藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか:豊臣秀長に仕えた二十年と、七度替えた主君

伊賀上野城 本丸の石垣
この記事のポイント

  • 藤堂高虎は主君を七度替えたと言われるが、豊臣秀長の家にだけは家が絶えるまで仕えた
  • 秀長のもとで過ごした約二十年が、彼の人生で最も長い奉公だった
  • 築城の技術は設計の才ではなく、石と材木と人夫を動かす秀長の実務の現場で身についた
  • そして秀長に育てられた男が、最後は豊臣を包囲する城を築くことになる

築城三名人の一人に数えられる藤堂高虎。宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城——彼が築いた城はいまも各地に残る。

一方で、主君を次々に替えた変節漢という評価もついて回る。だが経歴を丁寧に追うと、この人がただ一つの家にだけは執着していたことが見えてくる。豊臣秀長の家である。

藤堂高虎の像

津城跡に立つ藤堂高虎の像。伊勢津・伊賀上野三十二万石の主となった(三重県津市)

目次

近江の小さな侍から

高虎は弘治二年(1556)、近江国犬上郡藤堂村の生まれ。最初に仕えたのは小谷城浅井長政である。十五歳で姉川の戦いに加わったと伝えられる。

だが浅井は滅び、以後は阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主を替えていく。近江の小領主に仕えては、その家が消えるたびに次を探す。戦国の下級武士としては、珍しくも何ともない前半生である。

秀長のもとで、二十年

転機は天正四年(1576)頃、羽柴秀長に仕えたことだった。

秀長は当時、兄・秀吉の名代として但馬や播磨を転戦していた。高虎はその下で戦功を重ね、三百石から千石へ、さらに加増を受けていく。天正十三年(1585)の紀州攻めのあとには、紀伊粉河に二万石を与えられた。四国平定でも秀長の軍にあり、九州でも従っている。

この時期の秀長は、大坂城の普請を支える立場にいた。生野銀山、吉野と紀伊の材木、堺と和泉の港。資金と資材と輸送の要所を、すべて領国内に持っていた男である。

高虎はその現場にいた。

築城の技術は、どこで身についたのか

ここがこの記事でいちばん書きたいところである。

藤堂高虎の築城の腕は、しばしば天賦の才として語られる。だが実際には、秀長のもとで石と材木と人夫を動かす仕事を二十年やったという事実のほうが、はるかに説明力がある。

伊賀上野城の高石垣

伊賀上野城の高石垣。高さ約三十メートルは日本有数で、堀端から見上げると壁のように立つ

城を建てるとは、どこから石を切り出し、どの川を使って運び、何人の人夫を何日動かすかを決める作業である。秀長の領国は、その全工程の教材だった。紀伊の山から木を伐り、和泉の港へ出し、大坂へ運ぶ。高虎はそれを見て、やって、覚えた。

のちに彼が築く城の石垣は、高く、直線的で、隅は算木積みで固めるという共通の特徴を持つ。装飾ではなく、施工性と強度に振り切った積み方である。安土城の見せるための石垣とも、彦根城の意匠を凝らした天守とも違う。現場を知っている人間の石垣だと思う。

秀保の死と、出家

天正十九年(1591)、秀長が没する。高虎は秀長の養子・秀保に仕えて、そのまま大和大納言家を支えた。

ところが文禄四年(1595)、秀保が十七歳で早世する。跡取りがなく、大和大納言家はここで断絶した。

このとき高虎が取った行動が、彼という人を最もよく表している。彼は出家して、高野山に入った。

渡り歩く男の行動としては、まったく説明がつかない。仕える家が消えたなら次を探せばいい。実際、それまでの彼はそうしてきた。だが秀長・秀保の家が絶えたとき、高虎は仕官ではなく髪を落とすほうを選んだ。約二十年——彼の人生で最も長い奉公が、そこで終わったのである。

