豊臣兄弟!第36回「姫若子と鬼若子」史実解説|四国攻めはなぜ二か月で終わったのか

この記事のポイント
  • 天正十三年(一五八五)の四国攻めは、六月に始まり八月には決着している
  • 総大将は羽柴秀長。秀吉自身は海を渡っていない
  • 軍は阿波・讃岐・伊予の三方面から入り、総勢は十万前後と伝わる
  • 長宗我部元親は降伏し、土佐一国のみを安堵された
  • 「姫若子」「鬼若子」は、この戦いより二十五年前の初陣にまつわる呼び名

一宮城に残る石垣

阿波の一宮城に残る石垣。四国攻めで秀長軍に囲まれた城で、青みを帯びた石が積まれている。

目次

この回で実際に起きたこと

天正十三年(一五八五)の夏、羽柴秀吉は四国へ軍を出しました。前年まで、長宗我部元親は四国のほぼ全域を勢力下に置いています。秀吉は元親に対し、土佐と伊予の二国のみを認めるという条件を示しましたが、元親はこれを受け入れませんでした。

出陣は六月。軍は阿波・讃岐・伊予の三方面から渡り、阿波では海ぞいの城から順に落としていきます。八月に入って元親は降伏し、土佐一国のみを安堵されました。戦いが始まってから決着まで、二か月ほどです。

同じ年の七月、秀吉は関白に任じられています。四国攻めは、秀吉が関白という肩書きを得た直後の戦いでもありました。

補助線①:なぜ秀吉自身は海を渡らなかったのか

この戦いで、秀吉は大坂を離れていません。総大将を任されたのは弟の秀長でした。十万という大軍の指揮を、身内に丸ごと預けたことになります。

理由として伝えられるのは、秀吉が病を得ていたということです。ただし、それだけで説明しきれるものでもありません。紀州も越中もこの年に片づけており、天下の仕置きを進める立場としては、大坂を空けにくい事情もありました。秀長が総大将に選ばれた理由については、別の記事でくわしく取りあげています。

補助線②:十万はどこから入ったのか

軍は三つに分かれました。阿波へは秀長と秀次、讃岐へは宇喜多秀家と黒田官兵衛ら、伊予へは毛利輝元の指揮のもと小早川隆景・吉川元長が入ります。四国を三方から同時に押さえる形です。

この配置には意味があります。長宗我部の軍は四国全体に散らばっており、三方から同時に来られると、兵をどこにも集められません。そして海を渡る以上、船をどれだけ用意できるかが前提になります。元親が海で秀吉を止められなかった理由は、この戦いの結果を先に決めていた部分でもあります。

補助線③:一宮城で何が起きたか

阿波方面の主戦場となったのが一宮城です。徳島平野を見おろす山城で、長宗我部方の江村親俊が守っていました。秀長の軍はこの城を囲み、周囲の城を落としながら圧力をかけます。城は持ちこたえられず、八月に開城しました。

一宮城には今も石垣が残っています。青みを帯びた石を使った野面積みで、四国の山城としては早い時期の石垣です。城を歩くと、堀切と竪堀がいくつも刻まれており、土と石の両方で守っていたことがわかります。一宮城は、四国攻めの現場をいちばん具体的に残している場所です。

元親自身は、阿波と土佐の境に近い白地城に本陣を置いていました。ここは攻められていません。阿波の城が次々に落ち、讃岐と伊予でも同じことが起きている——その状況が伝わった時点で、戦いの帰趨は決まっていました。

岡豊城跡の石柱と曲輪の平場

長宗我部氏の本拠だった岡豊城跡。石柱の立つ平場が曲輪で、ここから元親は四国へ手を広げていった。

補助線④:「姫若子」と「鬼若子」はいつの話か

この回のサブタイトルにある二つの呼び名は、四国攻めのときのものではありません。二十五年ほどさかのぼる、元親の初陣にまつわる話です。

若いころの元親は色白で物静かで、家中から姫若子と呼ばれていたと伝わります。初陣は永禄三年(一五六〇)の長浜の戦い。二十二歳という、当時としては遅い初陣でした。ここでの働きによって、呼び名は鬼若子に変わります。この落差そのものが語り継がれてきました。

