戦国時代の米はまずかったのか:城の蔵に積まれた古米と、村で搗きたての飯米

城の米蔵に積み上げられた古い米俵と、こぼれた玄米(イメージイラスト)

城の蔵にはいくらでも米があるのに、その米はうまくない。だから村へもらいに行く。第三十七回のこの場面は、じつは当時の米のあり方をよく突いています。城に積まれた米と、百姓の家で炊かれる米は、そもそも別のものでした。何が違ったのかを整理します。

この記事のポイント
  • 城の蔵の米は年貢米で、食べるためというより蓄えるための米でした
  • 数年寝かせた古米になるのが前提で、味は落ちます
  • 白米は高級品。武士も百姓も、玄米や雑穀を混ぜたものが普通でした
  • 戦のときは干し飯や焼き米にして持ち歩きました
  • 村にある米は搗きたての飯米。同じ米でも、蔵の米とは別物です
目次

蔵の米は、食べるための米ではない

城の蔵に納められる米は年貢米です。これは日々の食事のために置かれているのではありません。家臣への知行の支払い、飢饉への備え、そして何より兵糧です。

兵糧に求められるのは味ではなく、量と保存性でした。籠城になれば何か月も食いつながなければなりません。だから米は籾や玄米のまま、風通しのよい蔵に積まれます。搗いてしまうと傷みが早いからです。

そして蓄えである以上、古いものから使うとは限りません。新しい年貢が入ってくる一方で、下に積まれた米は年を越し、二年三年と経ちます。古米、古々米です。乾いて香りが抜け、虫も入る。炊いても、新米のような甘みは出ません。蔵の米がうまくないのは、管理が悪いからではなく、そういう米だからです。

秀長が入った郡山城の蔵にも、こうした米が積み上げられていました。

白米か、玄米か

戦国の食事というと白米の丼飯を思い浮かべがちですが、実際には白米は高級品でした。

▽ よく語られる話
戦国武将は白米を腹いっぱい食べていた。
▼ 史実ではこうです
当時の精米は搗き臼で人力です。白くするほど手間がかかり、量も減ります。日常の食事は玄米か、半分ほど搗いたもの。そこへ麦、粟、稗、芋などを混ぜるのが普通でした。白米だけを食べるのは、よほどの席か、よほどの身分です。武士が一日に五合ほど食べたとも言われますが、その中身は今の白飯とはかなり違うものでした。

ちなみに、白米が広く食べられるようになるのは江戸に入ってからです。そして江戸で白米ばかり食べた人が脚気にかかり、「江戸患い」と呼ばれました。玄米や雑穀を食べていた時代には起きなかった病気です。

そもそも村から出てくる米がなぜ痩せていたのかはなぜ村は苗を詰めて植えたのかで書いています。

戦に持っていく米

行軍中は炊く暇も道具もありません。そこで米は加工されました。炊いた飯を天日で干した干し飯、炒った焼き米。どちらも水を加えれば戻り、そのままでも噛めます。

城の米蔵に積まれた米俵と、破れた俵からこぼれた米のイメージ(イラスト)
城の米蔵に積まれた米俵のイメージ(イラスト)。戦に持っていく兵糧も、こうした蔵から運び出されました。

味の話をする人はいません。腹に入って動けることがすべてです。鳥取城の渇え殺しのように、兵糧を断つことが攻城の主要な手段だった時代ですから、米は武器と同じ扱いでした。秀吉はこのとき、攻める前に周辺の米を買い占めています。

村の米は、なぜうまいのか

いっぽう百姓の家にある米は、搗きたての飯米です。自分たちが食べる分を、食べるたびに搗く。古くても一年以内のものです。同じ品種でも、これだけで味はまるで変わります。

苗を密に詰めて植えた戦国の田んぼと、野良着の百姓たち(イメージイラスト)
苗を密に詰めて植えた田んぼのイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図です。

