『豊臣兄弟!』間宮祥太朗が演じる才蔵は筆のほかに何を売った? 郡山の町名と多聞院日記から読む戦国奈良の商い ─ 綿・藍染・茶・豆腐から刀、赤膚焼の伝承まで

戦国時代の郡山城下、綿や藍染の布、茶、豆腐、魚と塩を並べた商人町のイメージ
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』の才蔵が筆のほかに何を扱っていたのかは、放送前の時点ではわかりません。また、戦国時代の奈良の筆屋が筆以外に何を売っていたかを具体的に示す記録も、今回調べたかぎりでは見つかりませんでした
  • そのかわり、才蔵が移り住んだ郡山の城下には「何を売る町か」が名前に残っています。綿町・紺屋町・茶町・豆腐町・魚塩町・材木町・藺町・雑穀町と、箱本十三町の名前はそのまま当時の商品の一覧のように読めます
  • 秀長が奈良の商売を止めたときの『多聞院日記』には、味噌・酒・柴木・菜・海苔・硫黄という暮らしの品々が書きとめられています
  • 豆腐の古い記録が残る春日社、東大寺転害門の前で刀を打った手掻派、秀長が始めたと伝わる赤膚焼(ただし史料の裏づけはありません)など、筆と墨以外の奈良の産業もあわせて紹介します

『豊臣兄弟!』で間宮祥太朗さんが演じる才蔵は、奈良の筆屋として登場します。では、才蔵の店には筆のほかにどんな商品が並んでいたのでしょうか。筆と墨については奈良筆とはと奈良墨とはでくわしく取りあげ、晒や酒といった南都の名産品は姉妹サイト「戦国武将図鑑」の才蔵が扱った南都の名産 ― 奈良の筆・墨・晒・酒で紹介していますので、この記事では少し角度を変えて、才蔵が暮らした郡山の「町の名前」と、同じ時代の日記に書かれた「品物の名前」から、戦国の奈良と郡山でどんなものが売り買いされていたのかをたどってみます。

大和郡山城の天守台から見おろす郡山の町
大和郡山城の天守台から見おろす郡山の町。秀長の時代、ここに同じ商いの人びとを集めた町がつくられました
目次

才蔵の店に、筆のほかに何があったのか

先に結論を書くと、才蔵が筆のほかに何を扱っていたのかは、わかっていません。才蔵はドラマのために生み出された人物で、特定のモデルも確認できないため(才蔵のモデルはいたのか)、史料から店の品ぞろえを知ることはできないのです。ドラマの中で筆以外の商品が描かれるかどうかも、放送前の時点では不明です。

では、戦国時代の奈良の筆屋一般ならどうでしょうか。江戸時代になると、筆と墨、紙などをあわせて商う「筆墨商」が各地に見られるようになりますが、戦国の奈良の筆屋が筆のほかに何を店に並べていたのかを具体的に示す記録は、今回調べたかぎりでは見つかりませんでした。奈良の墨は興福寺の灯明のすすから生まれたとされ、筆と墨は同じ寺社の需要に支えられていましたから、筆屋が墨を扱っていても不思議ではありませんが、それはあくまで推測にとどまります。

そこでこの記事では、才蔵ひとりの店ではなく、才蔵が生きた町全体に目を向けてみます。手がかりになるのは、郡山の町名と、『多聞院日記』の記録です。

手がかり①:町の名前が「商品の一覧」になっている郡山

秀長は天正13年(1585)に郡山城に入ると、奈良や周辺の町から商人を集め、同じ商いの人びとを同じ町に住まわせて、町ごとに営業の特権を与えました。この町々がのちに「箱本十三町」と呼ばれる自治のしくみのもとになるのですが(箱本十三町とは)、面白いのはその町名で、十三町の名前を並べてみると、そのまま当時の郡山で売り買いされていた商品の一覧のように読めるのです。

町名 名前が示す商い ひとこと
本町 町の中心(さまざまな商い) 城下の中心となった町。鍛冶屋町はその枝町とされます
魚塩町 魚と塩 海のない大和に、海の魚と塩を運び込んで売る町
柳町 (由来ははっきりしません) 町名から商いの中身を読み取ることはできません
今井町 (地名に由来) 大和の今井(現在の橿原市)から移った人びとの町と伝わります
堺町 (地名に由来) 堺から移った商人の町と伝わります
奈良町 (地名に由来) 奈良から移った人びとの町と考えられます
材木町 材木 城と城下の普請に欠かせない材木を扱う町
豆腐町 豆腐 豆腐をつくって売る町
紺屋町 藍染(染物) 藍で布を染める紺屋の町
茶町 茶 茶を商う町
綿町 綿 綿を扱う町
藺町 藺草(い草) 畳表やござの材料になる藺草を扱う町
雑穀町 雑穀 米以外の穀物を扱う町

