加藤光泰(かとう・みつやす)は、美濃出身の武将で、秀吉のもとで大垣城主にまでなりました。ところが天正十三年(1585)、秀吉の直轄地を勝手に家臣へ分け与えたことで怒りを買い、領地を没収されて秀長に預けられます。光泰はそれから二年ほど、大和郡山で謹慎の日々を送りました。のちに許されて甲斐二十四万石の大名となりますが、朝鮮出兵の陣中で亡くなります。ちょうど『豊臣兄弟!』の大和郡山編と同じ時期に、秀長のもとにいた人物です。
- 美濃の斎藤家に仕えたのち、秀吉の仲立ちで織田家に仕えた
- 山崎の戦いで功を挙げ、天正十三年(1585)には美濃大垣城主・四万石になった
- 直轄地を家臣に与えたことで秀吉の怒りを買い、秀長に預けられて大和郡山で謹慎した
- 天正十五年(1587)に許され、小田原攻めのあと甲斐二十四万石の大名に大抜擢された
- 文禄二年(1593)、朝鮮出兵の陣中で病に倒れた。子の貞泰はのちに伊予大洲藩主となった
加藤光泰とは:美濃から来た、秀吉の家臣
加藤光泰は天文六年(1537)、美濃国多芸郡の生まれです。はじめは美濃の斎藤龍興に仕えましたが、稲葉山城が落ちると浪人となり、近江へ移りました。美濃での戦いぶりに目をとめた織田信長が、木下秀吉の仲立ちで光泰を召し抱えたといいます。以後、光泰は秀吉のもとで働くことになります。秀吉と秀長が家臣を集めていった流れは豊臣秀長の家臣団とはで紹介しています。
秀吉のもとでの出世 ── 山崎から大垣城主へ
元亀二年(1571)、光泰は浅井長政の軍による横山砦への攻撃を退け、近江坂田郡で七百貫の知行と与力十人を与えられました。天正十年(1582)の山崎の戦いでは、明智方の部隊を奇襲して光秀の本隊に攻めかかり、秀吉軍の勝利に貢献しています。この功で丹波の周山城一万五千石に加増されました。
その後、近江や尾張の城を移り、天正十三年(1585)には美濃大垣城主・四万石に出世します。本能寺の変から山崎の戦いまでの流れは本能寺の変で紹介しています。
秀吉の怒り ── 秀長に預けられた二年間
ところが大垣城主になったその年、光泰はつまずきます。秀吉の直轄地(蔵入地)二万石を、自分の家臣たちに知行として分け与えてしまったのです。家臣を養うための判断だったのかもしれませんが、秀吉はこれに怒り、光泰の領地を没収しました。
光泰の身柄は秀長に預けられ、大和郡山城に謹慎することになりました。ちょうど秀長が大和に入った年です。光泰はそれから天正十五年(1587)に許されるまで、秀長のもとで過ごしました。秀長が郡山をどういう城下町に育てたのかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで紹介しています。
赦免、そして甲斐二十四万石へ
天正十五年(1587)に許された光泰は、近江の佐和山城二万石を与えられ、従五位下・遠江守に任じられました。のちに石田三成の居城となる佐和山城です。
天正十八年(1590)の小田原攻めでの働きが認められ、光泰は甲斐一国、二十四万石の大名に大抜擢されます。徳川家康が関東へ移ったあとの甲斐は、関東を見張る要の国でした。光泰は嫡男の貞泰や弟を要所に置き、検地を進め、甲府城の築城に取りかかります。謹慎の身から、わずか数年で国持ち大名になったのです。
朝鮮出兵の陣中での死
文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵に、光泰は自ら渡海しました。そして文禄二年(1593)九月、陣中で病に倒れ、五十七歳で亡くなります。遺骨は甲斐の善光寺に葬られました。石田三成との対立から毒を盛られたという説も伝わりますが、確かなことはわかっていません。朝鮮出兵の全体は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説で紹介しています。
加藤家のその後 ── 伊予大洲藩へ
嫡男の加藤貞泰は、まだ若いことを理由に甲斐から美濃の黒野へ移されました。しかし関ヶ原の戦いでは徳川方につき、のちに伊予の大洲藩の初代藩主となります。加藤家は大洲藩主として幕末まで続きました。秀吉・秀長ゆかりの城は豊臣秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイドでまとめて紹介しています。
『豊臣兄弟!』に加藤光泰は登場するのか
いまのところ、加藤光泰の配役は発表されていません。ただ、光泰が秀長のもとで謹慎していたのは天正十三年から十五年、ドラマの大和郡山編とちょうど同じ時期です。秀長が大和を治める日々のなかに、秀吉の怒りを買って預けられた武将がいる。そんな場面が描かれれば、秀長の人柄を映すエピソードになりそうです。この時期の秀長の家中の顔ぶれは秀長の三家老とはでまとめています。
- 大和郡山で、秀吉に叱られて預けられた武将として
- 秀長が家臣たちをまとめる場面で、外から来た客分のような存在として
- 秀長のとりなしで許され、ふたたび表舞台へ戻る人物として
ドラマではこう描かれています
まとめ
加藤光泰は、美濃から秀吉のもとへ来て大垣城主にまで出世し、秀吉の怒りで一度はすべてを失った武将です。秀長に預けられて大和郡山で謹慎した二年を経て、甲斐二十四万石の大名になりました。九州攻めでの判断をとがめられて失脚した尾藤知宣とは、対照的な道をたどったことになります。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。
参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館
- 『北藤録』

