豊臣兄弟!第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実|秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか

郡山城の石垣の上から城下と奈良盆地を見渡す秀長の後ろ姿のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 天正十三年(一五八五)、秀吉が関白になった年に、秀長は大和・紀伊・和泉の三か国、百万石余りを与えられた
  • 秀長が入った郡山城は、もともと筒井順慶が築いた城。筒井家は伊賀へ移された
  • 大和は興福寺など寺社の力が強い国。秀長は武装解除と指出で寺社の領地を大きく削った
  • 奈良の商人を郡山に集め、寺の石まで使って城と城下町をつくり上げた
▷ 大河ドラマではこう描かれました

第三十七回「秀長の国」では、まず四国攻めと北陸攻めの論功行賞が描かれました。筒井定次が伊賀へ移され、蜂須賀小六は阿波一国を辞退して息子の家政に譲り、隠居を願い出ます。秀長には大和に紀伊・和泉を加えた三か国が与えられました。

大和に入った秀長を待っていたのは、年貢が寺のもとへ直接集まってしまう仕組みでした。春日大社と一体の興福寺が国の実権を握っており、交渉役を務めた家臣の小堀正次は賊に襲われます。その賊を高虎が取り押さえたことで、仏罰と恐れられていたものの正体が、寺側の仕組んだ人の手による脅しだったと明らかになりました。

城づくりの場面では、大和に石がないという難題に対し、秀長が寺の石仏や石塔まで石垣に積む決断をします。娘の末が運んだ握り飯がまずかったのは、村が苗を詰めて植えるほど無理な年貢を課されていたためで、戦国の米そのものが痩せていたからでした。終盤で秀長は検地を実行し、年貢高を改めたうえで、国主として興福寺へ寄進する形に切り替えます。関白となった秀吉からは手紙と祇園社の札が届き、「和をもって、大和をなす」という言葉で回を閉じました。

郡山城跡の堀に映る石垣と紅葉

郡山城跡の堀。水際から立ち上がる石垣が水面に映ります。

目次

この回の舞台で実際に起きたこと

天正十三年(一五八五)の七月、羽柴秀吉は関白に任じられました。その直後に四国攻めが片づくと、秀吉は領地の大きな組み替えを行います。弟の秀長には、大和・紀伊・和泉の三か国、あわせて百万石余りが与えられました。それまで大和を治めていた筒井定次(順慶の養子)は伊賀へ移され、秀長は閏八月、大和の郡山城に入ります。

ここから秀長は、天正十九年(一五九一)正月に亡くなるまでのおよそ六年、郡山を本拠に大和を治めました。この間に秀長は権大納言にのぼり、「大和大納言」と呼ばれるようになります。秀吉がなぜ関白の道を選んだのかは秀吉はなぜ関白になったのか、関白という地位そのものは関白とはで書いています。

補助線①:なぜ秀長に大和だったのか

大和は京都と大坂のすぐ南にあり、豊臣政権の足もとを固めるうえで欠かせない国でした。しかも、興福寺をはじめとする寺社の力が強く、並の大名では治めきれません。秀吉がこの国を、もっとも信頼できる弟に任せたのには理由がありました。紀伊と和泉もあわせて任されたことで、秀長は畿内の南半分をまとめて押さえる立場になります。この点はなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで詳しく書いています。

補助線②:郡山城は、もともと誰の城だったのか

郡山城を最初に本格的な城にしたのは、筒井順慶です。天正八年(一五八〇)、順慶はそれまでの本拠だった筒井城から郡山へ移り、壊された多聞山城の石を運んで城を築きはじめました。明智光秀が工事の見回りに来たとも伝わります。秀長はこの城に入ると、百万石の主にふさわしい城へと大がかりに造り替えました。石の少ない大和で石垣を積むために、寺の礎石や石地蔵まで集めたことはよく知られています。筒井家の城は筒井城跡、秀長の郡山城は大和郡山城で書いています。

▶ 60秒でわかる動画

地蔵を逆さに積んだ城|秀長の百万石・大和郡山城

秀長が入る前の大和の歩みは「大和の戦国時代とは」で、守護のいない国から秀長の国になるまでをまとめています。

石垣の上に建つ郡山城跡の復元櫓と多聞櫓

郡山城跡に復元された櫓と多聞櫓(撮影:佐藤秀信)

