狩野永徳(かのう えいとく)は、室町から続く絵師の家に生まれ、信長の安土城、秀吉の大坂城と聚楽第の障壁画を引き受けた絵師です。天下人の建物の絵は、ほとんどこの人と一門が描きました。そして四十八歳のとき、東福寺の天井に龍を描いている最中に倒れ、そのまま亡くなります。第38回「和を以て、大和をなす」で、片岡鶴太郎が演じます。
- 狩野永徳はどんな家に生まれ、なぜ天下人の仕事を引き受けられたのか
- 安土城・大坂城・聚楽第で何を描いたのか
- 大和郡山城の襖絵を描いたという記録はあるのか
- 長谷川等伯との一件と、その一か月後に訪れた死
狩野永徳とはどんな人か
天文十二年、京の絵師の家に生まれました。祖父は狩野元信、父は狩野松栄。幼名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)といいます。狩野家は室町幕府の御用絵師をつとめてきた家で、永徳はその四代目にあたります。
絵師というと一人で描くものと思いがちですが、狩野派はそうではありません。城や御殿の襖や壁を何十面も一度に仕上げるには、下絵を引く者、金箔を置く者、彩色する者と、工房で分担する必要がありました。永徳の強みは、絵そのものの腕に加えて、この大きな工房を動かせたことにあります。だからこそ安土城のような、前例のない量の仕事を引き受けられました。
狩野派とはどんな集団だったのか
狩野派は、永徳ひとりの名前ではなく、家として続いた絵師の集団です。室町幕府に仕えた狩野正信にはじまり、元信のときに大きな工房のかたちが整いました。血縁の者と弟子が同じ筆法を学び、同じ下絵で分担して描くので、注文の規模がどれだけ大きくなっても仕上げられます。
戦国の城や御殿は、襖と壁の面積がそのまま権威の大きさでした。何十面という単位で一気に納められる相手は限られており、天下人が頼む先はおのずと狩野派になります。安土城も二条城も、この構造の上に成り立っていました。

金地の大襖を寝かせ、絵師と弟子が分担して描く(イメージ・イラスト)。狩野派はこの体制で、城や御殿の何十面という仕事を引き受けた
信長の安土城を描いた
天正四年から七年にかけて、永徳は安土城の障壁画を手がけます。五層の天主の内部を、階ごとに主題を変えて埋めていく仕事でした。この建物は本能寺のあとに焼けてしまい、絵は一枚も残っていません。
もうひとつ、信長との関わりで知られるのが『洛中洛外図屏風』です。京の町をまるごと俯瞰した屏風で、信長が上杉謙信に贈ったと伝えられます。いま米沢の上杉博物館にある上杉本がそれで、国宝に指定されています。

安土城跡に残る高石垣。天主を埋めていた永徳の絵は、一枚も残っていない
安土城には何が描かれていたのか
絵は残っていませんが、何を描いたかはわかります。『信長公記』が天主の内部を階ごとに書き留めているからです。花鳥、竹に雀、鵞鳥といった身近な題材から、唐の儒者、賢人、三皇五帝、釈迦十大弟子まで、階を上がるにつれて主題が中国と仏の世界へ移っていきます。
下から順に見上げていくと、世俗から聖なるものへ、そして天下人の座へとつながる仕掛けになっていたわけです。安土城という建物そのものが主張だったとすれば、永徳の絵はその主張を読ませるための文章にあたります。
秀吉の大坂城と聚楽第を描いた
信長が死んだあと、永徳の客は秀吉に移ります。天正十一年に大坂城、天正十四年に聚楽第、天正十七年には内裏の障壁画を引き受けました。天下人が建物を建てるたび、その中身を描くのは永徳だったわけです。
同じころ、豊臣秀長は大和・和泉・紀伊を預かり、郡山に自分の城と城下町をつくっていました。兄が京と大坂で絢爛な建物を建てているあいだ、弟は国を測り、商人を呼び、田から積み上げる仕事をしていたことになります。
郡山城の襖を描いたという記録はあるのか
ここは正直に書きます。永徳が大和郡山城の障壁画を描いた、という確かな記録は見当たりません。永徳の仕事として史料に残るのは、安土城、大坂城、聚楽第、内裏、八条宮家といった、信長と秀吉と朝廷まわりの建物です。