秀吉に呼び戻されて還俗し、伊予板島に七万石を得る。ここで築いたのが宇和島城だった。

宇和島城

宇和島城。高虎が自らの領国で初めて本格的に築いた城で、不等辺五角形の縄張りで知られる

徳川の城を築く

慶長五年(1600)の関ヶ原で、高虎は東軍に付いた。戦功により伊予今治二十万石。今治城は海水を引き込んだ日本三大水城の一つで、船が直接城内に入れる構造を持つ。

今治城

今治城。海に面し、堀に海水を引き込んだ日本三大水城のひとつ

そして慶長十三年(1608)、伊勢津・伊賀上野三十二万石へ移される。この配置には明確な意図があった。大坂の豊臣家に対する抑えである。

高虎は伊賀上野城を大改修し、あの高石垣を築いた。津城も大改修している。さらに篠山城膳所城の縄張りを担当し、江戸城や大坂城の天下普請にも加わった。

ここに、この人の生涯の皮肉がある。秀長に育てられ、秀長の家が絶えたときに出家までした男が、最後は豊臣家を包囲する城を築いた。賤ヶ岳の七本槍のうち四人が豊臣を滅ぼす側に回ったのと、構図は同じである。秀吉が育てた人材が、そのまま徳川の天下を支える側に流れた。

大河で描かれない話

高虎は外様でありながら、家康・秀忠から譜代並みの信任を受けた。臨終の家康の枕元に呼ばれた数少ない大名の一人だったとも伝えられる。

彼が残した家訓に、こんな一節がある。「寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし」——寝床を出た瞬間から、その日は自分が死ぬ番だと思って過ごせ、という意味である。

主君を替え続けた男の言葉として読むと、単なる覚悟の話ではなく聞こえてくる。仕える相手も、家も、いつ消えるか分からない。浅井が滅び、織田信澄が死に、秀長の家が絶えるのを、彼は間近で見てきた。

津城の丑寅櫓

津城の丑寅櫓。高虎が大改修した伊勢の要地で、藤堂家は幕末まで続いた

そして藤堂家は、彼が築いた津の城で明治まで続いた。渡り歩いた男が、最後に一番長持ちする家を作った。

よくある質問

Q. 藤堂高虎は何人の主君に仕えたのですか。
A. 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、徳川家康と、七度替えたと言われます。ただし秀長・秀保の家には約二十年仕えており、これが最も長い奉公でした。

Q. なぜ築城の名手と呼ばれるのですか。
A. 宇和島城・今治城・津城・伊賀上野城を築き、篠山城や膳所城の縄張りも担当したためです。加藤清正・黒田官兵衛と並んで築城三名人に数えられます。石垣は高く直線的で、実戦を意識した積み方が特徴です。

Q. 伊賀上野城の石垣はどれくらいの高さですか。
A. 約三十メートルで、日本有数の高さです。大坂の豊臣家への備えとして築かれました。

Q. 秀保が亡くなったとき、なぜ出家したのですか。
A. 理由は明確には伝わっていません。ただ仕える家が絶えた直後の行動であり、それまで主君を替え続けてきた彼にしては異例です。のちに秀吉に呼び戻されて還俗しました。

ゆかりの地をめぐる

  • 津城(安濃津城)(三重県津市)… 高虎が大改修した伊勢の居城。城跡に高虎の像が立つ
  • 伊賀上野城(三重県伊賀市)… 高さ約三十メートルの高石垣。大坂への抑えとして築かれた
  • 今治城(愛媛県今治市)… 海水を引き込んだ日本三大水城のひとつ
  • 宇和島城(愛媛県宇和島市)… 高虎が最初に築いた本格的な城。不等辺五角形の縄張り
  • 大洲城(愛媛県大洲市)… 高虎が城主を務めた伊予の城
  • 赤木城(三重県熊野市)… 北山一揆の鎮圧のために高虎が築いた山城
  • 小谷城(滋賀県長浜市)… 高虎が最初に仕えた浅井長政の居城

まとめ

藤堂高虎を「主君を七度替えた男」として語るのは、たぶん半分しか見ていない。彼は替え続けたのではなく、仕える家が次々に消えていったのである。

そのなかで唯一、彼のほうから離れなかったのが秀長の家だった。二十年仕え、家が絶えたときには出家した。そして秀長のもとで身につけた石と材木と人夫を動かす技術で、彼は生涯に十を超える城を築いた。

大坂城を建てた実務は、秀長ひとりのものではなかった。その現場で覚えた男が各地に城を残し、藤堂家は幕末まで続いた。秀長が遺したものは、豊臣家ではなく、こういう形で残ったのかもしれない。

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