郡山城跡に復元された櫓と多門

堀端から見た郡山城跡の復元建物。横に長く延びる多門と櫓は、後年に復元されたものです。

補助線③:寺社の国をどう治めたのか

大和では、長く興福寺が実質的な支配者として振る舞い、国内の武士の多くは寺社に属する「衆徒」や「国民」でした。秀長は入国してすぐ、武装していた多武峰に武器を差し出させ、寺社や村々に持っている土地と年貢を書き出させます。これを「指出」といい、興福寺の領地はこの結果、入国前のおよそ五分の一にまで減らされました。寺社の力の源を一つずつ断っていくやり方です。詳しくは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか、寺に属した武士の姿は衆徒とは何者かで書いています。

補助線④:検地と「仏罰」

寺社の領地に手を入れることは、当時の人びとにとって、ただの税の話ではありませんでした。寺社の土地は神仏のものであり、それを削れば罰が当たると信じられていたからです。寺社の側も、そうした信仰を背景に年貢を取り立て、人びとを従わせてきました。秀長の検地は、この信仰と結びついた支配の仕組みそのものに踏みこむものでした。検地が全国でどんな意味を持ったのかは太閤検地と刀狩とは、寺の側がこの時代をどう見ていたかは多聞院日記とはで紹介しています。

▽ よく語られる話
秀長は温厚な人柄で、寺社や領民と争うことなく大和を治めました。
▼ 史実ではこうです
秀長が調整役として知られるのは確かですが、大和で寺社に対してとった手段は厳しいものでした。武装解除、領地の申告と大幅な削減、従わない在地の武士の追放と、寺社の既得権をはっきり削っています。その一方で、寺社が農民に無理な労役を課すことを禁じる掟も出していました。
▶ 第37回の登場人物

石川清兵衛とは:伊藤健太郎が演じる大和郡山の庄屋は実在? 村はなぜ寺に年貢を納めたのか
大和では寺が領主だった。仏罰を恐れて多すぎる年貢を払い続けた理由です。

末(すえ)のモデルは誰? 池端杏慈が演じる秀長の娘は、誰に嫁ぎどうなったのか
史実の秀長には娘が少なくとも二人。秀保と毛利秀元に嫁いだ娘たちの生涯です。

才蔵とは:間宮祥太朗が演じる筆屋は実在? 奈良筆と、秀長が商人を郡山へ移した城下町
奈良の商売を禁じ、商人を郡山に集めた秀長の城下町づくりです。

盤覚とは:坂口涼太郎が演じる興福寺の坊官は実在? 一乗院と、秀長に会いに来た寺の使者
剃髪しても妻帯・帯刀できた坊官と、大和の三分の二を領した一乗院。

島左近は秀長の家臣だったのか:「新たな家臣」候補、筒井家を去った大和の武将
秀長・秀保に仕えたという説は本当か。石田三成に仕えるまでをたどります。

横浜一庵とは:秀長の家中で最高の五万石、興福寺との取次を担った家老
寺社との交渉役。最期は伏見の大地震でした。

小堀正次とは:秀長と同い年の検地奉行、小堀遠州の父
大和の田を実際に測った検地の専門家です。

羽田正親とは:秀長の三家老、秀次事件で殉死した重臣
小泉城主から宇陀松山へ。主家の断絶に翻弄された家臣です。

奈良の町と郡山の町

秀長は入国した年の十月、奈良の町での商売を禁じ、商人や職人を郡山へ移しました。興福寺の門前町として栄えてきた奈良ではなく、城下の郡山に経済の中心を置くためです。郡山の町には、町ごとに特定の商売を許す「箱本」という仕組みが整えられ、城下町は短い期間で大きく育ちました。いまの大和郡山の町並みの骨格は、このときにできています。甥の秀次が近江八幡で同じように商人を集めた話は八幡山城で書いています。

次回以降に効いてくること

大和での秀長は、寺社の力を削ぎ、城と城下町をつくり、豊臣政権の足もとを固めました。しかし秀長に残された時間は長くありません。郡山に入ってから六年足らずで病に倒れ、天正十九年の正月に亡くなります。同じ年には千利休が切腹し、秀吉の跡継ぎだった鶴松も幼くして亡くなりました。秀長を失った豊臣家がどう変わっていったのかは天正十九年に何が起きたのか、秀長を支えた家臣たちとその後は豊臣秀長の家臣団とはで書いています。

