【筆者の妄想】坂口涼太郎が演じる磐覚(ばんかく)の一生を勝手に書いてみた ─ 一乗院の坊官は、なぜ秀長の前に立ったのか(豊臣兄弟!)

灯明の明かりで年貢の帳面に筆で書き込む若い坊官のイメージ
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』で坂口涼太郎さんが演じる一乗院の坊官・磐覚は、史料にいない創作の人物です。この記事は、その一生を筆者が勝手に想像して書いた「妄想の伝記」です
  • 坊官の家に生まれ、一乗院で帳面をつけて育ち、松永久秀と筒井順慶の時代を生き抜いて、第37回で秀長の前に立つまでを物語にしました。さらに、秀長の死や関ヶ原をへた「その後の人生」まで書いています
  • 物語の各章のあとに「史実メモ」を置き、坊官のしくみ、足利義昭の一乗院脱出、信長の大和指出、寺領の削減と文禄4年の二万一千余石など、本当の歴史を分けて整理しました
  • 第38回以降で磐覚の過去や行く末が描かれたら、この妄想との答え合わせをするつもりです

第37回「秀長の国」で、秀長の前に立ちはだかった興福寺一乗院の坊官・磐覚。「大和のまことの主が誰かは、百姓が知っている」と言い放ち、裏では小堀正次を襲わせたことまで明かされて、すっかり憎まれ役になりました(第37回の史実解説)。けれども、あの人はいったいどんな人生を歩いて、あの場面にたどりついたのでしょうか。史料に名前のない人物ですから、答えはどこにもありません。そこで、筆者が勝手に想像してみることにしました。

▽ おことわり

磐覚という人物は、史料には名前が見えない、ドラマのために生み出された人物です(磐覚とは)。この記事の「物語」の部分は、生い立ちから最期まで、すべて筆者が勝手に考えた創作です。ドラマの公式設定でもありません。そのかわり、各章のあとに「史実メモ」の枠を置いて、物語の背景になっている本当の歴史を分けて書いています。

目次

第一章 坊官の家に生まれる(妄想)

磐覚が生まれたのは、天文の終わりごろ、奈良の登大路に面した一乗院の門前の屋敷だった、ということにしましょう。父は一乗院に仕える坊官で、頭を剃り、墨染めの衣を着ていながら、妻をもち、子を育てていました。磐覚はその次男で、幼いころは「亀若」と呼ばれていました。

父の仕事は、一乗院が持つ村々から届く年貢の帳面を見ることでした。秋になると、屋敷の板の間には村ごとの帳面が積み上がり、父は夜遅くまで灯明の下で算木を並べていました。亀若は、その横で墨をすりながら、「この紙の上に書かれた数字が、遠い村の田んぼ一枚一枚とつながっている」ということを、言葉より先に覚えていきます。兄が病で早くに亡くなり、家を継ぐのは亀若の役目になりました。

▼ 史実メモ(ここからは史実です)

坊官は、門跡寺院に仕えて事務や寺領の管理をになった人びとで、剃髪していても妻帯が認められ、その職は家として受け継がれました。僧でありながら「家」をもつという、少し不思議な立場です。くわしくは坊官とはでまとめています。

一乗院は、興福寺の中でも摂関家の近衛流の子弟が門主となる格の高い門跡で、もうひとつの門跡・大乗院(九条流)と並んで、興福寺を動かす二つの柱でした。

第二章 一乗院での下積み ─ 門主が消えた夜(妄想)

興福寺の別当と帳面のイメージ
帳面と年貢の数字が、一乗院の力の源でした(イメージ)

十三歳で一乗院に出仕した亀若は、「磐覚」という名をもらいます。最初の仕事は、ひたすら帳面を写すことでした。村から届いた帳面を清書し、去年の帳面と突き合わせ、数字の合わないところに印をつける。先輩の坊官に連れられて村を回り、庄屋の家の縁側で、田の広さと年貢の量を一つずつ確かめる日々が続きます。

そんな磐覚が十代の半ばに出会ったのが、永禄8年(1565)夏の事件でした。京で将軍・足利義輝が討たれ、一乗院の門主だった義輝の弟・覚慶が、院の中に押しこめられたのです。院のまわりを見張りの兵が囲み、磐覚たち若い坊官も、門の出入りを細かく問いただされました。そしてある夜、門主の姿が院から消えます。翌朝、院の中は大騒ぎになりましたが、磐覚は、いつもと変わらず帳面を写しながら、ひとつのことを考えていました。「門主さまが替わっても、村から年貢が届くかぎり、一乗院はつぶれない」。

▼ 史実メモ(ここからは史実です)

