北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか|記録に残る天正15年10月1日と、1日で終わった本当の理由

北野の松原に町人や百姓の茶席が並び、朱塗りの大傘を立てた茶席が目を引く北野大茶湯のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 北野大茶湯の会場で刃傷沙汰が起きたという記録は見当たりません。『豊臣兄弟!』第42回で描かれる事件は、ドラマの創作と考えられます
  • 茶会は天正15年10月1日、北野天満宮の境内で開かれました。触書では10日間の予定でしたが、実際は1日で終わっています
  • 1日で終わった理由としてもっとも有力なのは、その日の夕方に届いた肥後国人一揆の知らせです
  • バテレン追放令はこの年の6月に出ており、恨みを抱く者がいてもおかしくない状況ではありました。高山右近は領地を捨てています
  • 茶会を言い出したのが秀次だったという記録もありません。触書は7月28日に秀吉の名で出されています

北野大茶湯で刃傷沙汰はあったのか。結論からいうと、そうした事件を伝える記録は見当たりません。『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で描かれるというキリシタン追放令への恨みからの刃傷沙汰は、ドラマの創作と考えてよいでしょう。ただし、「何も起きなかったのに1日で終わった」ことのほうが、むしろ謎として残っています。この記事では、記録に残っている北野大茶湯の姿を確かめたうえで、なぜ1日で打ち切られたのかという問いを整理します。

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室のイメージ(イラスト)
北野天満宮の拝殿には黄金の茶室が運びこまれたと伝わります(イメージイラスト)
目次

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記録に残っている北野大茶湯

まず、確かなことから並べます。北野大茶湯は天正15年(1587)10月1日、京の北野天満宮の境内で開かれました。前年からの流れでいえば、九州攻めを終え、聚楽第が完成した直後の催しです。

触書が出されたのは7月28日。そこに書かれていたのは、次のような内容でした。

  • 10月1日から10日間ひらく。秀吉が自分の名物道具を公開する
  • 釜・釣瓶・呑物をひとつずつ持ってくること。道具がなければ代わりの物でよい
  • 座敷は松原に畳2枚分。身なりも席次も問わない
  • 日本国内はもちろん、唐国から来る者も構わない
  • 参加しない者は、今後いっさい茶の湯をしてはならない

身分を問わないどころか、来なければ茶をやめろとまで書いてあるのが秀吉らしいところです。当日は京・大坂・堺・奈良から人が集まり、1,000人ほどが参加したと伝わります。茶席は4つ。秀吉のほか、千利休、津田宗及、今井宗久が茶頭をつとめ、参加者はくじ引きで3〜5人ずつ席に通されました。触書の中身と当日の様子は北野大茶湯とはでくわしく書いています。庶民がどうやって参加したのかは北野大茶湯に庶民はどう参加したのかをどうぞ。

刃傷沙汰の記録はあるのか

結論は冒頭のとおりです。北野大茶湯の会場で人が斬られた、という記録は見当たりません。

この茶会はよく知られた催しで、当時の記録にも後世の茶書にも書かれています。秀吉が午後に会場を回り、丿貫(へちかん)という風変わりな茶人の席に目を留めて感心した、という話まで残っているほどです。もし刃傷沙汰があったなら、丿貫の逸話より先に書かれていたはずです。

したがって、第42回で描かれる事件はドラマが作った筋と考えるのが自然でしょう。『豊臣兄弟!』はこれまでも、第41回の秀長暗殺のように、史料にない出来事を物語の軸に置いてきました。その回の例は家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのかにまとめています。

では、なぜ1日で終わったのか

刃傷沙汰がなかったとすると、10日間の予定が1日で終わった理由が問題になります。これには当時から説がありました。

説 中身 どう見るか
肥後国人一揆の報せ その日の夕方、肥後で一揆が起きたという知らせが届き、秀吉が不快に思って打ち切った 当時からささやかれ、いまも通説とされる。第42回のあらすじにも肥後の一揆が出てくる
秀吉が満足した 名物を見せ、人を集め、自分で茶を点てて、1日で気が済んだ 秀吉の性格からは説明できるが、触書で「来なければ茶をやめろ」とまで書いた以上、中途半端ではある
疲れた 数百人を相手に茶を点て続け、体がもたなかった 当時51歳。1日で疲れたとしても不思議はない
人が集まらなかった 予定より人が少なく、10日続ければ失敗が知れてしまうので、あいまいに終えた 中村修也の推測。1,000人という数字をどう見るかによる
はじめから1日だけの予定だった 10日間の触書は人を集めるための建前で、直前に1日へ変更された 記録の読み方しだい。ただし遠国からの参加に配慮して10日間にした、とわざわざ触書に書いてある

このうち肥後国人一揆の説がいちばん強いとされています。茶会の当日、九州では佐々成政の領国で大きな一揆が起きていました。天下統一の仕上げを祝う席に、仕上げが崩れる知らせが届いたことになります。一揆の経緯と成政の最期は肥後国人一揆とはで書きました。