現地はいま

大和郡山城跡は近鉄郡山駅から歩いてすぐで、堀と石垣、復元された追手門や櫓を見ることができます。石垣のなかには、逆さに積まれた地蔵が残っています。城の近くには、秀長ゆかりと伝わる源九郎稲荷神社もあります。奈良の町の興福寺とあわせて歩けば、寺の町と城の町、二つの中心を比べることができます。郡山城の見どころは大和郡山城をご覧ください。

郡山城跡の野面積みの石垣と石段

郡山城跡の石垣と石段。形のそろわない石をかき集めて積み上げた野面積みです。

よくある疑問

Q. 郡山城は秀長が築いたのですか?
もとは筒井順慶が築いた城で、秀長はそれを大規模に造り替えました。いま見られる城跡の多くは、その後に入った柳沢家の時代に整えられたものです。

Q. 秀長の石高はどれくらいでしたか?
大和・紀伊・和泉の三か国をあわせて百万石余りとされます。豊臣一門のなかでも最大級の領地でした。

Q. 「大和大納言」とはどういう意味ですか?
秀長が朝廷から権大納言の官位を与えられ、大和を本拠にしていたことからついた呼び名です。秀長その人については豊臣秀長とはで書いています。

秀長が城と同時につくった城下町の仕組みについては箱本十三町とは:秀長が郡山につくった自治のまちにまとめています。

秀長の支城となった山城については高取城跡:日本三大山城のひとつ、標高583メートルの総石垣にまとめています。

年貢を納める村の側がどういう組織だったのかは惣村とは:戦国の村がつくった自治と、乙名・村掟・自検断・地下請の仕組みにまとめています。

まとめ

第37回の舞台となる大和は、寺社が数百年にわたって力をふるってきた国でした。秀長はそこに郡山城という武家の拠点を打ち立て、武器を取り上げ、土地を調べ、商人を城下に集めて、わずか数年で寺社の国を武家の国へと作り替えます。そのやり方は、秀吉が全国で進める検地と刀狩の先駆けでもありました。前回の四国攻めについては第36回「姫若子と鬼若子」史実解説をどうぞ。

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郡山城の普請を、藤堂高虎が担当したのか

劇中で、郡山城の普請を任されるのは藤堂高虎です。人足を集め、材木を手配する。のちに築城の名手と呼ばれる男の出発点として、よくできた見せ方だと思います。

▽ よく語られる話
郡山城は藤堂高虎が普請した。
▼ 史実ではこうです
高虎が秀長の家臣として大和にいたのは事実です。ただし、郡山城の普請を高虎が担当したと明記する確かな記録は見当たりません。奈良県側の案内にも、その記述はありません。高虎の築城として確実なのは、秀長が紀伊を得たあとの和歌山城です。劇中の描き方は、のちの高虎の姿から逆算した演出と見ておくのが安全でしょう。

ただ、普請の実務そのものは間違いなく行われました。人足を集め、材木を運び、石を積む。大坂城でも秀長がやっていたのは、まさにこの仕事です。郡山城の石垣に石仏や五輪塔まで積み込まれているのは、石が足りなかったことの何よりの証拠でした。いまも残る逆さ地蔵は、その現場の痕跡です。

米がまずい、という一本の線

この回には、米をめぐる問題が段階を追って並んでいます。整理すると、ばらばらに見えた場面が一本につながります。

城の蔵の米はうまくない。年貢米は食べるためではなく蓄えるための米で、数年寝かせた古米になるのが前提です。これは大和に限った話ではありません。

では村の米ならうまいのか。搗きたてという点ではそのとおりです。しかしその村の田も、よく見れば育ちが悪い。苗を詰めて植えているからです。株を増やしても肥料が足りなければ、一株ごとが痩せます。

なぜ詰めるのか。納める量が先に決まっているからです。寺領の年貢は寺が直接集めており、その割り当てが 村の実力に見合っているかを確かめる仕組みがありませんでした。無理な作付けは、その圧の表れです。

だから検地をする。田を一枚ずつ測り、等級をつけ、穫れるはずの量を出す。太閤検地の目的は年貢を増やすことではなく、無理のない量を決めることでした。秀長が大和で最初に手をつけたのが、ここです。

料理が下手だから飯がまずい、という話ではありません。蔵の米が古く、村の米は痩せ、その原因が年貢の重さにある。一杯の飯の味に、石垣に地蔵を積まねばならなかった国の事情がそのまま出ています。

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