豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか:秀吉が戦場を離れられた、たったひとつの理由

長浜城アクセス・所在地・マップ 羽柴秀吉が信長より初めて城主に任命された浅井家旧領 長浜城
この記事のポイント

  • 賤ヶ岳で秀吉は戦場を空けている。織田信孝を討つため美濃へ向かった
  • その留守を預かったのが弟の秀長。田上山に布陣したと伝わる
  • 四月二十日、中川清秀が討たれ戦線が動揺するなか、秀長の陣は崩れなかった
  • 美濃大返しが成立したのは、戻る場所が残っていたからである
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第33回「北庄城の別れ」は8月30日(日)放送。賤ヶ岳から北ノ庄までの流れです。

賤ヶ岳の戦いを語るとき、名前が挙がるのは決まっている。七本槍、前田利家、佐久間盛政。そして美濃大返しをやってのけた秀吉。

豊臣秀長の名は、あまり出てこない。

だがこの戦いで秀長がしていたことは、勝敗そのものに直結している。

大垣城

大垣城。秀吉はここまで来ていた。賤ヶ岳までおよそ五十キロある

目次

秀吉は、戦場を空けている

まず、この戦いの見落とされがちな前提から。

天正十一年(1583)四月。柴田勝家は玄蕃尾城に本陣を置き、秀吉方と対峙していた。戦線は膠着している。

そこへ、別の火が上がった。織田信孝が岐阜で再挙したのである。

秀吉は主力を率いて美濃へ向かった。大垣まで進んで信孝を押さえにかかる。

つまり賤ヶ岳の前線から、総大将が消えた。

柴田方にとっては絶好の機会である。実際、佐久間盛政はこの穴を突いた。

田上山に残った男

では、秀吉が抜けたあと、その戦線は誰が保っていたのか。

豊臣秀長である。

秀長は田上山(たがみやま)に布陣したと伝わる。賤ヶ岳周辺に築かれた秀吉方の陣城群のなかで、中核にあたる位置である。

秀吉が美濃へ発ったあと、この一帯を維持していたのが秀長だった。

地味な役割である。攻めてもいないし、名のある武将を討ってもいない。だからこそ、後世の物語で名前が出てこない。

▽ よく語られる話
賤ヶ岳は、秀吉の「美濃大返し」で決まった。五十キロを駆け戻った脚が勝敗を分けた。
▼ 史実ではこうです
脚が速かっただけでは勝てません。戻ったときに布陣できる場所が残っていなければ、大返しは意味を持ちません。
五十キロを走った男の話の裏側に、その間ずっと動かずに戦線を保っていた男がいます。

四月二十日、崩れなかった一点

そして、その日が来る。

四月二十日、佐久間盛政が大岩山砦を急襲した。守将の中川清秀が討たれる。秀吉方にとって痛烈な一撃だった。

周辺の陣も動揺した。岩崎山の高山右近は退いたと伝わる。戦線の一角が明らかに崩れかけている。

そのなかで、田上山の秀長は動かなかった。

ここが決定的である。

もし秀長の陣まで崩れていたら、どうなっていたか。

秀吉が五十キロを駆け戻ってきても、そこに味方の陣がない。疲れ切った軍勢が、整った柴田軍の前に裸で放り出される。大返しは離れ業ではなく、ただの自殺行為になっていた。

秀吉が帰る場所を確保していたのが、秀長である。

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佐久間盛政はなぜ退かなかったのか:鬼玄蕃の一日と、賤ヶ岳が決まった瞬間

同じ日、同じ戦場で、動きつづけた男の話です。秀長と正反対の選択をしました。

動いた男と、動かなかった男

この戦場には、三人の対照的な人物がいる。

  • 佐久間盛政……動いた。大岩山を取り、そのまま留まって崩れた
  • 前田利家……動いた。戦わずに戦場を去り、加賀百万石を残した
  • 豊臣秀長……動かなかった。そして味方を勝たせた