永禄8年(1565)5月、将軍・足利義輝が三好氏の一党らに討たれると、一乗院の門主だった弟の覚慶は一乗院に押しこめられました。覚慶は同年7月、細川藤孝らの手引きで一乗院を抜け出し、のちに還俗して足利義昭となり、織田信長に担がれて十五代将軍になります。一乗院の門主から将軍が出たというのは、本当の話です。

このころの大和では、三好氏の重臣・松永久秀が勢力を広げ、永禄10年(1567)には東大寺の大仏殿が戦火で焼けています(東大寺/松永久秀は仏罰を恐れなかったのか)。

第三章 松永と筒井のあいだで、帳面を守る(妄想)

二十代の磐覚が見たのは、奈良の町が戦場になる時代でした。松永久秀が多聞山に城を築き、筒井順慶がそれに抗い、東大寺の大仏殿が炎に包まれる。武士たちは寺の村から兵糧を取り立て、寺の言うことを聞かない村も出てきます。磐覚は村々を回って、年貢を出し渋る庄屋に頭を下げ、ときには仏罰の怖さを説いて、一乗院の取り分を少しでも守ろうとしました。「刀を持たない寺が頼れるのは、帳面と、仏罰を恐れる心だけだ」。磐覚がそう考えるようになったのは、このころだったのかもしれません。

転機は、天正8年(1580)に訪れます。織田信長の命令で、大和の寺社や武士は、持っている土地と年貢の高をすべて書き出して差し出すよう求められたのです。磐覚は、何日も眠らずに一乗院の帳面を書き上げました。そして、そのとき気づきます。「これからは、刀を持つ者ではなく、数字を握った者が土地を握る」。帳面に強い若手として名を上げた磐覚は、一乗院の寺領をあずかる坊官のひとりに取り立てられました。

▼ 史実メモ(ここからは史実です)

鎌倉時代以来、大和には幕府の守護が置かれず、興福寺が守護のような立場で国を治めていました。筒井氏は、もとは興福寺に属して武力をになった「衆徒」の家で、一乗院方の衆徒として力をつけた武士です(大和はなぜ貧しい国だったのか/石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのか)。

天正8年(1580)には、信長の命令で大和の寺社や国衆に「指出」(土地と収穫高の申告)が求められ、あわせて郡山城を残して大和の城を壊す「城割」が行われました。その様子は、興福寺の僧・英俊の『多聞院日記』にも書きとめられています。

第四章 天正13年、秀長の前に立つ(妄想)

秀長と僧のイメージ
新しい国主と、寺の側の人びと(イメージ)

天正13年(1585)、筒井家は伊賀へ移され、新しい国主として羽柴秀長が大和に入ってきます。磐覚は三十代の半ば。一乗院の寺領について、もう一度「指出」を出すよう求められたとき、磐覚は帳面の数字を前に考えこみました。少なく書けば、取り上げられる土地も少なくてすむかもしれない。けれども、少なく書いた帳面が見破られれば、それを口実に寺領ごと奪われる。迷った末に磐覚が選んだのは、むしろ多めに書くことでした。「これだけの土地と年貢が、昔から寺のものだった」と、新しい国主に見せつけるためです。

そして、あの場面です。郡山城で秀長と向き合った磐覚は、年貢が寺に集まるしくみを堂々と説き、「大和のまことの主が誰かは、百姓が知っている」と言い放ちます。筆者の妄想の中では、あれは単なる暴言ではありません。磐覚が二十年かけて村を回り、庄屋に頭を下げ、仏罰を説いて守ってきたものへの、精一杯の誇りだったのです。けれども、秀長は「自分ももとは百姓だ」と言って村に入り、田を見て、帳面ではなく稲を数えはじめました。小堀正次を襲わせるという一線を越えた手も明るみに出て、磐覚は、自分が一番得意だった「数字の勝負」で負けたことを悟ります。

▼ 史実メモ(ここからは史実です)

天正13年閏8月の指出では、興福寺の申告が1万8209石から2万5693石へ、大乗院が919石から1747石へと、前より大きな数字になっていたことが知られています。なぜ増えたのかは史料からははっきりしません。その後の寺領の削減については、何石が取り上げられたかの数字が資料ごとに揺れていて、一本の数字には決まりません(興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのか)。

ドラマでは、秀長が年貢をいったん国主のもとに集め、そこから興福寺に「寄進」する形に切り替えました。寺は年貢を取る側から、国主から受け取る側に変わったのです(興福寺の別当とは)。小堀正次の襲撃が磐覚の差し金だったというのは、ドラマの創作です。

