身分統制令とは|天正19年の三か条と人掃令をわかりやすく ─ 刀狩令の3年後、秀吉は奉公人と百姓をどう縛ったのか

役人が村の家を一軒ずつまわり、家族の人数と職業を帳面に書き上げるイメージ(イラスト)

刀狩令から3年後の天正19年(1591)8月、秀吉はもう一つ、人びとの身分にかかわる三か条を出しました。教科書で「身分統制令」と呼ばれてきた法令です。武士は武士、百姓は百姓として、勝手に移ることを許さない。刀狩りで武器の線を引いた秀吉が、次に人の線を引こうとした法令と言えます。

『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」の時代から一歩先の話になりますが、刀狩りの意味は、この法令と並べるとよく見えてきます。この記事では、身分統制令の三か条と、翌年の人掃令(ひとばらいれい)をあわせて整理します。

この記事のポイント
  • 身分統制令は天正19年(1591)8月21日付の秀吉の朱印状で、三か条からなります
  • 奉公人が町人や百姓になること、百姓が田畑を捨てて商いや賃仕事に移ること、主人のもとを勝手に去った奉公人を召し抱えることを禁じました
  • 条文の「侍」は武士全体ではなく、武家に仕える若党などの奉公人を指すという見方が、いまでは有力です
  • 翌年ごろには全国で家数・人数を書き上げる人掃令が出され、朝鮮出兵の動員を支える仕組みになりました
役人が村の家を一軒ずつまわり、家族の人数と職業を帳面に書き上げるイメージ(イラスト)
役人が村の家を一軒ずつまわり、家族の人数と職業を帳面に書き上げるイメージ(イラスト)
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身分統制令の三か条

天正19年8月21日付の朱印状の中身を、わかりやすく言いかえると次のようになります。

条 中身
第一条 去年7月の奥州出兵より後に、奉公人(侍・中間・小者・あらし子)から町人や百姓になった者がいれば、町や村で調べて追い出すこと。隠した町や村は処罰する
第二条 百姓が田畑を捨てて商いや賃仕事に出ることを禁じる。奉公も耕作もしない者は町や村から追い出す。見逃した給人や代官も処罰する
第三条 もとの主人に断りなく去った奉公人を召し抱えてはならない。もとの主人に返し、逃がした場合は身代わりに処罰を受けさせる

三か条に共通するのは、「いまいる場所から動くな」ということです。奉公人は奉公人のまま、百姓は田畑に残ったまま。人の出入りを止めて、誰がどこで何をしているのかを固定しようとしています。

村で刀や鑓を差し出させる刀狩りのイメージ(イラスト)。刀狩令は、武器を持てる人を限る法令だった
村で刀や鑓を差し出させる刀狩りのイメージ(イラスト)。刀狩令は、武器を持てる人を限る法令だった

刀狩令とのつながり

天正16年の刀狩令は、百姓から刀や脇差を差し出させ、「百姓は農具を持って耕作に励め」と命じました。これは武器の面で、武士と百姓を分ける法令です。身分統制令はその続きで、人の移動の面から両者を分けようとしました。

年 法令 線を引いたもの
天正13年(1585)〜 惣無事令(停戦令) 大名どうしの戦
天正16年(1588) 刀狩令 百姓の武器
天正16年(1588) 海賊停止令 海の武力
天正19年(1591) 身分統制令 奉公人と百姓の行き来
天正19〜20年ごろ 人掃令 全国の家と人の数

戦国の世では、百姓が戦に出て手柄を立て、そのまま侍になることがありました。秀吉と秀長の兄弟がまさにそうです。刀狩令と身分統制令は、その梯子を外していく法令でした。この流れは太閤検地と刀狩とはでも書いています。

条文の「侍」とは誰のことか

▽ よく語られる話
身分統制令で武士・百姓・町人の身分が固定され、江戸時代の士農工商のもとになった。
▼ 史実ではこうです
条文に出てくる「侍」は、大名やその家臣全体ではなく、武家に仕える若党などの奉公人を指すという見方が、いまでは有力です。取り締まりの中心は、戦のたびに雇われては去っていく奉公人でした。士農工商という身分の序列も、いまでは教科書から外されています。

この読み方をとると、法令のねらいがはっきりします。秀吉が困っていたのは、戦があるときだけ奉公し、終わると村や町に戻ってしまう人びとでした。こうした人が動き回ると、大名は戦のときに必要な人数をそろえられず、村は耕す人を失って年貢が減ります。