ただし、この逸話を記すのは後世の編纂物です。細部をそのまま史実として扱うことはできません。姫若子から鬼若子への記事では、この話がどこまで確かめられるかを整理しています。

四国攻めは激戦だったのか

▽ よく語られる話
四国攻めは、四国を統一した長宗我部元親を力でねじ伏せた大激戦だった。
▼ 史実ではこうです
戦闘そのものは短期間で終わっています。六月に軍が渡り、八月には降伏。元親の本陣だった白地城は、攻められてすらいません。三方面から十万が入り、阿波の城が順に落ちた時点で、勝敗は数の上で決していました。これは殲滅を目指した戦いではなく、勝てない数を見せて降ろさせる作戦です。秀吉が自ら渡らなかったことも、同じ計算の表れと見ることができます。そして降伏した元親は土佐一国を安堵され、以後は豊臣の大名として九州や朝鮮へ出陣していきます。四国攻めは、元親を滅ぼす戦いではなく、豊臣の秩序に組み入れる手続きでした。

戦いのあと、四国はどう分けられたか

降伏した元親には土佐一国が残されました。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景に与えられます。四国を統一していた大名が、四分の一に戻されたことになります。

この分け方には、秀吉の考えがよく出ています。長宗我部を残しつつ、周囲を自分の家臣で固める。滅ぼせば恨みが残り、放っておけば力を取り戻す。一領具足と呼ばれた土佐の兵の強さを、秀吉は知っていたはずです。

次回以降に効いてくること

四国攻めの翌年から、秀吉は九州へ向かいます。九州平定では、元親も豊臣方の一員として渡海しました。そしてその緒戦にあたる戸次川で、元親は嫡男の信親を失います。指揮をとったのは、讃岐を与えられたばかりの仙石秀久でした。

四国攻めで家を残した元親が、その二年後に跡取りを失う。長宗我部氏のその後は、この戦いから続く一本の線の上にあります。

現地はいま

元親の本拠だった岡豊城は、高知県立歴史民俗資料館に隣接する城跡です。発掘で礎石建物の跡が見つかっており、山城でありながら恒常的な建物があったことがわかっています。

阿波の一宮城は、徳島市内から車で二十分ほど。石垣と竪堀が残り、登れば徳島平野が見わたせます。伊予では、河野氏の湯築城が四国攻めで小早川隆景に囲まれ、開城しました。石垣も天守も持たない城で、道後温泉のとなりにあります。

よくある疑問

Q. 元親はなぜ二国の条件を蹴ったのか
四国を統一した直後で、条件をのめば取り分が半分以下になります。また、当時の秀吉はまだ天下人として確立しておらず、小牧・長久手の翌年でした。家康との関係次第で情勢は変わる、という読みもあったと考えられます。

Q. 秀長はこの戦いで何を得たのか
戦後、秀長は大和・和泉・紀伊を与えられ、大和郡山を居城とします。百万石の大名になるのは、この四国攻めの直後です。

Q. 十万というのは本当か
同時代の史料に幅があり、正確な数は確かめられません。ただし三方面に分けて渡海させたことは確かで、船の数から見ても大規模な動員だったことは間違いありません。

まとめ

四国攻めは、二か月で終わった戦いです。ただし、その短さこそがこの戦いの性格を示しています。十万を三方から入れ、戦う前に勝負を決める。滅ぼさずに組み入れる。秀吉が天下を仕上げていく手つきが、ここにはっきり出ています。

そして降ろされた側から見れば、四国の統一はわずか一年ほどで終わりました。土佐を統一するまでに元親が費やした年月を思うと、この二か月の重さがわかります。

特集長宗我部 ── 土佐から四国へ元親の初陣から、浦戸で国を失うまで ── 解説14本と城9か所

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