バテレン追放令に恨みを抱く者はいたのか

事件そのものは創作とみられますが、その背景にあたる部分は史実です。

秀吉がバテレン追放令を出したのは、北野大茶湯と同じ天正15年の6月19日、九州攻めからの帰り道、博多でのことでした。宣教師を20日以内に国外へ退去させるという内容です。そのすぐ前には、キリシタン大名で利休七哲にも数えられる高山右近が、信仰を選んで明石の領地を捨てています。

つまり茶会の4か月前に、信仰のために身分や土地を失った人びとが実際にいたわけです。ドラマが「追放令に恨みを抱く者」を登場させるのは、その土壌の上に立った創作といえます。追放令がなぜ出されたのか、そして右近がなぜ領地を捨てたのかは秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかでくわしく書いています。

茶会を言い出したのは秀次なのか

第42回では、聚楽第の完成を祝って秀次が茶会をひらくことを提案し、秀長が時期尚早だと反対する、という筋が伝えられています。これも記録には見当たりません。

触書は7月28日に秀吉の名で出されています。北野大茶湯は秀吉自身の催しであり、実務を担ったのは利休ら茶頭たちでした。秀次が発案したという話も、秀長が反対したという話も、史料には残っていません。

ただし、秀長が兄の派手な催しに距離を置いていたという描き方そのものは、まったくの絵空事ではありません。秀長は実務の人で、この時期は大和・紀伊・和泉の政務と九州の戦後処理を抱えていました。秀次についても、秀長が「殿下の器ではない」と評したという話が伝わります。その言葉の出どころはなぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのかで検証しました。聚楽第がどんな建物だったのかは聚楽第は城なのか館なのかをどうぞ。

北野の松原に町人や百姓の茶席が並び、朱塗りの大傘を立てた茶席が目を引くイメージ(イラスト)
北野の松原に並んだ茶席のイメージ。身なりも席次も問わない茶会でした(イメージイラスト)

この茶会は、何のために開かれたのか

刃傷沙汰の有無より大事なのは、秀吉がなぜこんな催しを思いついたのかでしょう。

この年、秀吉は九州を平定し、聚楽第を完成させ、関白として天下統一の仕上げにかかっていました。茶の湯は当時、大名と豪商のものです。それを百姓にまで開いて「だれでも来い」と呼びかけたところに、この催しの意味があります。茶の湯の頂点に立つのは自分だと、京じゅうに見せる催しでもありました。

秀吉はこのあとも、名護屋の瓜畑遊びや醍醐の花見と、人を集める催しを重ねていきます。3つを並べると、秀吉が何を楽しみ、何を見せたかった人なのかが見えてきます。北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見はどう違う?で比べました。拝殿に運びこまれた黄金の茶室については秀吉の黄金の茶室とはをどうぞ。

▷ 大河ドラマではこう描かれるようです(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送です。伝えられているあらすじでは、聚楽第の完成を祝って秀次(山田涼介)が茶会を提案し、秀長(仲野太賀)は天下統一が道半ばだとして反対します。秀吉(池松壮亮)は利休(吉岡秀隆)に命じ、大名も商人も百姓も入れる大茶会を北野でひらきます。会場は大変な盛況となりますが、そこでキリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が起こるとされています。あわせて、佐々成政(白洲迅)の肥後で大規模な一揆が起きます。
史実との違いは本文のとおりで、刃傷沙汰も、秀次の発案も、秀長の反対も記録にはありません。いっぽう肥後の一揆は史実で、茶会が1日で終わった理由とされてきたものです。ドラマは「1日で終わった理由」を刃傷沙汰に置き換えたのかもしれません。放送後にこの枠を更新します。

よくある疑問

Q. 北野大茶湯で刃傷沙汰はあったのですか?
A. そうした記録は見当たりません。ドラマの創作と考えられます。

Q. いつ、どこで開かれたのですか?
A. 天正15年(1587)10月1日、京の北野天満宮の境内です。

Q. なぜ1日で終わったのですか?
A. その日の夕方に肥後国人一揆の知らせが届いたためという説がもっとも有力です。ほかに、秀吉が満足した、疲れた、人が集まらなかったなどの説があります。

Q. 何人くらい集まったのですか?
A. 1,000人ほどと伝わります。京・大坂・堺・奈良から人が来ました。

Q. 誰でも参加できたのですか?
A. 触書には身なりも席次も問わないとあり、百姓も参加できました。釜と釣瓶と呑物をひとつずつ持参すればよく、道具がなければ代わりの物でもよいとされています。

Q. バテレン追放令はいつ出されたのですか?
A. 同じ天正15年の6月19日、九州攻めからの帰りに博多で出されました。茶会の4か月前です。

まとめ

北野大茶湯で刃傷沙汰があったという記録はありません。第42回で描かれる事件は、バテレン追放令という史実の土壌の上に立てられた創作と考えられます。

記録に残っているのは、身なりも席次も問わないと触書に書き、1,000人を集め、黄金の茶室を運びこみ、そして10日間の予定をその日のうちに打ち切ったという事実のほうです。理由としてもっとも有力なのは、肥後から届いた一揆の知らせでした。天下統一を祝う茶会の日に、その天下が揺れていたということになります。ドラマがそこに刃傷沙汰を置いたのだとすれば、打ち切りの理由を目に見える形にしたかったのでしょう。

参考:北野大茶湯の触書/竹内順一ほか『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』淡交社

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