※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」のあらすじには、大和郡山城に移った秀長のもとに「新たな家臣も加わり」とあります。その候補のひとりが、羽田正親(はねだ・まさちか)です。横浜一庵・小川下野守とともに秀長の「三家老」と呼ばれ、大和で四万八千石を与えられた重臣でした。
この記事では、羽田正親が秀長のもとで何を任され、秀長の家が絶えたあと、秀次事件でどんな最期を迎えたのかをたどります。
- 羽田正親は近江国羽田村の出身。天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いのころには秀長に仕えていた
- 天正十三年(1585)、秀長の大和入りとともに添下郡で四万八千石を与えられ、小泉城の城主となった
- 天正十六年(1588)には宇陀の松山城に移ったとされる
- 秀保の死後、秀次事件に連座し、文禄四年(1595)八月、秀次に殉じて命を絶ったと伝わる
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羽田正親は第37回で登場した
第37回では、四国攻めの恩賞として大和一国を与えられた秀長が、大和郡山城に拠点を移します。「新たな家臣」が誰かは放送前には明らかにされていませんでしたが、羽田正親は秀長の大和入りと同時に大きな領地を与えられた家臣で、大和郡山編に出てきてもおかしくない人物です。
第37回の放送で、羽田正親は平埜生成さんの配役で登場しました。第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。
秀長を支えた三家老、三者三様の最期|横浜一庵・羽田正親・小川下野守
羽田正親とは:近江出身の秀長の重臣

羽田正親は、近江国の上羽田村(いまの滋賀県東近江市のあたり)の出身とされます。秀長に仕えた時期ははっきりしませんが、天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いのころには、秀長の家臣として名前が見えます。小堀正次と同じく、秀吉・秀長兄弟が北近江を治めた時代に取り立てられた近江の武士のひとりだったと考えられます。
近江から秀長に従った家臣は少なくありません。小堀正次も近江の出です。秀長が長浜で城主になった時期に集まった人材が、そのまま大和へ移ってきた形になります。
大和入りと小泉城
天正十三年(1585)、秀長が大和の国主になると、正親は大和国添下郡で四万八千石を与えられ、従五位下・長門守に任じられました。そして、郡山城の西にある小泉城(いまの奈良県大和郡山市小泉町)の城主となり、城の改修を行っています。本城の郡山城を西から守る位置です。
正親は、横浜一庵・小川下野守とともに秀長の「三家老」として、大和の政治を担いました。天正十六年(1588)には、大和の東の要である宇陀の松山城に移ったとされます。
大和郡山城:石垣に積まれた逆さ地蔵と、秀長の五年・柳沢家の百五十年
秀長の本城。小泉城はこの城を西から守る位置にありました。
四万八千石という序列
羽田正親が与えられた小泉城は四万八千石。秀長の家臣団のなかで、これがどれくらいの位置かというと、最高は横浜一庵の五万石ですから、ほぼ肩を並べる二番手です。
同じ家老でも、役目がきれいに分かれています。寺社は横浜、田は小堀、城は藤堂、紀伊は桑山。秀長は人を役目で配る人でした。羽田は大和の要地を押さえる、領地そのものを預かる役回りです。
小泉城と、宇陀松山への移動
小泉は大和の西、いまの大和郡山市の南西にあたります。郡山城から見て目の届く距離で、本城を守る位置です。
天正十六年(一五八八)ごろ、正親は宇陀松山(当時は秋山城)へ移ります。宇陀は大和の東、伊勢へ抜ける街道の要です。西の小泉から東の宇陀へ。守る向きが変わったことになります。
天正十三年に秀長が大和・紀伊・和泉を得たあと、国境をどう固めるかが課題でした。高取城が南を、宇陀松山が東を押さえる。羽田の異動は、その配置の一部です。
宇陀松山城のその後
正親が去ったあと、宇陀松山には多賀秀種が入り、近世城郭への改修が進みます。関ヶ原のあとは福島高晴が三万石で入り、秋山城から松山城へ名を改めました。
しかし元和元年(一六一五)に高晴が改易されると、城は幕府の命で破却されます。石垣は崩され、いまは山上に曲輪と石列が残るだけです。
高取城が山の上にあったために生き延びたのとは逆で、こちらは壊す価値があると判断されました。大和のなかでも、城の運命は場所によってまるで違います。
宇陀松山城:秀長の家臣が守った大和の山城と、小堀遠州が壊した総石垣の城、城下町に残る黒門
秀長の家が絶えて:秀次事件での最期
天正十九年(1591)に秀長が亡くなり、跡を継いだ秀保も文禄四年(1595)四月に十七歳で急死します。秀長の家が絶えたあと、正親は秀保の兄である関白・秀次に仕えたとも、秀吉の直臣になったとも伝えられます。
同じ文禄四年の夏、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で切腹する秀次事件が起こります。正親もこの事件に連座しました。江戸時代にまとめられた『寛政重修諸家譜』によれば、正親は八月二十四日、秀次に殉じて自害したとされます。介錯をつとめた本多正氏も、あとを追って自害したと伝わります。
秀長の重臣として大和の城を預かった正親は、秀長の家が絶えてからわずか数か月で、豊臣家の内紛に巻き込まれて命を落としたことになります。秀次事件の経緯は秀次事件をわかりやすく解説で、処罰が家族にまで及んだ理由は秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのかで書いています。
同じ立場に置かれながら桑山重晴は秀吉の直臣となって生き延びました。どちらを選ぶかで結果がここまで分かれます。主家が消えるというのは、家臣にとってそういう事態でした。
よくある疑問
大河で名が出たことで検索が伸びていますが、記録の少ない人物です。わかっていることと、わからないことを分けて読むのがいちばん確かです。
横浜一庵・小川下野守とあわせた三家老の役割と得手・不得手、ドラマでの登場状況は秀長の三家老とはで比べています。
正親が藤堂高虎とともに鎮圧にあたった北山一揆については北山一揆とはで紹介しています。
まとめ
羽田正親は、近江出身で賤ヶ岳のころから秀長に仕え、大和入りとともに四万八千石と小泉城を与えられた重臣でした。横浜一庵らと並ぶ三家老として大和を治めましたが、秀長・秀保の死後、秀次事件に連座して殉死したと伝わります。秀長の家臣団のなかでも、主家の断絶に最も翻弄された一人といえるでしょう。
秀長の家臣たちについては豊臣秀長の家臣団とはで、同じ三家老の横浜一庵については横浜一庵とはで、検地奉行の小堀正次については小堀正次とはで書いています。
