小西行長とは|堺の商人の子からキリシタン大名へ ─ 瀬戸内の水軍、右近をかくまった追放令、肥後の宇土城と清正、六条河原の最期

宇土城:関ヶ原の戦いで西軍の将小西行長の居城 宇土城
この記事のポイント
  • 小西行長は、堺の豪商・小西隆佐の子として生まれた商人出身の武将です。宇喜多直家に仕えたのち秀吉の家臣となり、瀬戸内の水軍を任されました
  • 洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチーノ)。天正15年(1587)のバテレン追放令のあとも処罰されず、領地を失った高山右近をかくまいました
  • 肥後国人一揆のあと、天正16年(1588)に肥後の南半国を与えられ、宇土城を本拠としました。北半国の加藤清正とは、のちに朝鮮出兵でも張りあう間柄になります
  • 関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れ、キリシタンとして自害を選ばず、石田三成らとともに京の六条河原で処刑されました

『豊臣兄弟!』第42回で描かれるバテレン追放令と肥後の一揆。そのどちらにも深くかかわったのが、小西行長です。堺の商人の家に生まれ、武将としては水軍を率い、キリシタンとして信仰を守り、肥後では加藤清正と国を分けあった。一人の人物の中に、豊臣政権の「海」「信仰」「九州」が重なっています。この記事では、行長の生涯を、ゆかりの城の写真とともにたどります。

宇土城:関ヶ原の戦いで西軍の将小西行長の居城 宇土城
行長が肥後で本拠とした宇土城の跡(宇土城跡)
目次

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堺の商人の子として

行長は、堺の豪商・小西隆佐の子として生まれました。生年ははっきりせず、永禄元年(1558)ごろとされます。父の隆佐は薬を扱う商人で、のちに秀吉に重く用いられ、堺の代官も務めた人物です。

行長ははじめ、備前の宇喜多直家に仕えました。直家と秀吉のあいだを取りもつうちに秀吉に見こまれ、その家臣となります。武士の家に生まれたわけではない行長が、交渉と海の知識で出世していく姿は、百姓から天下人になった秀吉とどこか重なります。

瀬戸内の水軍を率いる

秀吉のもとで行長が任されたのは、瀬戸内海の舟の差配でした。小豆島などを支配し、物資や兵を運ぶ水軍を率いて、四国攻めや九州攻めを支えます。商人の家で育った行長は、船と物流にくわしく、秀吉にとって欠かせない人材でした。

キリシタン・アウグスティヌス

行長は早くから洗礼を受けたキリシタンで、洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチーノ)といいました。父の隆佐も信者で、小西家は一家ぐるみでキリスト教を信じていました(キリシタン大名とは)。

天正15年のバテレン追放令では、高山右近が領地を取り上げられましたが、行長は処罰されていません。それどころか行長は、領地を失った右近を自分の支配する小豆島などにかくまいました。秀吉に罰せられた者をかくまうのは、行長自身の身もあやうくする行いでした(高山右近は改易のあとどこにいたのか)。

平戸の浜に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちと見送る信者のイメージ(イラスト)
追放令のあと平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)

肥後の南半国へ ─ 宇土城と清正

天正15年、佐々成政が治める肥後で国人一揆が起きます。一揆がしずめられ、成政が切腹したあと、天正16年(1588)に肥後は二つに分けられました。北半国は加藤清正に、南半国は行長に与えられます(肥後国人一揆とは、加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのか)。

行長は宇土に城を築いて本拠とし、八代には麦島城を置きました。宇土城の跡には、いまも石垣が残り、行長の時代の面影を伝えています。

宇土城:関ヶ原の戦いで西軍の将小西行長の居城 宇土城
宇土城跡に残る石垣
宇土城:関ヶ原の戦いで西軍の将小西行長の居城 宇土城
宇土城跡(宇土市)
八代城/アクセス・場所・地図 戦国大名相良義滋の居城の一つでその後島津氏に降った八代城
八代城跡。行長の時代には近くの麦島城が八代の拠点だった(八代城)
年 行長のできごと
永禄元年(1558)ごろ 堺の豪商・小西隆佐の子として生まれる
天正年間 宇喜多直家に仕え、のち秀吉の家臣に
天正13年(1585)ごろ 小豆島などを支配し、瀬戸内の水軍を率いる
天正15年(1587) バテレン追放令。改易された高山右近をかくまう
天正16年(1588) 肥後の南半国を与えられ、宇土城を本拠とする
文禄元年(1592) 朝鮮出兵で第一軍の先鋒として渡海
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで西軍に属し敗れる。京の六条河原で処刑

朝鮮出兵と、清正との張りあい

文禄元年(1592)の朝鮮出兵で、行長は第一軍の先鋒として海を渡りました。二番手の加藤清正と先を争うように進み、平壌まで攻め上ります。その一方で行長は、明との講和交渉の中心にも立ちました。戦を早く終わらせたい行長と、戦い続けようとする清正。肥後で隣りあったふたりの対立は、朝鮮でいっそう深まっていきます(朝鮮出兵をわかりやすく解説、加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ不仲だったのか)。

▽ よく語られる話
小西行長は商人あがりで、戦の腕は清正に劣る武将だった。
▼ 史実ではこうです
行長は朝鮮出兵で先鋒として平壌まで進んでおり、戦えない武将ではありませんでした。ただ、行長が得意としたのは、兵站と交渉でした。戦だけでなく、舟と物と言葉で国を動かすという点で、行長は清正とはちがう型の武将だったのです。

関ヶ原、そして六条河原

秀吉の死後、行長は石田三成とともに西軍に加わり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにのぞみます。西軍は敗れ、行長は伊吹山に逃れたのち捕らえられました(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。

武士であれば、捕らわれる前に自害するのが当たり前とされた時代です。しかしキリスト教は自殺を禁じていました。行長は自害を選ばず、10月1日、三成や安国寺恵瓊とともに京の六条河原で首をはねられました。最期まで、行長はキリシタンとして死んだのです。

✎ 筆者の考え
行長の生涯をたどると、いつも「間」に立っている人だと感じます。商人と武士の間、秀吉と宣教師の間、日本と明の間、そして右近と秀吉の間。間に立つ者は、どちらからも疑われやすい。それでも行長は、右近を見捨てず、最後まで信仰も捨てませんでした。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令と、佐々成政が治める肥後での大規模な一揆が描かれるようです。追放令と肥後一揆の両方にかかわり、のちに肥後の南半国を得る行長が登場するかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 小西行長の出身は?
A. 堺の豪商・小西隆佐の子です。

Q. 小西行長の洗礼名は?
A. アウグスティヌス(アゴスチーノ)です。

Q. 小西行長の城はどこですか?
A. 肥後の宇土城を本拠とし、八代に麦島城を置きました。

Q. 小西行長はなぜ切腹しなかったのですか?
A. キリスト教が自殺を禁じていたため、自害を選ばず、六条河原で処刑されました。

まとめ

小西行長は、堺の商人の子から秀吉の水軍の将となり、キリシタン大名として信仰を守りぬいた人物です。バテレン追放令では右近をかくまい、肥後国人一揆のあとは南半国を得て加藤清正と並び立ちました。関ヶ原のあと、自害せずに処刑された最期は、行長が最後までキリシタンであったことを物語っています。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/鳥津亮二『小西行長』八木書店/宇土市「宇土城跡」案内

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