戦えていたことになります。
人数と損害の数字
763人という数字も、島津方の死傷4,500という数字も、後世の軍記物から来ています。死者を600ほどとする記録もあり、数字そのものは幅をもって見る必要があります。
有名な返答の言葉
使者に返したとされる言葉も軍記物に載るもので、同時代の文書で確かめられるものではありません。ただ、勧告を断り続けたこと自体は複数の系統で一致しています。
島津が押し切れなかったという点では、四国での長宗我部と比べても対照的です。その違いは家康は引き分けたのに、なぜ長宗我部と島津は秀吉に敗れたのかで書いています。
よくある質問
Q. 高橋紹運は立花宗茂の実の父ですか?
A. そうです。長男の統虎が立花道雪の婿養子に入り、立花宗茂となりました。岩屋城のとき、宗茂は立花城の城主として別の城にいたことになります。
Q. なぜ宝満城や立花城へ退かなかったのですか?
A. 退けば島津は損害を受けずに北へ進めます。少ない人数でも城に拠れば時間を稼げる、という計算だったと考えられます。
Q. 島津は紹運をどう扱ったのですか?
A. 敵将でありながら、その働きを称えて弔ったと伝わります。首塚と胴塚が別に築かれたという話も残ります。
Q. 岩屋城が落ちなければ島津は九州を取れたのですか?
A. 14日と4,500の損害がなければ、立花城を落として筑前を押さえ、上方の軍を迎え撃つ構えを作れた可能性があります。結果から見れば、この14日が順番を入れ替えました。
Q. 岩屋城跡はいま見学できますか?
A. 太宰府市の四王寺山にあり、本丸跡まで登れます。大宰府の町を一望できる場所です。行き方や見どころは岩屋城にまとめています。
まとめ
高橋紹運が岩屋城を動かなかったのは、守るべきものが城ではなく日数だったからです。大友にはもう兵がなく、秀吉の援軍が来るまで島津を足止めできるかどうかだけが残された勝負でした。島津からの降伏の条件も、息子と官兵衛からの撤退の勧めも、すべて断って14日を稼ぎます。その14日が島津から4,500を奪い、立花城を落とす勢いを削ぎ、上方の軍が間に合う順番を作りました。父は残りませんでしたが、二つの城と二人の息子、そして立花・高橋の二家は残りました。負けた戦いの中で、何を残すかを選んだ人だったのだと思います。
参考:『九州治乱記』『高橋記』など軍記物の諸本、太宰府市・福岡県の史跡解説