十三町のうち、町の中心だった本町、地名に由来する三つの町、由来のわからない柳町をのぞく八つの町が、商品の名前をそのまま町名にしています。綿、藍染、茶、豆腐、魚と塩、材木、藺草、雑穀と、いずれも寺社や武家のための高級品というより、人びとの暮らしや城下の普請を支える品々です。才蔵が郡山に移ったとすれば、その店のまわりではこうした品が日々売り買いされていたことになります。

ただし、それぞれの町に何軒の店があり、どれほどの商いがあったのかまではわかっていません。天正16年(1588)の「郡山惣町分日記」に町名が見えることから、少なくとも秀長の時代にこうした名前の町があったことは確かですが、町名どおりの商いがいつまで続いたのかも、町によってまちまちだったと考えられます。

手がかり②:『多聞院日記』が書きとめた「奈良で売ってはならない品」

もうひとつの手がかりは、興福寺の僧・英俊が書いた『多聞院日記』です(多聞院日記とは)。天正13年10月15日の条には、前日から奈良中の商売が止められ、郡山で売り買いするよう命じられたことが書かれていて、そこに挙げられているのが味噌、酒、柴木、菜、海苔、硫黄といった品々です。

郡山城と城下町のにぎわいのイメージ
郡山城と城下町のにぎわいのイメージ(イラスト)

並んでいるのは、どれも毎日の暮らしに欠かせないものばかりです。柴木は煮炊きや暖をとるための薪、菜は野菜のことで、海苔は海のない大和では外から運ばれてくる品でした。硫黄は、火をつけるときに使う「付木」の材料や薬、火薬の原料にもなりましたが、奈良で何に使われていたかまでは日記からはわかりません。こうした品が名指しされていることから、秀長が郡山へ移そうとしたのは筆や墨のような名産品だけでなく、奈良の町の暮らしを支える商いそのものだったことが読み取れます。

町名の一覧と日記の品物の一覧を重ねると、戦国の終わりの奈良と郡山の店先が、少しだけ見えてきます。高級な名産品の陰で、味噌や薪、野菜、豆腐、塩といった品を商う人びとがいて、才蔵のような職人の店も、その中にあったはずです。なぜ奈良の商人たちが移転を拒んだのかは、座とはと才蔵と奈良の豪商はなぜ対立したのかで扱っています。

奈良の暮らしの品①:豆腐 ─ 古い記録が残る春日社

郡山に豆腐町があることは先に見ましたが、奈良と豆腐の結びつきは古く、寿永2年(1183)、春日若宮の神主・中臣祐重の日記に、供え物として「唐符」と書かれたものが見え、これが豆腐を指す日本で最も古い記録のひとつとされています。豆腐は中国から伝わった食べ物で、肉を口にしない僧侶の精進料理とともに、寺院の多い奈良で早くから親しまれていたと考えられます。

戦国時代の豆腐がどのように作られ、町でどれほど売られていたかはよくわかりませんが、郡山に「豆腐町」という町がわざわざつくられたことは、豆腐が城下の人びとにとって日々の食べ物になっていたことをうかがわせます。

奈良の暮らしの品②:茶・藍染・綿 ─ 町名に残る大和の産物

茶町の「茶」も、奈良とゆかりの深い品です。大和の茶は、空海が唐から持ち帰った茶の種を宇陀の佛隆寺に植えたのが始まりと伝わりますが、これは伝承です。ただ、茶の湯の祖とされる村田珠光は奈良の出身で、戦国時代の奈良では寺の僧や商人のあいだで茶の湯がさかんに行われていましたから、茶を商う町が城下に置かれたのは自然なことでした。

紺屋町は、藍で布を染める紺屋の町です。いまも大和郡山市に町名が残り、町の中を細い水路が流れていて、この水路は紺屋が染めた布を洗うのに使われたと伝わります。町には藍染の歴史を伝える「箱本館『紺屋』」があり、藍染の体験もできます。綿町の「綿」は、戦国時代に各地へ広まりはじめた木綿のことで、大和は江戸時代には綿づくりのさかんな土地として知られるようになりますが、秀長の時代の郡山でどれほどの綿が商われていたかはわかっていません。

奈良の名産③:刀 ─ 東大寺転害門の前にいた刀鍛冶

奈良は、刀の世界でも古い産地です。日本刀の五つの大きな流れ「五箇伝」のひとつに「大和伝」があり、大和には千手院・当麻・尻懸・保昌・手掻という五つの派があったとされます。なかでも手掻派は、鎌倉時代の刀工・包永を祖とし、東大寺の西北にある転害門(てがいもん)の前に住んで刀を打ったことから、その名がついたといわれます。

