天正十六年に何が起きたのか|聚楽第行幸、成政の切腹、刀狩令 ─ 『豊臣兄弟!』第43回の一年を月ごとに

春の京の大路を、牛車を中心に公家たちの行列が御殿の門へ進む聚楽第行幸のイメージ(イラスト)

『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」の舞台は、天正16年(1588)です。九州を平定した翌年で、秀吉が戦ではなく法令と儀式で天下を固めにかかった一年でした。天皇を聚楽第に迎え、佐々成政に腹を切らせ、刀狩令を出し、北条家から使者を迎える。どれも一つずつ記事になる出来事が、この一年に詰まっています。

この記事では、天正16年の出来事を月ごとに並べ、それぞれがどうつながっていたのかを見ていきます。

この記事のポイント
  • 天正16年は、4月の聚楽第行幸、閏5月の佐々成政の切腹、7月の刀狩令・海賊停止令、8月の北条氏規の上洛と、大きな出来事が続いた年です
  • 戦で大名を従わせた天正15年までとちがい、儀式と法令で天下の仕組みを固めた一年でした
  • 正月には足利義昭が出家して将軍の座を正式に離れ、室町幕府は名実ともに終わりました
  • 北条家は氏規を送ったものの当主の氏政・氏直は上洛せず、この温度差が2年後の小田原攻めにつながります
春の京の大路を、牛車を中心に公家たちの行列が進む聚楽第行幸のイメージ(イラスト)
春の京の大路を、牛車を中心に公家たちの行列が進む聚楽第行幸のイメージ(イラスト)
目次

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天正16年の年表

時期 できごと
正月 足利義昭が出家し、昌山と名のる。将軍の地位を離れる
2月ごろ 肥後国人一揆の責任を問われた佐々成政が、詫びるため大坂へ向かう
4月14日〜18日 後陽成天皇が聚楽第に行幸。諸大名が関白秀吉に従うことを誓う
閏5月14日 佐々成政が摂津尼崎で切腹
閏5月 肥後を加藤清正(北半国)と小西行長(南半国)に分けて与える
7月8日 刀狩令と海賊停止令を出す
7月 毛利輝元が上洛する
8月 北条氏政の弟・氏規が上洛し、聚楽第で秀吉に会う
この年 京の大仏(方広寺)の造営が進む

正月 ─ 最後の将軍が出家する

天正16年の正月、京に戻っていた足利義昭が出家し、昌山と名のりました。義昭は信長に京を追われたあとも、形の上では将軍の地位を手放していませんでした。その義昭が出家したことで、室町幕府は名実ともに幕を閉じます。秀吉は義昭を丁重に扱い、のちには1万石ほどの知行も与えています。

第42回の予告では、昌山が「決して関白殿下から離れるでない」と語る場面がありました。将軍の家を終わらせた人が、関白の世を見届ける側に回ったわけです。義昭のその後は足利義昭のその後で書いています。

鞆の浦から瀬戸内海を眺める足利義昭のイメージ(イラスト)。義昭は京に戻ったあと、天正16年正月に出家した
鞆の浦から瀬戸内海を眺める足利義昭のイメージ(イラスト)。義昭は京に戻ったあと、天正16年正月に出家した

春 ─ 聚楽第行幸

4月14日、後陽成天皇が秀吉の聚楽第に行幸し、18日まで滞在しました。秀吉は行幸の場で、諸大名に起請文を出させています。天皇の領地を守ること、そして関白の命令に従うこと。戦場ではなく天皇の前で、大名たちに秀吉への服従を誓わせたのです。

家康も信雄も、この場で誓約に名を連ねました。武力で従えた大名たちを、朝廷の権威で改めて縛り直した儀式と言えます。くわしくは聚楽第行幸とはをどうぞ。

✎ 筆者の考え
天正16年の秀吉で印象に残るのは、戦をほとんどしていないことです。前の年まで九州へ大軍を出していた人が、この年は京にとどまって、儀式と法令で天下を固めています。行幸は、その幕開けにふさわしい出来事でした。秀長が大和で国づくりに力を入れていたのも、ちょうどこのころです。

初夏 ─ 佐々成政の切腹と肥後の分割

前の年に肥後で起きた国人一揆は、成政の検地への反発がきっかけでした。秀吉は九州・四国の大名を動員してこれを鎮め、成政の責任を問います。成政は詫びるため大坂へ向かいましたが、秀吉は会わず、閏5月14日、尼崎で切腹を命じました。

真冬の北アルプスを越える佐々成政の一行のイメージ(イラスト)。さらさら越えから十数年後、成政は尼崎で生涯を終えた
真冬の北アルプスを越える佐々成政の一行のイメージ(イラスト)。さらさら越えから十数年後、成政は尼崎で生涯を終えた