秀長が郡山でしていたのは、むしろ人を集めることでした。奈良から筆屋をはじめとする商人や職人を移し、箱本十三町という自治のしくみを与えています。談山神社の社殿を郡山へ移させようとしたのも同じ発想で、町に格を持たせるための手でした。絵師を呼んだとしても、その流れの中の話になります。
大画と細画 ── 二つの筆を持っていた
永徳といえば、金地に太い輪郭線で大きく描く「大画」の印象が強い絵師です。『唐獅子図屏風』がその代表で、毛利家に伝わり、のちに皇室へ献上されました。国宝の『檜図屏風』も、画面いっぱいに老木がうねる一枚です。
ただ、永徳は細かい絵も描けました。上杉本『洛中洛外図屏風』には、京の町の人物が二千人を超えて描き込まれています。大きく描く力と、細かく描く力の両方を持っていたことが、この人を特別にしました。のちに二条城の障壁画を描く狩野派の様式は、永徳が固めたものです。
- 上杉本『洛中洛外図屏風』(国宝)── 米沢・上杉博物館
- 『檜図屏風』(国宝)── 東京国立博物館
- 『唐獅子図屏風』── 皇室
- 聚光院障壁画(花鳥図・琴棋書画図)── 京都国立博物館に寄託
- 『許由巣父図』(重要文化財)── 東京国立博物館
長谷川等伯との一件
天正十八年の夏、事件が起きます。能登から出てきた絵師・長谷川等伯が、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所の対屋の障壁画を引き受けようとしました。これを知った永徳は、子の光信とともに公家の勧修寺晴豊に申し出て、話を取り消させます。晴豊の日記『晴豊公記』の天正十八年八月八日と十三日の条に残る出来事です。
工房ぐるみで仕事を抱えている以上、大きな注文をひとつ取られることは死活問題でした。名古屋城のような後世の城にも狩野派の絵が入っているのは、この時期に一門が仕事の流れを握りきったからです。等伯はのちに『松林図屏風』を残し、永徳と並ぶ名として語られるようになります。
四十八歳の死
等伯の一件からひと月ほどのち、天正十八年九月十四日に永徳は亡くなります。東福寺法堂の天井に龍を描いている最中に病に倒れ、そのまま起てませんでした。働きづめの末の死だったとみる説が有力です。墓は京都の妙覚寺にあります。
四十八歳でした。その四か月あまりあとの天正十九年正月、豊臣秀長も郡山城で世を去ります。天下人の時代を内側から支えた人たちが、相次いで舞台を降りていく時期にあたります。
永徳のあと ── 光信から探幽へ
永徳が急に没したあと、狩野派を継いだのは子の光信でした。父のような豪快な大画ではなく、やわらかく細やかな画風で知られます。一門は秀吉のあとも仕事を切らさず、徳川の世に入っていきました。
その流れを決定づけたのが、永徳の孫にあたる狩野探幽です。二条城の二の丸御殿や名古屋城本丸御殿の障壁画は探幽とその一門の仕事で、いまも実物を見ることができます。永徳の絵がほとんど焼けてしまった一方で、孫の代の絵が残っているという逆転が起きています。
いま、永徳の絵を見られる場所
安土城も聚楽第も残っていないため、永徳の仕事の大半は失われました。それでも屏風や障壁画の形で、いくつかは手に取るように見ることができます。米沢の上杉博物館、東京国立博物館、京都国立博物館が主な行き先です。
『豊臣兄弟!』にあわせた特別展「豊臣兄弟!」のような企画展でも、この時代の絵が出ることがあります。会期と出品目録は事前に確認しておくと確実です。
まとめ
- 狩野永徳は狩野元信の孫、松栄の子。狩野派四代目
- 安土城(天正四〜七年)、大坂城(天正十一年)、聚楽第(天正十四年)、内裏(天正十七年)を描いた
- 大和郡山城の障壁画を永徳が描いたという確かな記録はない
- 天正十八年八月、長谷川等伯の仙洞御所の仕事を取り消させた(『晴豊公記』)
- 同年九月十四日、東福寺法堂の天井画を描く途中に没。四十八歳
第38回「和を以て、大和をなす」では、絵師・狩野永徳を片岡鶴太郎が、筆屋の主人・才蔵を間宮祥太朗が演じます。才蔵と奈良筆の記事、箱本十三町の記事とあわせてどうぞ。

