大和の戦国時代とは:守護のいない国に、木沢長政・松永久秀・原田直政・筒井順慶が入れ替わり、秀長の国になるまで

山城の上から奈良盆地を見下ろす老将・松永久秀(イメージイラスト)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」で、豊臣秀長は大和一国を与えられ、郡山城に入ります。けれども、秀長が来る前の大和は、ほかの国とは大きく違う道をたどってきた国でした。

この記事では、守護のいない国だった大和に、畠山家や細川家の家臣、三好家の松永久秀、織田家の原田直政、そして筒井順慶が次々と入れ替わり、最後に秀長の国になるまでを順にたどります。

目次

大和には、守護がいませんでした

室町時代、多くの国には幕府が任じた守護大名がいました。ところが大和には守護所が置かれず、奈良の興福寺が実質的に守護の役割を果たしていたとされます。

興福寺のもとで実際に武力を持っていたのが、「衆徒」や「国民」と呼ばれる地元の武士たちです。筒井・越智・十市・箸尾・古市といった家が、寺に属しながら力をたくわえていきました。くわしくは「衆徒とは何者か」で紹介しています。

筒井と越智の争いに、畠山家の内紛が重なりました

十五世紀半ばになると、河内の畠山家が家督をめぐって二つに割れ、その争いが大和にも持ち込まれました。筒井家は畠山政長の側に、越智家は畠山義就の側について戦い、筒井城はたびたび攻防の舞台になっています。

大和の武士たちは、互いに争いながらも、外の大きな勢力と結びつくことで生き残ろうとしました。この構図は戦国時代の終わりまで続きます。

外から入ってきた武将たち——柳本賢治と木沢長政

十六世紀に入ると、畿内の実力者の家臣たちが大和に兵を入れるようになります。細川晴元の側に立った柳本賢治は、享禄元年(1528年)に大和へ出陣しています。

続いて大和で力を持ったのが、畠山家の家臣から身を起こした木沢長政です。長政は天文六年(1537年)ごろから筒井家と結んで越智家を押さえ、信貴山城や二上山城を築いて大和を事実上支配しました。しかし天文十一年(1542年)、河内の太平寺の戦いで敗れて討ち死にしています。信貴山城については「信貴山城跡」で紹介しています。

筒井順慶の幼い家督と「元の木阿弥」

木沢長政のあと、大和で力を強めたのが筒井順昭でした。しかし順昭は天文十九年(1550年)、二十八歳の若さで病死します。跡を継いだ順慶は、わずか二歳でした。

順昭が死んだとき、その死をしばらく隠すために、声の似た木阿弥という男を身代わりにしたという話が伝わります。死が公表されると木阿弥は元の身分に戻されたことから、「元の木阿弥」という言葉が生まれたとされます。この話は「筒井城跡」でも紹介しています。

三好長慶の家臣・松永久秀がやってきました

永禄二年(1559年)、畿内を押さえた三好長慶の重臣・松永久秀が大和に攻め込みました。久秀は信貴山城を拠点に大和の武士たちを従え、奈良の北には多聞山城を築きます。

幼い順慶の筒井家は押し込まれ、永禄八年(1565年)には筒井城も奪われました。順慶は翌年、三好三人衆と手を組んで筒井城を取り戻しますが、その後も久秀との争いは長く続きます。久秀の人物像は「松永久秀は本当に「三悪」を働いたのか」、城については「多聞山城跡」で紹介しています。

信長が送り込んだ大和守護・原田直政

織田信長が畿内を押さえると、大和の支配も信長の手に移っていきます。天正三年(1575年)、信長は家臣の塙直政(この年に原田の姓を与えられ、原田直政と名乗ります)を大和守護に任じ、多聞山城の城主としました。直政は前の年から山城守護もつとめており、筒井順慶ら大和の武士の多くがその配下に入りました。

しかし直政は翌天正四年(1576年)、石山本願寺との戦いで討ち死にします。直政が拠点とした城のひとつは「槇島城跡」で紹介しています。

筒井順慶が大和一国を任されました

原田直政の戦死からまもない天正四年五月、信長は大和一国の支配を筒井順慶に任せました。翌天正五年(1577年)、信長に背いた松永久秀は信貴山城で滅び、十八年におよんだ順慶と久秀の争いに決着がつきます。

光秀と滝川一益が、大和で指出をさせました

天正八年(1580年)、信長は大和の城を順慶の郡山城などを除いて壊させ、さらに寺社や武士たちに土地の広さや収穫を書き出させる「指出」を命じました。この仕事のために大和に入ったのが、明智光秀と滝川一益です。

大和の寺社が持っていた土地の実態が、このとき外から調べられたことになります。のちに秀長が大和で行う寺社領の整理は、この延長線上にありました。

本能寺の変と洞ヶ峠

天正十年(1582年)、明智光秀が本能寺で信長を討ちます。光秀とかかわりの深かった順慶には、光秀から味方になるよう誘いがありました。順慶は結局動かず、羽柴秀吉の側につきます。このときのためらいから、形勢をうかがうことを「洞ヶ峠をきめこむ」と言うようになったとされますが、実際に順慶が洞ヶ峠に陣を張ったわけではないとも言われます。

筒井家が伊賀へ移り、秀長の国になりました

順慶は天正十二年(1584年)に三十六歳で亡くなり、養子の定次が跡を継ぎました。しかし翌天正十三年(1585年)、秀吉は筒井家を伊賀へ移し、大和・紀伊・和泉を弟の秀長に与えます。秀長は郡山城に入り、百万石余りの大名となりました。

守護のいない寺社の国として長く続いてきた大和は、ここでようやく一人の大名がまとめて治める国になったのです。秀長がこの国をどう治めたのかは「秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか」、郡山城については「大和郡山城」、秀長が大和を与えられた理由は「なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか」で紹介しています。

大和の戦国をたどる年表

  • 十五世紀半ば:畠山家の内紛が大和に広がり、筒井と越智が争う
  • 享禄元年(1528年):柳本賢治が大和へ出陣
  • 天文六年(1537年)ごろ:木沢長政が大和を押さえ、信貴山城を築く
  • 天文十一年(1542年):木沢長政、太平寺の戦いで討ち死に
  • 天文十九年(1550年):筒井順昭が病死、順慶が二歳で家督
  • 永禄二年(1559年):松永久秀が大和に侵攻
  • 永禄八年(1565年):筒井城が久秀に奪われる(翌年奪回)
  • 天正三年(1575年):原田(塙)直政が大和守護に
  • 天正四年(1576年):直政が戦死、順慶が大和一国を任される
  • 天正五年(1577年):松永久秀が信貴山城で滅ぶ
  • 天正八年(1580年):城割と指出(明智光秀・滝川一益)
  • 天正十年(1582年):本能寺の変、順慶は秀吉方に
  • 天正十二年(1584年):順慶が死去、定次が継ぐ
  • 天正十三年(1585年):筒井家が伊賀へ移り、秀長が大和に入る

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