空いた肥後は、北半国が加藤清正、南半国が小西行長に与えられました。豊臣家子飼いの若い二人を九州に置いたこの国分けは、のちの朝鮮出兵の布陣にもつながっていきます。経緯は肥後国人一揆とは、加藤清正と小西行長はなぜ肥後を分けあったのかで書いています。

熊本城。肥後北半国を与えられた加藤清正が、のちに築いた城
熊本城。肥後北半国を与えられた加藤清正が、のちに築いた城

7月 ─ 刀狩令と海賊停止令

7月8日、秀吉は刀狩令と海賊停止令を同じ日に出しました。刀狩令は百姓から刀・脇差・弓・槍・鉄砲を差し出させる法令で、集めた刀は京の大仏の釘にすると説明されています。海賊停止令は、海の上で武力をふるう人びとを取り締まる法令です。陸と海の両方で、武器を持って争うことを武士以外に許さない仕組みが、この日にそろいました。

能島城跡。海賊停止令で、村上水軍は海の上での自由な活動を失った
能島城跡。海賊停止令で、村上水軍は海の上での自由な活動を失った

刀狩令が肥後の一揆の翌年に出されたことには、はっきりした理由があります。条文の第一条に、武具を持つ百姓が一揆を企てることへの警戒が書かれているのです。くわしくは刀狩令とは、海賊停止令とは、刀狩りと一揆の関係は刀狩りはかえって一揆を招いたのかをどうぞ。

造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)
造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)

夏から秋 ─ 毛利輝元と北条氏規の上洛

7月には中国地方の毛利輝元が上洛しました。輝元は天正13年の四国攻めのころから秀吉に従っていましたが、自ら京にのぼって臣下の礼をとったのはこのときです。西国の大大名が、そろって関白のもとに顔をそろえたことになります。

残る大きな大名は、関東の北条家でした。8月、北条氏政の弟・氏規が上洛し、聚楽第で秀吉に会います。ただ、当主の氏直も、実権を握る父の氏政も京には来ませんでした。秀吉はこれを不服とし、北条家との間には、沼田の領地をめぐる問題もくすぶり続けます。氏規については北条氏規とはで書いています。

韮山城跡。北条氏規が守り、のちの小田原攻めで豊臣の大軍を引き受けた城
韮山城跡。北条氏規が守り、のちの小田原攻めで豊臣の大軍を引き受けた城

天正16年から天正17年へ

天正16年の終わりには、九州から東海までの大名がほぼ秀吉に従う形が整いました。残るのは関東の北条家と、奥羽の伊達家などでした。翌天正17年には茶々が鶴松を生み、豊臣家は跡継ぎを得ます。一方で、北条家との交渉は名胡桃城事件で決裂し、天下統一の最後の戦い、小田原攻めへと進んでいきます。続きは天正十七年に何が起きたのかをどうぞ。

✎ 筆者の考え
天正16年を一言で言うなら、「仕組みの年」だと筆者は考えています。行幸で大名の誓いを集め、刀狩令で百姓の武器を集め、海賊停止令で海の武力を止める。秀吉がのちの江戸時代にまで続く仕組みを、いちばん多く積み上げたのがこの一年でした。華やかな戦がないぶん、ドラマでは地味に見えるかもしれませんが、天下統一の中身はむしろこの年に詰まっています。
▶ 豊臣兄弟の時代を一年ずつ読む

よくある質問

Q. 天正16年は西暦何年ですか?
A. 1588年です。この年は閏5月があり、5月が二度ありました。

Q. 天正16年のいちばん大きな出来事は何ですか?
A. 4月の聚楽第行幸と、7月の刀狩令がよく挙げられます。どちらも、秀吉が戦以外のやり方で天下を固めたことを示す出来事です。

Q. 北条家はなぜ上洛しなかったのですか?
A. 弟の氏規は上洛しましたが、当主の氏直と父の氏政は動きませんでした。沼田領の問題を抱えていたことなどが理由に挙げられ、これがのちの小田原攻めにつながります。

Q. 佐々成政はいつ切腹しましたか?
A. 天正16年閏5月14日、摂津尼崎で切腹しました。肥後国人一揆の責任を問われたものです。

まとめ

天正16年は、聚楽第行幸に始まり、佐々成政の切腹、刀狩令と海賊停止令、毛利輝元と北条氏規の上洛と続いた一年でした。戦で大名を従わせる時代から、儀式と法令で天下を治める時代へ移る、その境目の年です。第43回「殿下の刀狩り」は、この一年の真ん中にある刀狩令を中心に描かれます。秀吉と秀長が何を積み上げていたのかを、年表と合わせて見ていくとドラマがいっそう楽しめるはずです。

参考:藤田達生『秀吉と海賊大名』(中公新書)、藤木久志『刀狩り 武器を封印した民衆』(岩波新書)、黒田基樹『北条氏政』(ミネルヴァ書房)

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