なぜ天正19年8月だったのか

天正19年8月は、秀吉にとって大きな節目でした。8月5日に、わずか3歳の鶴松が亡くなっています。秀吉はその直後に、明への出兵、いわゆる唐入りを諸大名に告げ、肥前名護屋に城を築く準備に入りました。

大軍を海の向こうへ送るには、兵だけでなく、荷を運ぶ人夫や、留守のあいだに田を耕す百姓が要ります。奉公人が逃げても、百姓が村を離れても困る。身分統制令は、朝鮮出兵の準備の中で出された法令として読むのが自然です。出兵そのものについては朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説をどうぞ。

✎ 筆者の考え
身分統制令は「江戸時代の身分制度のはじまり」と紹介されることが多いのですが、条文を読むと、もっと差し迫った事情が見えてきます。大きな戦を控えて、人手を逃がしたくない。そういう、戦の準備のための法令という色が濃いと筆者は考えています。それが結果として、江戸時代の身分のかたちにつながっていったのでしょう。

人掃令とは|全国の家と人を数える

身分統制令に続いて、全国の村や町で、家の数と人の数を書き上げさせる命令が出されました。これが人掃令です。家ごとに、男女や年寄り・子どもの別、奉公人か町人か百姓かを書き出させました。

出された年は、天正19年とする説と天正20年(1592)とする説があります。天正20年とする場合は、前の年の暮れに関白になった豊臣秀次の名で出されたことになります。どちらにしても、朝鮮出兵で人夫を割り当てるための調べだったと考えられています。

八幡山城跡(近江八幡市)。秀次は関白になる前、ここを居城にしていた
八幡山城跡(近江八幡市)。秀次は関白になる前、ここを居城にしていた
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第43回「殿下の刀狩り」では、刀狩りに秀次が「かえって一揆を招く」と反対する場面があるようです。史実の秀次は、このあと関白となり、自分の名で全国の人を数える立場になります。刀狩りに反対する秀次と、人掃令を出す関白秀次。ドラマがこの二つをどうつなぐのかも見どころです。刀狩りと一揆の関係は刀狩りはかえって一揆を招いたのかで書いています。

兵農分離はこれで完成したのか

刀狩令と身分統制令、人掃令がそろったことで、武士と百姓を分ける兵農分離が進んだのは確かです。ただ、すぐに完成したわけではありません。村には獣よけの鉄砲が残り、江戸時代の初めまで、百姓が刀を差すこと自体は禁じられていませんでした。土佐の一領具足のように、半農半兵の暮らしが残った土地もあります。

✎ 筆者の考え
刀狩令、身分統制令、人掃令を並べると、秀吉が戦国の「流動性」を一つずつ止めていったことがわかります。武器を持つ人を限り、人の移動を止め、最後に全員を帳面に載せる。百姓から天下人にのぼった秀吉が、自分のような人間が二度と出ないように仕組みを整えていったのは、皮肉にも見えます。けれども、戦を終わらせるにはそれが近道だったのだろう、とも筆者は思います。

よくある質問

Q. 身分統制令はいつ出されましたか?
A. 天正19年(1591)8月21日付の秀吉の朱印状です。「身分法令」と呼ばれることもあります。

Q. 身分統制令で士農工商が決まったのですか?
A. そうとは言えません。条文の中心は奉公人と百姓の移動の禁止で、「侍」も若党などの奉公人を指すという見方が有力です。士農工商の序列そのものも、いまでは見直されています。

Q. 人掃令とは何ですか?
A. 全国の村や町で、家ごとの人数や身分を書き上げさせた調べです。朝鮮出兵の人夫の割り当てに使われたと考えられています。

Q. 刀狩令とはどう違いますか?
A. 刀狩令は百姓の武器を差し出させる法令で、身分統制令は人の移動を止める法令です。どちらも武士と百姓を分ける方向の政策です。

まとめ

身分統制令は、刀狩令から3年後、朝鮮出兵の準備のなかで出された三か条でした。奉公人と百姓が持ち場を離れないように縛り、続く人掃令で全国の家と人を帳面に載せました。江戸時代の身分の土台になったのは確かですが、出された当時は、大きな戦を前にした人手の確保という色が濃い法令です。第43回の刀狩りを見るときは、この3年後の続きも頭の片隅に置いておくと、秀吉の天下の仕組みがつながって見えてきます。

参考:高木昭作『日本近世国家史の研究』(岩波書店)、藤木久志『刀狩り 武器を封印した民衆』(岩波新書)、『日本大百科全書』「刀狩」

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