本多利久(ほんだ・としひさ)と宇多頼忠(うだ・よりただ)は、秀長が大和に入ったあと、城と領地を預かった家臣です。本多利久は大和の山城・高取城の城主となり、秀長の命で城を大きく改修しました。宇多頼忠は尾藤知宣の弟で、兄の失脚後に秀長の配慮で名を改め、家老として藤堂高虎に次ぐ地位にあったとされます。娘の一人は石田三成の妻になりました。二人とも、『豊臣兄弟!』ではいまのところ配役の発表がありません。
- 本多利久は、もとは水野半右衛門と名のり、尾張の織田信安から秀吉、秀長へと仕えた
- 天正十三年(1585)に高取城主となり、天正十七年(1589)には秀長の命で城を改修した
- 宇多頼忠は尾藤知宣の弟。兄の失脚後、秀長の配慮で妻の姓「宇多」を名のったと伝わる
- 頼忠は秀長の家中で、藤堂高虎に次ぐ地位の家老だったとされる
- 頼忠の娘は石田三成に嫁ぎ、頼忠は関ヶ原の戦いのとき佐和山城を守った
秀長の城を預かった二人
天正十三年(1585)、秀長は大和・紀伊・和泉の百万石を与えられ、大和郡山城に入りました。大和は寺社の力が強く、国の中にいくつもの城と拠点がありました。秀長はそれぞれの城に信頼できる家臣を置き、国を固めていきます。羽田正親の宇陀松山城、そして本多利久の高取城がその代表です。秀長の家臣団の全体は豊臣秀長の家臣団とはで紹介しています。
本多利久とは:水野半右衛門から高取城主へ
本多利久は、もとは水野半右衛門と名のり、尾張の岩倉城主・織田信安に仕えていました。のちに羽柴秀吉に仕え、さらに秀長の家臣となります。天正七年(1579)の三木城攻めでは戦功を挙げました。
天正十三年(1585)、秀長が大和に入ると、利久は脇坂安治に代わって高取城の城主となりました。高取城は大和の南、吉野への入口を押さえる高い山の上の城です。秀長の命で天正十七年(1589)に大規模な改修が行われ、軍学者の諸木大膳が普請の中心となって、近世の城へと生まれ変わりました。いまも山の上に高い石垣が残り、日本を代表する山城のひとつに数えられています。秀長の城づくりを支えた藤堂高虎の仕事とあわせて見ると、秀長が大和の守りをどう固めたかがよくわかります。
秀長の死後の本多家
秀長が亡くなったあとも、利久は秀保に仕え、文禄三年(1594)には伏見城の普請を分担しました。文禄四年(1595)に秀保が亡くなって大和豊臣家が絶えたあとも、所領はそのまま秀吉の家臣として安堵されています。嫡男の俊政にはすでに一万石が分けられており、本多家はのちの高取藩へとつながっていきます。大和豊臣家の終わりは豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで扱っています。
宇多頼忠とは:尾藤知宣の弟
宇多頼忠は、もとは尾藤頼忠と名のっていました。信濃の武士の家の出で、一族は武田信玄に敗れた小笠原家とともに信濃を離れています。天正六年(1578)ごろ、秀吉に仕えていた兄の尾藤知宣を頼って近江の長浜城に行き、秀長の配下となりました。
天正十三年(1585)に秀長が大和郡山城に入ると、頼忠は家臣団のなかで、藤堂高虎に次ぐ地位の家老を占めたとされます。長浜のころから秀長に仕えてきた、古くからの側近の一人でした。
秀長が守った「宇多」の名
天正十五年(1587)、兄の尾藤知宣は九州攻めの根白坂での判断をとがめられ、秀吉に領地を没収されました。このとき頼忠は、秀長の配慮で妻の姓をとって「宇多」と名を改めたといいます。兄の罪が弟に及ばないよう、秀長が手を打ったとみられる話です。秀吉の処罰がしばしば一族に及んだことは秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで扱っています。
石田三成の舅として ── 佐和山城の最期
文禄四年(1595)に秀保が亡くなると、頼忠は秀吉の直臣となり、大和と河内で一万三千石を知行しました。娘婿の石田三成との結びつきは、ここから重みを増していきます。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、頼忠は三成の居城・佐和山城にいて、三成の父や兄とともに城を守っていました。関ヶ原で西軍が敗れると佐和山城も攻められ、頼忠は落城とともに世を去りました。長浜で秀長に仕えた男は、秀長の死から九年後、近江の城で最期を迎えたことになります。
二人を並べてみると
| 本多利久 | 宇多頼忠 | |
|---|---|---|
| もとの名 | 水野半右衛門 | 尾藤頼忠 |
| 秀長に仕えた経緯 | 織田信安、秀吉を経て秀長へ | 兄の尾藤知宣を頼り、長浜で秀長の配下に |
| 大和での役割 | 高取城主。城を改修して南の守りを固めた | 家老として藤堂高虎に次ぐ地位 |
| 秀長の死後 | 秀保、のち秀吉に仕え所領を安堵 | 秀吉の直臣。一万三千石 |
| その後 | 子の俊政が高取藩へつながる | 石田三成の舅として佐和山城で最期 |
一人は城を守って家を残し、もう一人は娘婿との縁のなかで関ヶ原に巻き込まれました。秀長の家臣たちの行き先は、秀長の死とともに大きく分かれていきます。三家老たちのその後は秀長の三家老とはで比べています。
『豊臣兄弟!』に二人は登場するのか
いまのところ、本多利久・宇多頼忠の配役は発表されていません。ただ、宇多頼忠は長浜のころから秀長に仕えた古い側近で、大和では藤堂高虎に次ぐ家老でした。秀長の家中が描かれる大和郡山編で、高虎とともに秀長を支える顔ぶれとして出てきてもおかしくない人物です。兄の尾藤知宣が九州攻めで失脚する場面が描かれれば、秀長が弟の頼忠をかばう場面も見られるかもしれません。大和郡山編のここまでの史実は第38回「和を以て、大和をなす」で解説しています。
- 本多利久:大和の城を預かる武将として、高取城の改修の場面で
- 宇多頼忠:秀長の古くからの側近として、郡山城の家臣たちの中に
- 宇多頼忠:兄・尾藤知宣の失脚で、秀長に名を改めるよう言われる場面で
ドラマではこう描かれています
ドラマのこの時期の放送回は、豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説(三木城攻め)で史実を解説しています。
まとめ
本多利久は高取城を預かって大和の南を固め、家を後の世につなぎました。宇多頼忠は長浜以来の側近として秀長を支え、兄の失脚を秀長の配慮で乗り越えましたが、石田三成の舅として関ヶ原の戦いのなかで最期を迎えました。二人の歩みからは、秀長が城と人をどう配置し、家臣をどう守ろうとしたかが見えてきます。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。
参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館

