横浜一庵(よこはま・いちあん)は、豊臣秀長の家臣のなかで最も高い禄を与えられたとされる家老です。秀長が大和に入った天正十三年(1585)ごろから史料に現れ、興福寺との取次や城・社の工事を任されました。秀長の病が重くなると、跡継ぎ秀保の後見を任されます。秀保の死後は秀吉の直臣となり、伏見の大地震で命を落としました。どこから来たのかは、実はよくわかっていません。
- 実名は良慶とされ、のち出家して一庵(一晏)・大蔵卿法印と名のった。天文十九年(1550)生まれ
- 秀長に仕えるまでの経歴は不明。史料に名が出るのは秀長の大和入り以降
- 大和で五万石を領し、秀長家中で最高の禄だったとされる(二万石とする整理もある)
- 興福寺との取次、和歌山城の普請、春日社の石垣補修などを担った
- 秀長の病中、「一晏法印を代官として養子の侍従(秀保)を守り立てよ」との仰せがあったと『多聞院日記』に残る
- 文禄五年(1596)閏七月、伏見の大地震で圧死。後継の横浜茂勝は関ヶ原で西軍につき改易、その子は藤堂家に仕えた
横浜一庵とは:秀長の家中で最も高い禄を得た家老
横浜一庵は天文十九年(1550)の生まれで、実名は良慶とされます(光慶と書く誤伝もあります)。父は四郎三郎と伝わります。のちに頭を剃って一庵、あるいは一晏と号し、大蔵卿法印とも称しました。同時代の記録には「一晏法印」の名でよく登場します。
秀長の大和支配では、羽田正親・小川下野守とともに「三家老」として領国の政治を担ったとされます。大和国内で五万石を領し、これは秀長の家臣のなかで最も高い禄でした。秀長の家臣団の全体像は豊臣秀長の家臣団とはにまとめています。
秀長を支えた三家老、三者三様の最期|横浜一庵・羽田正親・小川下野守
どういう経路で秀長の家臣になったのか
ここがいちばんの謎です。一庵が秀長に仕えるまでの経歴を伝える確かな史料はありません。名前がはっきり史料に出てくるのは、秀長が大和に入った天正十三年(1585)ごろからで、そのときにはすでに兵糧米の管理を任されるほどの立場にありました。いきなり重臣として現れる人物なのです。
手がかりになるのは人のつながりです。一庵は藤堂高虎と姻戚関係にあり、妻は高虎の養女とも、高虎の妻の姉ともいわれます。藤堂家側の記録を紹介する資料には、横浜氏を近江国高島郡の出とするものもあります。秀長も高虎も近江の長浜時代に家臣を集めていますから、一庵もそのころ近江で秀長のもとに入ったのではないか、と考えることはできます。ただし、これは推測の域を出ません。
どんな人物だったのか ─ 法印を名のった実務の人
一庵には、戦場での武功を伝える話がほとんどありません。残っているのは、年貢や兵糧、知行の割り当て、寺社との交渉、普請の差配といった、国を動かす実務の記録です。頭を剃って法印を名のったのも、寺社や公家と向き合う立場にふさわしい形をとった、とみることができます。
一庵の名は、一振りの短刀にも残っています。名物「一庵正宗」です。一庵が持っていたことからその名がつき、のちに秀吉の手に渡りました。そこから京極高知に与えられ、江戸時代には将軍家や井伊家、尾張徳川家を経て、いまは徳川美術館が所蔵しています。家中最高の禄を得た家老にふさわしい、名刀の持ち主でもあったわけです。天下三名工の一人とされる正宗の刀が家臣の名で呼ばれるのは、それだけ一庵の所持が知られていたということでしょう。
検地奉行の小堀正次とは、仕事の上でも家族の上でも近い関係でした。一庵の娘の一人は小堀正次の側室となり、のちの小堀正春を生んでいます。
大和で何をしたのか ─ 寺社と城の実務

大和郡山城に復元された櫓(奈良県大和郡山市)
一庵の仕事の中心は、寺社の国・大和での実務でした。興福寺との取次をつとめ、春日社の石垣の補修を差配しています。紀伊の和歌山城では普請奉行もつとめました。天正十九年(1591)には、小堀正次と連名で方広寺の大仏殿の造営に二千五百石を出しています。
秀長の居城・大和郡山城には、一庵の名が曲輪や門の呼び名として残っていました。常盤曲輪はかつて「本丸法印曲輪」と呼ばれ、梅林門は「一庵丸門」と称されたといいます。城の一角を任されるほどの重臣だったことがうかがえます。秀長が大和をどう治めたかは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかとなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで紹介しています。
取次とは、どういう仕事だったのか
取次(とりつぎ)は、二者のあいだに立って話をまとめる役です。片方の言い分を聞き、もう片方へ伝え、落としどころを探る。大名同士のあいだにも置かれましたが、一庵が担ったのは領主と寺のあいだでした。相手の興福寺は、荘園と武装した衆徒を抱え、代々の記録と前例を蓄えている組織です。新しく入った領主の家臣がまともにぶつかって勝てる相手ではありません。村の側も、寺に納める分と領主に納める分のあいだで揺れています。取次はその全部を見ながら、角を立てずに線を引き直さなければなりませんでした。