ただし、村に米が潤沢にあったという話ではありません。良いものから年貢に取られ、残りに雑穀を混ぜてかさを増やすのが常でした。地域と年によって事情は大きく違い、米をほとんど口にできない土地もあります。それでも「いま搗いた米」があるのは村のほうでした。

庄屋の家ともなれば、村でいちばん良い米が集まります。庄屋という立場は、年貢を取りまとめ、村を代表して領主と向き合う役目です。城から米をもらいに来るとすれば、行き先はまずこの家でした。

一日にどれくらい食べたのか

戦国の兵糧を計算するとき、よく使われるのが一人一日五合という数字です。いまの感覚ではかなりの量に思えますが、おかずがほとんどない食事で、しかも重い物を担いで歩く。それを考えると、これくらい要ったとみるのが自然です。

五合というのは、一か月で一斗五升、一年で一石八斗ほどになります。石高の一石が大人一人の一年分の米にあたる、とよく言われますが、実際に食べる量はそれよりやや多いことになります。年貢に取られる分を差し引けば、村に残るものがどれだけ細いかが見えてきます。

一万の軍勢を一か月動かすなら、単純計算で一万五千石。大坂城の築城で人と材を動かしたときも、まず要るのはこの米でした。戦の勝敗より先に、米の勘定があります。

村の主食は、本当に米だったのか

米を作っている村の人が、毎日米を食べていたとはかぎりません。作った米の多くは年貢として出ていきます。手元に残るのは、稗(ひえ)、粟(あわ)、麦、それに大根や芋を混ぜた飯でした。

畿内の条件のよい村でも、米だけを食べられる家は限られます。苗を詰めて植えてまで収量を増やそうとしたのは、余裕があったからではなく、取られる量が決まっていたからです。

それでも、村で食べる米は搗きたてです。村が年貢を村ごと請け負っていたので、いつ搗くか、どれだけ残すかは村の裁量でした。城の蔵に積まれた古米とは、はじめから別のものだったことになります。

俵・鼠・虫 ── 蔵の中で米に起きること

▶ 米を悪くするもの
  • 湿気 … 土蔵でも床下から湿気が上がります。俵の下段はとくに傷みやすい
  • 鼠 … 俵を食い破って中に入ります。猫を置くのは実用上の必要でした
  • 虫 … 穀象虫などがわく。夏を越すたびに味は落ちます
  • 酸化 … 糠の油が古くなり、いわゆる古米臭が出ます。とくに玄米で長く置くと強く出ます

だから蔵の米は、古いものから出していきます。新しい米が入ってきても、食べるのは去年の、一昨年の米。郡山城のような大きな城なら、蔵の一番奥には何年も動いていない俵があったはずです。

俵そのものも消耗品でした。藁で編んだ俵は縄が緩み、担ぐたびにこぼれます。運搬と保管のあいだに目減りする分を、あらかじめ多めに納めさせる慣習もありました。取られる側から見れば、これも負担のうちです。

米が「石高」になった時代

もうひとつ押さえておきたいのは、この時期に米が測られる対象になったということです。太閤検地によって、土地の価値は米の量で表されるようになりました。大和でも検地奉行が竿を入れています。

大和で検地を行う役人と庄屋のイメージ(イラスト)
大和で検地を行う役人と庄屋のイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図です。

石高という物差しは便利でしたが、そこで数えられているのは味ではなく量です。城の蔵に何万石積まれていようと、それはうまい米の量ではありません。第三十七回で娘が城を出て村へ向かうのは、数えられない部分を探しに行く動きでもあります。

この米を作り、納めていた村の仕組みについては惣村とは:戦国の村がつくった自治と、乙名・村掟・自検断・地下請の仕組みを。

まとめ

城の米は蓄えるための米、村の米は食べるための米。同じ「米」でも、置かれた目的が違えば別のものになります。

蔵の米がまずいというのは、この時代では当たり前のことでした。第三十七回のこの場面は、そのあたりをよく押さえた描写だと思います。

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