もし豊臣秀長があと十年生きていたら:朝鮮出兵・秀次事件・関ヶ原はどう変わったのか

夕暮れの城の縁側で語り合う豊臣兄弟の後ろ姿 イメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

もし豊臣秀長があと十年生きていたら、豊臣政権は続いていたのか。結論からいえば、朝鮮出兵そのものを止められたかは疑わしいものの、秀次事件のような身内の粛清は避けられ、秀吉の死後も大坂の背後に百万石の一門が控えることで、家康が天下を握るまでの道のりはずっと険しくなった可能性があります。この記事では、史実として確かめられることを土台に、その「たられば」を考えます。

この記事のポイント
  • 秀長は天正十九年正月に亡くなりました。その年のうちに利休の切腹、鶴松の死が続き、翌年に朝鮮出兵が始まります
  • 朝鮮出兵の構想は秀長の生前からあり、秀長ひとりで止められたとは言い切れません。ただ、規模や進め方は変わった可能性があります
  • 秀頼が生まれたあと、秀吉は秀頼と秀次の娘を婚約させる案を出していました。秀長がいれば、秀次が関白を返して秀頼の後見に回る形で折り合う道もありえました
  • あと十年なら秀長は秀吉より長く生き、関ヶ原の年にも存命だったことになります
  • ここに書く「もしも」は史実ではなく、史実をもとにした想像です
目次

秀長が亡くなった年に、何が起きたのか

秀長が郡山城で亡くなったのは、天正十九年(一五九一)正月二十二日、五十二歳のときでした。この年、豊臣家には立て続けに大きなことが起こります。

  • 正月:秀長が亡くなる
  • 二月:千利休が切腹を命じられる
  • 八月:秀吉の子・鶴松が三歳で亡くなる
  • 十二月:甥の秀次が関白となる
  • 翌年四月:朝鮮出兵が始まる

九州の大友宗麟は、秀長から「内々のことは宗易(利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」と言われたと書き残しています。政権の表と裏を支えた二人が、ひと月のうちにそろっていなくなったのです。秀長の人物像は豊臣秀長とはで、鶴松の死がもたらしたものは豊臣鶴松はなぜ三歳で死んだのかで書いています。

もしも① 朝鮮出兵は止められたのか

▽ よく語られる話
秀長が生きていれば、兄をいさめて朝鮮出兵は起きなかったはずです。
▼ 史実ではこうです
秀吉が「唐入り」、つまり大陸へ攻め入る考えを口にし始めたのは、秀長がまだ元気だったころからです。秀長が出兵に反対したことを示す確かな記録も見当たりません。秀長が生きていても、出兵そのものを止められたとは言い切れないのが実際のところです。

それでも、進め方は変わったかもしれません。秀長は四国攻めで十万の軍を海の向こうへ渡した経験を持ち、紀伊・熊野の材木と船を押さえていました。兵を送るだけでなく、兵糧や船をどう回すかを知る人間が政権の中枢に残っていれば、無理な長期戦を避け、早めに兵を引く判断ができた可能性はあります。出兵の実際は朝鮮出兵をわかりやすく解説で、秀長のもとで育った船の軍勢は豊臣水軍とはで書いています。

もしも② 国内をまとめる役を続けていたら

秀長が担っていたのは、戦よりもむしろ大名どうしの取りなしでした。天正十四年に徳川家康が大坂へ上ったとき、家康が泊まったのは秀長の屋敷で、その夜に秀吉が自らたずねてきたと伝わります。敵だった大名を政権に迎え入れる場を、秀長がととのえていたのです。

秀長が亡くなったあと、政権の取りなし役は石田三成ら奉行たちに移っていきます。奉行は秀吉の命令を正確に伝える役目には向いていましたが、大大名と対等に話し、ときに兄の考えを押しとどめる立場にはありませんでした。秀長が残っていれば、大名たちの不満を早いうちに吸い上げ、豊臣政権の中で武断派と奉行衆が割れていくのを和らげられたかもしれません。三成については石田三成で書いています。

