豊臣兄弟!第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実|石川数正の出奔と、秀吉が茶々を迎えるまで

大阪城:大阪冬の陣・夏の陣にて淀の方・豊臣秀頼自刃と共に消失!!豊臣秀吉が築城した大阪城
この記事のポイント
  • 第39回「茶々の本心」は10月11日(日)放送の予定です。徳川の重臣・石川数正が大坂城に呼ばれ、秀長は秀吉に茶々を妻に迎えるよう勧めます
  • 史実の石川数正は、天正13年(1585)11月に岡崎城を出て、妻子とともに秀吉のもとへ走りました。徳川家を震わせた「出奔」です
  • 秀長が茶々を勧めたという記録はありません。茶々が秀吉の側室になったのは天正16年(1588)ごろとされ、翌年に鶴松を産みます
  • この回の背景には、秀吉に実の子がいないという豊臣家の弱点があります。この時点での跡継ぎ候補と、その後の流れを整理します
▷ 放送前の見どころ(予想)

伝えられているあらすじによると、第39回は二つの場面で進みます。ひとつは大坂城で、秀吉は徳川と真田の争いをやめさせるため、徳川家の重臣・石川数正(迫田孝也)を呼び寄せます。数正は豊臣の財力と勢いに圧倒されますが、家康(松下洸平)は和睦をはっきりと拒みます。もうひとつは大坂城の奥で、秀長が秀吉に、織田信長の血を引く茶々(井上和)を妻に迎えて確かな跡継ぎを得るよう勧めますが、秀吉は長年連れ添った寧々(浜辺美波)を思って強く反発します。タイトルの「茶々の本心」からすると、勧められる側の茶々が何を考えているのかが、回の終わりに見えてくるのでしょう。

放送後、この枠を「大河ドラマではこう描かれました」に差し替えます。

第38回で秀吉は「豊臣」という新しい氏を得て、関白として天下の頂点に立ちました。しかし東には、まだ臣従していない徳川家康がいて、豊臣家の中には実の跡継ぎがいません。第39回は、この外と内の二つの宿題が同時に動き出す回になりそうです。数正と茶々、一見つながりのない二人ですが、どちらも「豊臣の天下をこの先どうつなぐか」という同じ問いの上にいます。

大阪城の天守
秀吉が石川数正を迎えた大坂城(現在の天守は昭和の復興)
目次

この回の舞台で実際に起きたこと

天正13年(1585)の秋、秀吉と家康の関係は、小牧・長久手の戦いのあとの講和でいったん落ち着いていたものの、家康は大坂へ挨拶に来ないままでした。講和のとき家康は次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として差し出していて、そのとき大坂まで付き添ったのが石川数正の子です。数正は徳川家の中で秀吉との交渉を受け持つ、いわば外交の窓口でした。

同じ年の閏8月、家康は信濃の上田城を攻めて、真田昌幸に手痛い敗北を喫します。第一次上田合戦です。きっかけは、徳川と北条が和睦したときに真田の沼田領を北条へ渡すと決めたことで、昌幸はこれを拒んで上杉景勝につき、のちには秀吉にも近づきました。ドラマで秀吉が「徳川と真田の和睦」を口にするのは、この争いを裁く立場に自分が立とうとしていることを示すものでしょう。

そして11月13日、数正は岡崎城を出て、妻子と家臣を連れて秀吉のもとへ走ります。徳川家の軍事も外交も知り尽くした重臣がいなくなったことで、家康は軍の決まりを改めざるを得なくなったと伝わります。

補助線①:石川数正はなぜ秀吉のもとへ走ったのか

出奔の理由は、いまもはっきりしていません。秀吉から誘いを受けていたという説、秀吉との交渉を担ううちに豊臣の力を誰よりもよく知り、徳川家中の強硬な空気の中で孤立したという説などがあります。ドラマで数正が大坂城で豊臣の財力に「圧倒される」場面は、この二つ目の見方に近い描き方と言えそうです。数正はのちに信濃松本で八万石を与えられ、松本城の整備にも関わったとされます。詳しくは石川数正はなぜ徳川家康から豊臣秀吉へ寝返ったのかで扱っています。

▽ よく語られる話
数正は秀吉に買収されて主君を裏切った、徳川家きっての裏切り者だ。
▼ 史実ではこうです
裏切りの理由を記した史料はなく、引き抜き説と家中で孤立した説が並んでいます。確かなのは、交渉の窓口として豊臣の実力をいちばん近くで見ていた人物が、豊臣の側を選んだということです。