第五章 その後の磐覚 ─ 秀長の死と、二万一千石(妄想)

ここからは、第38回より先の物語です。ドラマで磐覚がどう描かれるかはまだわからないので、史実の流れにだけ沿って、勝手に想像を続けます。

秀長に敗れたあとの磐覚は、表に出ることはなくなりました。それでも、一乗院の帳面からは離れませんでした。国主から寄進される年貢を受け取り、それを院の中に配る仕事は、相変わらず誰かがやらなければならなかったからです。天正19年(1591)の正月、秀長が郡山城で亡くなったという知らせが奈良に届いた日、磐覚は、かつて自分を負かした相手のために、ひとりで灯明をともしたかもしれません。

秀長の跡を継いだ秀保も若くして亡くなり、文禄4年(1595)、郡山には増田長盛が入ってきます。同じ年、大和ではあらためて検地が行われ、春日社と興福寺の寺領はあわせて二万一千石あまりと定められました。五十歳近くになった磐覚は、その数字を帳面に書き写しながら、こうつぶやいたことでしょう。「昔ほどではないが、これで寺は生きていける」。

興福寺中金堂
興福寺の中金堂。磐覚が守ろうとした寺は、いまも奈良の町の真ん中にあります

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いのあと、増田長盛は郡山を追われます。天下が徳川のものになっても、興福寺の寺領は取り上げられずにすみました。晩年の磐覚は、坊官の家を息子にゆずり、帳面の付け方を孫に教えながら、慶長の終わりごろ、静かに息を引き取った ─ 筆者の妄想は、そんなところで幕を下ろします。

▼ 史実メモ(ここからは史実です)

秀長は天正19年(1591)1月22日に郡山城で亡くなり、跡を継いだ秀保も文禄4年(1595)に亡くなりました。そのあと郡山城には増田長盛が入りますが、長盛は関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦いのあと所領を失っています。

興福寺の公式の説明では、文禄4年(1595)の検地で春日社と興福寺あわせて二万一千余石の寺領となり、これが徳川の時代にも引き継がれました。江戸時代の一乗院には皇族が門主として入り、「一乗院宮」と呼ばれます。明治のはじめには、一乗院・大乗院の門主から坊官や下働きの人びとまでが僧をやめて春日社に仕えることになり、一乗院の建物(宸殿)はのちに唐招提寺に移されて、御影堂として今も残っています(磐覚は今後も出てくるのか)。

筆者がこの妄想で書きたかったこと

第37回の磐覚は、新しい国づくりを邪魔する悪役として描かれました。けれども、戦国の大和で何百年も続いてきた寺の村の仕組みを、日々の帳面づけで支えていたのは、磐覚のような名もない坊官たちだったはずです。秀長の改革は、その人たちから見れば「自分たちの暮らしを支えてきた仕組みを、外から来た武士が書き換えた」出来事でもありました。どちらが正しいかではなく、二つの立場がぶつかったのが、あの場面だったのではないか。そんなことを考えながら、磐覚の一生を勝手に書いてみました。寺と秀長、どちらから見るかで景色が変わることは、興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのかでも書いています。

よくある疑問

Q. 磐覚は実在した人物ですか?
A. 史料には名前が見えず、ドラマのために生み出された人物と考えられます。この記事の物語の部分は、すべて筆者の創作です。

Q. 坊官とはどんな人ですか?
A. 門跡寺院に仕えて事務や寺領の管理をになった人びとで、剃髪していても妻帯が認められ、その職は家として受け継がれました。

Q. 一乗院の門主から将軍になった人がいるのは本当ですか?
A. 本当です。足利義輝の弟・覚慶は一乗院の門主でしたが、永禄8年(1565)に一乗院を抜け出し、のちに還俗して十五代将軍・足利義昭になりました。

Q. 磐覚はこの先もドラマに出てきますか?
A. 放送前の時点ではわかりません。第38回以降で磐覚の過去や行く末が描かれたら、この記事で答え合わせをする予定です。

まとめ

坂口涼太郎さんが演じる磐覚の一生を、坊官の家に生まれ、一乗院で帳面とともに育ち、松永と筒井の時代を生き抜いて、秀長の前に立つまで、そしてその後の人生まで、筆者の妄想で書いてみました。物語はすべて創作ですが、その背景にある一乗院のしくみ、足利義昭の脱出、信長の指出、秀長の寺領削減、文禄4年の二万一千余石といった流れは、本当の歴史です。第38回の放送では磐覚が再び登場するのかどうか、第38回のあらすじ予想と史実や筆者の勝手な予想とあわせて、ぜひ注目してみてください。

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