もしも③ 秀次と秀頼を取り持っていたら

文禄二年(一五九三)八月、秀吉に待望の男子・秀頼が生まれます。すでに関白の座にあった甥の秀次にとっては、自分の立場を揺るがす出来事でした。

それでも、秀吉がはじめから秀次を消そうとしていたわけではありません。秀次の家臣が書いた『駒井日記』によれば、秀吉は日本を五つに分けて四つを秀次に、一つを秀頼に与えると語り、秀頼と秀次の娘を婚約させる案まで出していました。叔父と甥が折り合う道は、たしかに探られていたのです。

ここに秀長がいたらどうなったでしょうか。秀長は秀吉の弟であり、秀次から見れば叔父で、秀頼から見れば大叔父です。たとえば秀長の助言で、秀次が秀吉の目の前で関白を返上し、秀頼が成人するまでの後見役に回るという形をとれば、秀次は面目を保ったまま身を守ることができます。秀吉も、わが子に跡を継がせる道を手にできます。両方の顔を立てる落としどころを探すのは、まさに秀長が得意としてきた仕事でした。

実際には、秀長のいない政権で秀次は孤立し、文禄四年(一五九五)七月、高野山で切腹に追い込まれました。妻子三十九人も処刑され、豊臣家の一門はここで大きく削られます。その経緯は秀次事件をわかりやすく解説秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのかで、秀次がどんな道を歩んだかは三好信吉(豊臣秀次)とはで書いています。

もしも④ 秀吉の死後、関ヶ原はどうなったか

秀長は秀吉より三つ年下とされます。あと十年生きていれば、慶長三年(一五九八)に秀吉が亡くなったときも、慶長五年の関ヶ原の戦いのときも、秀長はまだこの世にいたことになります。

史実の秀吉の死後、天下が家康に傾いていったのは、豊臣家の側に家康と肩を並べる重みのある一門がいなかったからでもあります。幼い秀頼を支えたのは五大老と五奉行でしたが、大老の筆頭は家康自身で、奉行たちは石高で家康に遠く及びませんでした。そのあたりは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書いています。

ここに、大和・紀伊・和泉の百万石を持ち、大坂のすぐ背後に控える秀吉の弟がいたとしたらどうでしょう。家康にとって秀長は、上洛のときに屋敷に迎えてくれた相手でもあり、正面から敵に回しにくい存在です。豊臣家の中の対立も、秀長が間に入ればここまで割れなかったかもしれません。関ヶ原の戦いそのものが起きなかった、あるいは起きても形がまったく違っていた可能性は十分にあります。

それでも変わらなかったかもしれないこと

ただし、秀長が生きていればすべてうまくいった、とは言えません。見落とせない点がいくつかあります。

ひとつは、秀吉が弟にも容赦しなかったことです。天正十六年、秀長の家臣吉川平介が熊野の材木の代金を着服して処刑されると、秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌年の正月には秀吉への拝謁を許されませんでした。秀吉は、弟であっても政権の示しがつかないことは許さなかったのです。秀長の助言がいつも通ったとは限りません。秀吉がどこまで身内を罰したかは秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで考えています。

もうひとつは、跡継ぎの問題です。秀長には家を継ぐ男子がおらず、甥の秀保を婿に迎えていました。秀長自身が長生きしても、秀長のあとを誰が継ぐのかという弱さは残ります。秀長の家がどうなったのかは豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで書いています。

そして何より、秀長は亡くなる一年ほど前から病がちで、郡山城で療養を続けていました。あと十年という仮定そのものが、当時の秀長の体にとっては簡単なことではなかったのです。

まとめ

秀長があと十年生きていても、朝鮮出兵は起きていたかもしれません。けれども、秀次と秀頼のあいだを取り持ち、秀次事件のような一門の粛清を防ぎ、秀吉の死後には大坂の背後で家康ににらみをきかせる役を果たせた可能性はあります。秀長の死は一人の武将の死ではなく、豊臣政権から「兄を止められる人」と「身内をつなぐ人」を同時に失わせた出来事でした。秀長の生涯は豊臣秀長とはで、秀長が治めた国は秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかでご覧ください。

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