豊臣秀長が大和を治めたとき、領国の政治を支えたとされるのが「三家老」、横浜一庵・羽田正親・小川下野守の三人です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、羽田正親がひと足先に第37回「秀長の国」から登場し、平埜生成さんが演じています。残る横浜一庵と小川下野守は、いまのところ配役が発表されていません。この二人は登場するのか、するならどの回から、誰が演じるのか。三人の役割と得手・不得手とあわせて見ていきます。
- 三家老は、横浜一庵・羽田正親・小川下野守の三人とされる
- 羽田正親は第37回「秀長の国」で登場。演じるのは平埜生成さん
- 横浜一庵・小川下野守は、いまのところ配役の発表がない
- 一庵は寺社との交渉と実務、羽田は城と領地の守り、小川は伝承では戦場での機転と、得意分野がはっきり分かれる
- 「三家老」という呼び方自体は後世の整理で、家老の筆頭を桑山重晴とみる研究者もいる
秀長の三家老とは

広間で秀長の前に並ぶ家臣たちのイメージ(イラスト)
天正十三年(1585)、秀長は兄の秀吉から大和・紀伊・和泉を与えられ、百万石の大名として大和郡山城に入りました。寺社の力が強い大和を治めるには、戦のうまさよりも交渉と実務の力が必要です。このとき領国の政治の中心にいたとされるのが、三人の家老でした。秀長の家臣団全体は豊臣秀長の家臣団とはで紹介しています。
三人は、得意分野も、秀長の死後にたどった道も、まったく違います。一人は家中最高の禄を得て跡継ぎの後見を任され、一人は主家が絶えたあと秀次事件に巻き込まれ、一人は記録から姿を消しました。
『豊臣兄弟!』での登場状況 ── いまわかっていること
| 家老 | ドラマでの配役 | 登場 |
|---|---|---|
| 羽田正親 | 平埜生成 | 第37回「秀長の国」から登場 |
| 横浜一庵 | 未発表 | まだ登場していない |
| 小川下野守 | 未発表 | まだ登場していない |
大和郡山編は第37回「秀長の国」から始まり、第38回「和を以て、大和をなす」へと続きます。羽田正親はキャスト発表で「名補佐役の補佐役」と紹介されていました。家老が一人だけ先に出てきたわけですから、残る二人がこれから加わるのか、それとも羽田が三人分の役回りを背負うのか、気になるところです。各回の史実は第37回「秀長の国」史実解説と第38回「和を以て、大和をなす」で解説しています。
羽田正親 ── ひと足先に登場した「名補佐役の補佐役」
羽田正親は近江国の羽田村の出身とされ、賤ヶ岳の戦いのころにはすでに秀長の家臣として名前が見えます。秀長が大和に入ると添下郡で四万八千石を与えられ、小泉城の城主となりました。のちには大和と伊勢を結ぶ要地、宇陀松山城へ移ったとされます。
秀長の死後は秀保に仕え、秀保が亡くなったあとは秀次との関係が深まります。そして文禄四年(1595)の秀次事件に連座し、世を去ったと伝わります。詳しくは羽田正親とはと、羽田正親のその後で紹介しています。
横浜一庵 ── 家中最高の禄と、秀保の後見
横浜一庵(良慶)は、秀長の家臣のなかで最も高い五万石を得たとされる家老です。興福寺との取次をつとめ、春日社の石垣の補修や和歌山城の普請を任されました。秀長の病が重くなると、興福寺の僧が書いた『多聞院日記』に「一晏法印を代官として、養子の侍従(秀保)を守り立てるように」との仰せが記されています。秀長の家の行く末を任された人物でした。
秀保の死後は秀吉の直臣となり、文禄五年(1596)の伏見の大地震で命を落としました。秀長に仕えるまでの経歴はわかっていません。詳しくは横浜一庵とはをどうぞ。
- 大和の寺社との交渉が描かれる場面で、秀長の横に控える交渉役として
- 秀長の病が重くなり、跡継ぎの秀保のことが語られる場面で
- 剃髪した「法印」の姿で登場すれば、ほかの家臣との見分けもつきやすい
小川下野守 ── 記録から消えた謎の家老