大和の刀鍛冶は、興福寺や東大寺といった大寺院のもとで発展したと考えられていて、寺社の力が強かった大和ならではの産業でした(興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのか)。ただ、戦国時代には美濃や備前の刀が大量に作られるようになり、大和の刀鍛冶に鎌倉・南北朝のころほどの勢いはなかったとみられます。郡山の城下に鍛冶屋町があったことは先に触れましたが、そこでどんな鍛冶が働いていたのかはわかっていません。転害門は今も東大寺に残る門で、奈良時代の姿を伝える数少ない建物のひとつです(東大寺)。

奈良の名産④:赤膚焼 ─ 「秀長が始めた」という伝承と史実

郡山の焼き物として知られる赤膚焼には、天正年間に秀長が尾張の常滑から陶工の与九郎を招いて窯を開かせたのが始まり、という話が伝わっています。秀長ゆかりの名産として紹介されることも多いのですが、この話を裏づける同時代の史料や作品は見つかっていません。

▽ よく語られる話
赤膚焼は、秀長が尾張の常滑から陶工の与九郎を招いて始めさせた、秀長ゆかりの焼き物である。
▼ 史実ではこうです
秀長と与九郎の話は伝承で、それを裏づける当時の記録や作品は見つかっていません。赤膚焼の歩みがはっきりたどれるのは江戸時代の後半からで、郡山藩主の柳沢保光が寛政元年(1789)ごろに五条山(赤膚山)に藩の窯を築かせ、幕末には奥田木白が名を高めました。

それでも、「秀長が職人を招いた」という伝承が生まれたこと自体は、郡山の人びとが城下の産業のはじまりを秀長に重ねて記憶してきたことを物語っています。秀長の城下づくりが、のちの時代にまで大きな印象を残していたことの表れと言えるでしょう。

筆と墨、晒と酒について

才蔵の本業である筆、そして筆と対になる墨については、奈良筆とはと奈良墨とはでくわしく紹介しています。また、奈良晒(麻布)や、正暦寺の僧坊酒に始まる奈良の酒など、南都を代表する名産品は、姉妹サイト「戦国武将図鑑」の才蔵が扱った南都の名産 ― 奈良の筆・墨・晒・酒でまとめています。この記事とあわせて読むと、戦国の奈良で、名高い名産品と暮らしの品の両方がどのように商われていたかが見えてきます。

郡山の町を歩いて、商いの名残をさがす

大和郡山の城下には、紺屋町や豆腐町、茶町、綿町など、十三町の名前の多くがいまも町名として残っています。紺屋町の水路と箱本館「紺屋」を訪ね、町名の表示をたどりながら歩けば、城跡の大和郡山城とあわせて、秀長がつくった「商いの町」の骨組みを地図の上で確かめることができます。

よくある疑問

Q. 才蔵は筆以外に何を売っていたのですか?
A. 才蔵はドラマの人物で、筆以外の品ぞろえを示す史料はありません。ドラマで筆以外の商品が描かれるかどうかも、放送前の時点ではわかっていません。

Q. 戦国時代の奈良の名産品は何ですか?
A. 筆・墨・晒(麻布)・酒がよく知られています。そのほか、大和伝の刀や、豆腐、茶など、寺社の多い奈良ならではの品も古くから作られていました。

Q. 赤膚焼は秀長が始めたのですか?
A. そう伝わっていますが、裏づける同時代の史料はありません。窯の歴史がはっきりするのは江戸時代後半、郡山藩主・柳沢保光の時代からです。

Q. 郡山の町名にはどんな商売の名前がありますか?
A. 箱本十三町には、綿町・紺屋町・茶町・豆腐町・魚塩町・材木町・藺町・雑穀町と、商品の名前をそのまま町名にした町が多くあります。

まとめ

『豊臣兄弟!』の才蔵が筆のほかに何を扱っていたのかは、記録がなく、わかりません。けれども、才蔵が暮らした郡山の町名と『多聞院日記』の記録を手がかりにすると、当時の奈良と郡山の店先には、綿や藍染の布、茶、豆腐、魚と塩、材木、味噌や薪といった暮らしの品々が並んでいたことが見えてきます。筆や墨のような名産の陰で、こうした品を商う人びとが秀長の城下町を支えていたのです。第38回で描かれる郡山の城下にそんな店先が映るかどうか、第38回のあらすじ予想と史実や筆者の勝手な予想とあわせて、注目して見てみてください。

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