「秀保を守り立てよ」─ 秀長の病床で任された役目
一庵と秀長の関係をいちばんよく伝えるのが、興福寺の僧が書いた『多聞院日記』の天正十八年(1590)十月二十日の記事です。そこには、一晏法印を代官として、養子の侍従(秀保)を守り立てるように、との仰せがあったと記されています。秀長の病が重くなり、跡継ぎのことが心配されていた時期でした。
翌天正十九年(1591)正月、秀長は郡山城で亡くなります。まだ少年だった秀保が大和大納言家を継ぎ、一庵はその後見役として家中を支えることになりました。秀長の家の行く末を任されたのが一庵だった、ということになります。この年に豊臣家で何が起きたのかは天正十九年に何が起きたのかで、秀長の最期は豊臣秀長とはでたどっています。
秀保の死、そして秀吉の直臣へ
しかし文禄四年(1595)、秀保は若くして急死し、大和大納言家は絶えました。大和には新たに増田長盛が入ります。一庵は増田の家臣にはならず、秀吉の直臣として仕える道を選びました。
同じ年には秀次事件も起きています。秀長の家臣たちの行き先は大きく分かれました。桑山重晴は秀吉の直臣となり、同じ三家老の羽田正親は秀次に従って連座しています。家老たちの明暗は羽田正親のその後でも比べています。
伏見の大地震での最期
一庵の最期は、戦場でも処罰でもありませんでした。文禄五年(1596)閏七月十三日、京都・伏見一帯を大地震が襲います。慶長伏見地震です。秀吉の伏見城も大きく壊れ、方広寺の大仏も損なわれました。伏見城に詰めていた一庵は、崩れた建物の下敷きになって亡くなったとされます。四十七歳でした。
大和の寺社と長年わたりあい、秀長から跡継ぎを託され、秀吉の直臣にまでなった男の、あまりにあっけない終わりでした。
一庵の家はどうなったのか ─ 茂勝と、藤堂家に残った子孫
跡を継いだのは横浜民部少輔茂勝です。一庵の子といわれますが、年齢からみて弟か甥ではないかとする見方もあります。茂勝は一万七千石を領し、伏見城の普請にも加わりました。秀吉が亡くなったときには、形見の刀を受け取っています。
ところが慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、茂勝は西軍につきました。大坂の天王寺口を守り、大和高取城や近江大津城の攻撃にも加わっています。戦後は改易となり、その後の消息ははっきりしません。
家の名をつないだのは、茂勝の子の正幸です。小堀遠州(政一)の仲立ちで、藤堂家に五百石で召し抱えられました。以後、横浜家は藤堂家の家臣として続いたと伝えられています。一庵の娘が小堀家に入り、一庵の妻が藤堂家とつながっていた縁が、ここで生きたことになります。小堀家のその後は小堀家の家系で紹介しています。
- 妻 ─ 藤堂高虎の養女とも、高虎の妻の姉とも伝わる
- 娘 ─ 小堀正次の側室となり、小堀正春を生む
- 娘 ─ 半井成近の妻
- 横浜茂勝 ─ 後継。一庵の子とも弟ともいわれる。関ヶ原で西軍につき改易
- 横浜正幸 ─ 茂勝の子。小堀遠州の仲立ちで藤堂家に仕える
五万石という数字の意味
一庵の禄は一般に五万石とされ、秀長の家中で最高でした。一方で、黒田基樹氏の家臣団の整理では、秀長直臣の一人として二万石とされています。時期によって加増があったのか、数え方の違いなのか、数字には幅があると考えておくのがよさそうです。いずれにしても、藤堂高虎や羽田正親と並ぶ、あるいはそれ以上の待遇でした。
- 横浜一庵 … 寺社との取次。いちばん面倒な相手を任された
- 羽田正親 … 小泉城主、のち宇陀松山。領地を預かる
- 小堀正次 … 検地。田を測って数字をつくる
- 藤堂高虎 … 普請。郡山城を築く
ドラマではこう描かれています
同じ三家老の羽田正親・小川下野守と、役割や得手・不得手、『豊臣兄弟!』での登場状況を比べた記事は秀長の三家老とはです。
まとめ
横浜一庵は、秀長が大和に入ったころから史料に現れ、家中最高の禄を与えられた家老でした。興福寺との取次を担い、城や社の工事も任された、寺社の国・大和を治めるための実務の要です。秀長の病中に跡継ぎ秀保の後見を任され、秀保・秀吉と主を替えながら生き延びましたが、最後は伏見の大地震で命を落としました。家は関ヶ原で途絶えかけ、藤堂家の家臣として残っています。秀長が信長の直臣だったとする近年の説は豊臣秀長は織田信長の直臣だったのかで紹介しています。
参考文献
- 『多聞院日記』
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館
- 徳川美術館 所蔵品「一庵正宗」