補助線②:秀長が茶々を勧めたという話は本当か

秀長が秀吉に茶々を勧めたことを記す史料は見当たらず、ここはドラマの創作と考えてよさそうです。ただ、創作の筋立てには理由があります。天正13年の時点で茶々はおよそ十七歳、北ノ庄城の落城(天正11年)で母のお市を失ってからは、妹の初・江とともに秀吉の庇護のもとにいました。信長の姪で浅井長政の娘という血筋は、出自に弱みを抱える秀吉にとって何よりの「格」になります。跡継ぎを産むのが信長の血を引く女性であれば、豊臣家の正統性を補えるという計算は、当時の感覚でも十分に成り立ちます。

実際に茶々が側室になった時期ははっきりしませんが、天正16年(1588)ごろとされ、天正17年(1589)5月に淀城で鶴松を産みました。つまりドラマの第39回から、史実ではおよそ三年後のことです。なぜ父と母を死に追いやった男の側室になったのかは、茶々(淀殿)はなぜ仇・豊臣秀吉の側室になったのかで考えています。

補助線③:寧々と秀吉の側室たち

ドラマの秀吉は寧々を思って茶々を拒みますが、史実の秀吉は寧々のほかに多くの側室を持っていました。京極家出身の松の丸殿(京極竜子)、前田利家の娘の加賀殿、信長の娘の三の丸殿などで、いずれも名家の娘です。それでも子が生まれたのは、長浜時代に生まれたとされる男子を除けば、茶々だけでした。関白の妻として「北政所」と呼ばれるようになった寧々は、側室たちの上に立って奥をまとめ、豊臣家の家政を取り仕切る立場にありました。ドラマが寧々への遠慮を描くのは、この夫婦の重さを示すためでしょう。

補助線④:天正13年の跡継ぎ候補は誰だったのか

実子のいない秀吉は、この時点で何人もの養子や猶子を抱えていました。信長の四男で養子の羽柴秀勝(於次)、宇喜多秀家、家康から来た於義丸、そして姉の子で三好家から羽柴に戻った秀次です。このうち最も重い立場にあった於次秀勝は、天正13年12月に十八歳で亡くなってしまいます。跡継ぎの問題は、ドラマの中だけでなく史実でも、まさにこの時期に切実になっていました。関係は三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たち:関係図でみる後継ぎ候補で図にしています。

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浅井三姉妹のその後:茶々・初・江はなぜ敵味方に分かれたのか

大坂城で同じ屋根の下にいた三姉妹は、のちに豊臣と徳川に分かれます。その分かれ目はどこにあったのか。

次回以降に効いてくること

数正の出奔からわずか半月後の11月29日、中部から近畿を大地震が襲います。天正地震です。秀吉は正月に予定していた家康攻めを取りやめ、方針を戦から縁組へと切り替えます。第40回「あさひの輿入れ」で妹の旭が家康に嫁ぎ、第41回では母の大政所までが岡崎へ送られて、ついに家康が上洛します。その流れは天正大地震とはと旭姫と大政所にまとめています。

真田昌幸のその後と上田城の守りは、上田城はなぜ落ちなかったのかで紹介しています。

上田城跡
天正13年、真田昌幸が徳川の大軍を退けた上田城跡

よくある疑問

Q. 第39回はいつ放送ですか?
A. 十月十一日(日)の予定です。

Q. 石川数正は本当に大坂城へ呼ばれたのですか?
A. 数正が秀吉との交渉役として何度も行き来していたことは確かですが、第39回のような場面がそのまま記録にあるわけではありません。史実で大きいのは、同じ年の11月に数正が徳川家を出て秀吉に仕えたことです。

Q. 茶々はいつ秀吉の側室になったのですか?
A. はっきりした日付は伝わりませんが、天正16年ごろとされます。天正17年5月に鶴松を産みました。

Q. 茶々に「本心」を記した手紙は残っていますか?
A. 茶々自身がこの時期の気持ちを書いた史料は知られていません。だからこそドラマが自由に描ける部分でもあります。

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まとめ

第39回「茶々の本心」は、外では家康をどう従わせるか、内では豊臣家を誰につなぐかという、二つの宿題が同時に動き出す回になりそうです。史実の石川数正は11月に徳川家を出て秀吉のもとへ走り、茶々が秀吉の側室になるのはおよそ三年後のことです。秀長が茶々を勧めたという話はドラマの創作ですが、信長の血で豊臣の格を補うという発想そのものは、のちに秀吉が実際にたどった道と重なっています。放送後、ドラマでどう描かれたかをこの記事に追記します。

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