面白いのは、三人とも「その場の判断」を誤ってはいないことである。

盛政は勝っている流れを押した。利家は引き受けていない戦から降りた。秀長は預かった場所を守った。それぞれが自分の立場に忠実だった。

ただ結果は残酷なほど分かれた。盛政は斬首され、利家は大名として残り、秀長は天下人の弟として大和百万石まで行く。

長浜城

長浜城。秀吉が初めて城主となった城で、賤ヶ岳はこの近くにある

なぜ秀吉は、弟に留守を任せられたのか

ここで、もう一段深い問いがある。

総大将が戦場を離れるとき、留守を任せられる人間は限られる。裏切られたら終わりだからである。

秀吉には、それができる相手が極端に少なかった。

理由は出自にある。秀吉には譜代の家臣がいない。代々仕えてきた家も、先祖から続く家臣団もない。集まってきたのは、能力を買われて来た者たちである。

能力で来た者は、条件が変われば去る。現に賤ヶ岳では、柴田方から寝返った者も、秀吉方から動揺した者もいた。

そこへいくと秀長は違う。

秀長が裏切ったところで、行く先がない。「秀吉の弟」という以外に、この人物には世に立つ根拠がないからである。柴田方に走っても、そこでの居場所は秀吉の弟という肩書きの上にしか成り立たない。

裏切れないのではなく、裏切っても意味がない。これが、秀吉が弟に背中を預けられた構造的な理由である。

身も蓋もない言い方だが、戦国において「絶対に裏切らない」を保証できるのは、忠誠心ではなく構造のほうだった。

大河ドラマで描かれない話

賤ヶ岳の恩賞を見ると、この戦いの性格がよくわかる。

秀吉が大々的に顕彰したのは七本槍、つまり若手の槍働きだった。感状を与え、名を売り出した。

これは戦果の記録であると同時に、人事の宣言である。「これからは俺が引き上げた者が出世する」というメッセージだった。

秀長は、その顕彰の対象ではない。宣伝する必要がなかったからである。

秀長の立場は戦功で決まるものではない。弟であること自体が地位だった。だから感状も要らず、逸話も残らず、名前も語られない。

この戦いでいちばん重要な役割を果たした人物が、いちばん語られないのは、そういう理由による。

よくある質問

Q. 秀長は賤ヶ岳でどこにいたのですか?
A. 田上山に布陣したと伝わります。賤ヶ岳周辺に築かれた秀吉方の陣城群の中核にあたる位置です。

Q. 秀吉はなぜ戦場を離れたのですか?
A. 織田信孝が岐阜で再挙したためです。秀吉は主力を率いて美濃へ向かい、大垣まで進んでいました。

Q. 美濃大返しはどれくらいの距離ですか?
A. 大垣から賤ヶ岳までおよそ五十キロあります。常識的には数日かかる距離を、秀吉は一気に引き返しました。

Q. 秀長は北ノ庄城攻めにも参加したのですか?
A. 賤ヶ岳のあと、秀吉方は越前へ攻め入り北ノ庄城を落としています。秀長もこの一連の作戦に加わっています。

ゆかりの地をめぐる

  • 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城。賤ヶ岳はこの近く
  • 大垣城(岐阜県大垣市)… 秀吉が信孝に備えて進んだ先。大返しの出発点
  • 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 柴田勝家が本陣を置いた陣城
  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 勝家とお市が最期を迎えた城
  • 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… のちに秀長が百万石の主として入る城

イラストで見る武将や姫たち

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まとめ

賤ヶ岳の勝敗を決めたのは、たしかに秀吉の五十キロだった。

だが走るためには、着地点が要る。

その着地点を、四月二十日の混乱のなかで動かずに保っていたのが秀長である。何もしなかったのではない。何もしないことを、崩れずにやり切った。

そしてそれは、記録に残りにくい種類の功績である。討ち取った首の数では測れないからだ。

秀吉がのちに弟へ百万石を預けた理由は、たぶんこのあたりにある。戦上手だったからではなく、任せた場所を必ず保つ人間だったからである。

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