三人のなかで、もっとも謎が多いのが小川下野守です。近江の出身で、浅井長政、明智光秀を経て秀長に仕えたと伝わりますが、これは主に軍記物の『太閤記』が伝える話です。賤ヶ岳の戦いのあと、岐阜城の前で大声を上げて城兵の気勢をくじいたという逸話も残ります。
ところが秀長の死後、下野守の名は記録から消えてしまいます。その正体を、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小川祐忠とする説もあります。確かな史料が少ないぶん、ドラマでどう描いても史実と矛盾しにくい、脚本家にとっては自由に動かせる人物ともいえます。詳しくは小川下野守とはで紹介しています。
- 大和入りの場面で、三家老の一人として顔をそろえる
- 戦の場面で、声で相手の気勢をくじく豪胆な武将として
- 秀長の死後に姿を消す、謎を残した人物として
三人の役割と得手・不得手
三人を並べると、秀長が家老たちに何を任せていたのかが見えてきます。「得手」は記録や伝承に残る仕事から、「不得手」は記録に見えない分野や、結果として足をすくわれた点から考えたものです。記録がないことは、必ずしも苦手だったことを意味しない点には注意してください。
| 横浜一庵 | 羽田正親 | 小川下野守 | |
|---|---|---|---|
| おもな役割 | 寺社との取次、普請、財務などの実務 | 城と領地を預かる | 戦場での働き(伝承) |
| 得手 | 興福寺のような手ごわい相手との交渉。城や社の工事の差配 | 要地の城を任され、領地を治める。小泉から宇陀松山へ | 機転と胆力。岐阜城の前で大声を上げた逸話 |
| 不得手・弱み | 戦場での武功を伝える話がほとんどない | 主家が絶えたあと、秀次との近さが命取りになった | 行政の記録がほとんどなく、実像が見えない |
| 禄 | 五万石とされる | 四万八千石 | 一万五千石とも三万五千石とも |
| 秀長の死後 | 秀保の後見、のち秀吉の直臣 | 秀保、のち秀次に近づく | 記録から消える |
| 最期 | 伏見の大地震で死去 | 秀次事件に連座 | 不明(小川祐忠と同一人物説も) |
ここに、田を測って年貢の基準をつくった検地奉行の小堀正次、城づくりを担った藤堂高虎が加わります。交渉、守り、検地、普請と、仕事がきれいに分かれていたことがわかります。大和という難しい国を治めるために、秀長は得意分野の違う家臣を組み合わせていたのです。秀長がどう大和を治めたかは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで紹介しています。
そもそも「三家老」は確かな呼び名なのか
大和郡山で三人の足跡をたどる
三人の名は、大和郡山の町と城にいまも痕跡を残しています。郡山城の常盤曲輪はかつて「本丸法印曲輪」、梅林門は「一庵丸門」と呼ばれ、横浜一庵の名が城の呼び名になっていました。城下には、小川下野守の屋敷に由来するという「小川町」の伝えがあります。羽田正親が移った宇陀松山城は、城跡として石垣が残っています。秀長が郡山をどう育てたかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで紹介しています。
ドラマではこう描かれています
三家老のほかにも、秀長の家中には尾藤知宣(尾藤知宣とは)、加藤光泰(加藤光泰とは)、本多利久・宇多頼忠(本多利久と宇多頼忠とは)といった重要な家臣がいました。
まとめ
秀長の三家老は、交渉と実務の横浜一庵、城と領地の羽田正親、伝承では戦場の機転で知られる小川下野守と、得意分野のはっきり分かれた三人でした。ドラマでは羽田正親が平埜生成さんの配役でひと足先に登場しています。残る二人は登場するのか、するならどの回から、誰が演じるのか。大和郡山編の今後が楽しみです。秀長の生涯全体は豊臣秀長とはからどうぞ。
参考文献
- 『多聞院日記』
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 小瀬甫庵『太閤記』
- 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館

